セリナ編 第十三章 エレナの誕生日② 入学前夜
誕生日の翌日。昼間はいつも通りだったはずなのに、体の奥に残った余韻のせいか、夜になると一気に疲れが押し寄せてきた。
夕食を終え、片づけも一段落した頃、僕は居間の端に敷かれた敷物の上に腰を下ろした。最初はちゃんと起きていようと思っていたのに、気づけば背中を壁に預け、目を閉じていた。家族の声、食器の触れ合う音、火の始末をする母さんの足音――それらが子守唄みたいに重なって、意識がゆっくり沈んでいく。
完全に眠りに落ちる直前、母さんと父さんの声が聞こえた。
「……エレナも、もう学校に行くのね」
母さんの声は、少し低く、柔らかかった。誰かに聞かせるためじゃなく、自分の気持ちをそっと外に出すような声だ。
「寂しくなるわ」
その一言に、胸の奥がひくりと動く。眠っているふりをしながら、僕は意識を戻した。体は動かさず、呼吸だけをゆっくり整える。
「今まで、セリナ、ルーメン、エレナって……順番に、一日中一緒に過ごしてきたでしょう」
母さんはそう言って、少し言葉を探すように間を置いた。
「セリナが学校に行くようになって、次はルーメン。その次はエレナ。エレナが学校に行ってる間、母さん……一人になっちゃうのよね」
その声は、責めるようでも、泣き言でもなかった。ただ、事実を受け止めようとしている音だった。分かっているけれど、割り切れない。そんな気持ちが滲んでいる。
「でも、エレナも大人になっていくんだもの。仕方ないわよね……」
最後の言葉は、ほとんど独り言だった。
しばらく沈黙が流れた。父さんが何かを考えている気配が、音にならないまま伝わってくる。
「……そうだな」
父さんの声は低く、落ち着いていた。
「俺たちも大人になって、こうやって子供を持った。だからさ、子供たちにも元気に成長してもらわないといけない」
父さんはゆっくり言葉を選んでいた。母さんを否定しないように、でも現実から目を逸らさないように。
「そのうち、家庭を持って、俺たちから離れていく。寂しいのは分かる。でもな……子供は、巣立っていくもんだ」
巣立つ。その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
「だからこそ、応援してやらなきゃいけないんだろ。寂しいからって引き留めたら、あいつらの未来を狭めることになる」
父さんの言葉は、強くもなく、説教じみてもいなかった。ただ、覚悟の滲んだ言葉だった。親として、受け入れる覚悟。
母さんは小さく息を吐いた。
「……分かってるのよ。頭では、ちゃんと分かってる」
それから、少しだけ声が震えた。
「でもね、ずっと一緒にいるから……その分、寂しくなるの」
その瞬間、胸の奥が締めつけられた。前世の記憶が、不意に浮かび上がる。
俺は、娘の成長を、どう受け止めていたんだろう。
仕事に追われて、帰りは遅くて、休日も疲れて寝てばかりだった。成長していく姿を、ちゃんと見ていただろうか。学校に行くようになった時、友達が増えた時、少しずつ自分の世界を広げていった時――その一つ一つに、寂しさを感じていた妻の気持ちに、どれだけ気づけていたのか。
父さんの言葉に同感していた、あの頃の自分。
でも、母さんの今の声を聞いて、ようやく分かる。
理屈と感情は、別なんだ。
正しいからといって、寂しくならないわけじゃない。応援すると決めたからといって、心が追いつくとは限らない。母さんは、ちゃんと分かっている。それでも、寂しい。だからこそ、この言葉は誰にも向けられず、夜の居間に溶けていく。
父さんは、しばらく黙っていた。それから、少し柔らかい声で言った。
「……なあ。寂しい時は、寂しいって言えばいい」
母さんが驚いたように息を吸う音がした。
「我慢しすぎなくていい。俺だって寂しいんだから」
その一言で、空気が少しだけ緩んだ気がした。
母さんは小さく笑った。
「……そうね。ありがとう」
それ以上、二人は何も言わなかった。でも、十分だった。
僕は目を閉じたまま、その会話を胸に刻む。
家族は、成長する。離れていく。それでも、繋がりは消えない。
前世では、気づくのが遅すぎた。今世では、まだ間に合う。
