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セリナ編 第十三章 エレナの誕生日① 甘いフルーツ

第十三章 エレナの誕生日


エレナが三歳になった朝は、いつもより少しだけ早く始まった。まだ太陽が完全に顔を出す前から、家の中には小さな音が増えていく。台所の方から聞こえてくる、鍋と木べらが触れ合う音。水を張った桶に野菜を洗う音。薪がはぜる、控えめで温かな音。

目を閉じたままでも分かる。今日は特別な日だ。

布団の中で寝返りを打つと、微かに甘い匂いが鼻先をくすぐった。果実だ。最近、イーストレイク方面から来る商人が扱い始めた、あの高価な甘い果実の匂い。普段ならまず食卓に並ぶことはない。


でも、今日はエレナの誕生日だ。居間に行くと、母さんがすでに動いていた。髪を後ろでまとめ、袖をまくり、慣れた手つきで料理を進めている。その背中は忙しそうなのに、不思議と余裕があった。

「おはよう、ルーメン。早いわね」

「おはよう、母さん」

そう返すと、母さんは少しだけ目を細めた。たぶん、気づいている。僕が“特別な日”を意識して早く起きてきたことを。

「エレナ、まだ寝てる?」

「ええ。さっき一度起きかけたけど、セリナが『まだ内緒よ』って言って、もう一度寝かせたわ」

その名前が出た瞬間、自然と視線が居間の隅に向く。

セリナ姉は、エレナの誕生日となると、前日からそわそわし始める。弟妹のことになると、いつも以上に張り切るのがセリナ姉だ。

案の定、物置の方から小さな物音がした。覗いてみると、セリナ姉が腰をかがめて、何かを確認しているところだった。

「……あ、ルーメン。見ちゃだめ」

「もう見えてるよ」

「だ、だめなの。これは後」

そう言って、体で隠すように立ち上がる。その手には、小さな木製の玩具があった。粗削りだけれど、剣の形をしている。

「エレナ用?」

「うん。まだ振り回せないけど、持つだけならね」

剣術が好きなセリナ姉らしい選択だきっと、エレナが喜ぶ顔を何度も思い浮かべながら作ったのだろう。

父さんはまだ寝室だ。昨夜も遅くまで領の仕事をしていたはずだが、こういう日は必ず時間を作る人だ。

家族全員が揃う、それが何よりも大事だと、父さんはよく言っている。

しばらくして、階段を小さな足音が下りてきた。

エレナだ。

「……あれ?」

眠そうな目をこすりながら、きょろきょろと周囲を見回す。そして、母さんとセリナ姉と僕を見つけると、少し首を傾げた。

「なんで、みんな、いるの?」

その言葉に、セリナ姉が堪えきれずにしゃがみ込む。

「エレナ。今日は何の日でしょう」

「……えっと……」

しばらく考え込んでから、ぱっと顔が明るくなった。

「……エレナの、たんじょうび!」

「正解!」

セリナ姉が抱き上げると、エレナはきゃっきゃと声を上げて笑った。その笑顔を見て、母さんも、僕も、自然と表情が緩む。

三歳。まだ小さな背中だけれど、確かに少しずつ前に進んでいる。前世の記憶があるせいか、こういう瞬間がやけに胸に残る。

時間は、確実に流れていく。戻ることはない。だからこそ、今日という一日を、しっかりと覚えておきたかった。


その日の台所は、まるで祭りの準備みたいだった。母さんが動くたびに、香りが層になって重なっていく。焼いた肉の香ばしさ、煮込みの甘い湯気、刻んだ香草の青い匂い。普段の食卓なら、温かい汁と焼き魚、それに野菜の煮物があれば十分“いい日”なのに、今日は明らかに違う。

食卓には、いつもより一品も二品も多い皿が並び始めていた。深めの皿に盛られた煮込み料理、焼き色が美しいパン、湯気が立つスープ。母さんの料理は、見た目だけでなく手間の跡が分かる。包丁の入れ方、香りの整え方、味がまとまるまでの時間――そういうものが全部、静かに“特別”を主張している。


その中心に、ひときわ存在感を放つものがあった。小皿の上に、艶のある甘い果実がいくつも並んでいる。最近イーストレイクの食材が入ってくるようになった、と母さんが言っていたのはこれだ。商人が売りにやってくるようになった、甘い果実。人気があるのも当然だと思う。見るだけで、口の中に涎が湧くような、甘さの予感がある。

だけど、それは高い。僕でも分かるくらい高い。だからこそ、こういう特別な時にしか食べられない――その言葉の重みが、果実の艶の中に宿っているように見えた。

「父さん、起きてきたよ!」

セリナ姉の声が弾んだ。ちょうど父さんが居間に顔を出したところだった。いつもより少しだけ髪が乱れていて、でも目はしっかり開いている。眠気よりも、家族の時間を優先して起きてきた顔だ。

「おう。今日は主役がいるからな」

父さんはエレナの頭を大きな手で撫でる。エレナはそれだけで嬉しそうに笑って、父さんの手を両手で掴んだ。

「おとうさん!エレナ、さんさい!」

「そうだ。三歳だ。偉いな」

「えへへ!」

そのやり取りを見ているだけで、胸の奥が温かくなる。家族の会話なんて当たり前のもののはずなのに、前世の記憶が混じっているせいか、こういう当たり前がやけに尊い。失ってから気づくものを、今は失う前に抱きしめられている気がした。


食卓につく。母さんが皿を並べ終え、父さんが席に座り、セリナ姉がエレナの椅子を少し近づけてやる。エレナはまだ小さいから、椅子の高さが合わない。セリナ姉はそれが気になると、必ず先に整える。弟妹の“食べやすさ”を優先する姉だ。

「じゃあ、食べましょうか」

母さんの言葉で、食事が始まる。

最初は