だからこそ、守りたい。この家族の時間を。この静かな夜を。そう思ったところで、意識がまた深く沈んでいった。
それから少し時が流れた。
エレナの誕生日の余韻がまだ家の中に残っている頃、季節はゆっくりと次の段階へ進んでいた。
朝の空気が、ほんの少しだけ変わった。夜明け前の冷たさが薄れ、窓から差し込む光がやわらかくなる。そんな変化に気づくようになると、自然と「次」が近づいているのだと分かる。
エレナが、もうすぐ学校に通う。
その事実は、家族全員が分かっている。けれど、誰も大げさに言葉にはしなかった。まるで、口に出した途端に時間が進んでしまうのが怖いみたいに。
その日の朝も、いつも通りに始まった。
台所から聞こえてくる鍋の音、パンを焼く匂い、父さんが裏庭で素振りをする気配。セリナ姉は既に起きていて、エレナの髪を結ぶ準備をしていた。
「エレナ、じっとしてて。すぐ終わるから」
「うん!」
エレナは元気よく返事をする。
小さな体はまだ落ち着きがなく、椅子の上で足をぶらぶらさせている。
「もうすぐ学校なんだから、ちゃんとできるようにならなきゃね」
セリナ姉はそう言いながら、手つきはとても丁寧だった。結び目が痛くならないように、強く引っ張らないように。エレナが嫌がらないよう、途中で声をかけながら。
その様子を見て、僕は少しだけ胸が温かくなる。やっぱり、セリナ姉はお姉ちゃんなんだ。自然体で、当たり前のように、誰かを守る位置に立っている。
母さんは台所から顔を出した。
「エレナ、もう少ししたら学校ね」
その声は明るく、でもどこか慎重だった。
昨日の夜の会話を知っているのは、父さんと僕だけだ。でも、母さんの言葉の端々には、あの夜の想いが滲んでいる。
「困ったことや、分からないことがあったら、どうするんだっけ?」
母さんがそう聞くと、エレナは胸を張った。
「セリナ姉ちゃんか、ルーメン兄ちゃんに、すぐ言う!」
「そう。ちゃんと覚えてるわね」
母さんは安心したように笑う。
「それからね、父さんがいる日は?」
「父さんにも言う!」
エレナの返事は、いつも通り元気いっぱいだった。
その様子を見て、父さんが庭から戻ってくる。
「よし、よくできた」
父さんはエレナの頭に大きな手を置いた。
「学校はな、楽しいところだぞ」
エレナはぱっと顔を上げる。
「ほんと?」
「ああ。剣術も魔術も学べる。できることが、どんどん増えていく」
父さんは真剣な顔で、でも優しく続けた。
「父さんも、セリナも、ルーメンも、みんな近くにいる。だから心配することはひとつもない」
その言葉は、エレナに向けたものだけじゃなかった。
母さんにも、セリナ姉にも、そして自分自身にも言い聞かせているようだった。
「学校、たのしみ!」
エレナは跳ねるように言った。
「早く学校行きたい!」
その無邪気さに、少しだけ胸が痛む。
知らないからこそ、こんなにもまっすぐ期待できる。
セリナ姉は、エレナの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「何かあったら、すぐお姉ちゃんに言ってね」
エレナは頷く。
「お姉ちゃん、強いから」
セリナ姉は笑いながら、でもはっきりと言った。
「絶対にエレナのこと、守ってあげるから。大丈夫だよ」
エレナはぎゅっとセリナ姉に抱きついた。
「お姉ちゃん、好き。守ってね!」
「うん。任せなさい」
その光景を見て、僕も一歩前に出る。
「頼りない兄ちゃんだけどさ」
エレナは僕を見る。
「エレナのことは、ちゃんと守るから。大丈夫だよ」
自分で言っておいて、少し照れくさい。でも、嘘じゃない。
この家族を守りたいという気持ちは、本物だ。
「うん、わかった!」
エレナは満足そうに頷いた。
こうして見ると、家族の役割は自然に決まっているように思える。
父さんは背中で示す人。
母さんは包み込む人。
セリナ姉は前に立つ人。
そして僕は、その隙間を埋める存在。
いよいよ、エレナも入学する。
三人揃って学校に通う日々が、もうすぐ始まる。期待と不安が入り混じった空気の中で、朝は静かに進んでいった。
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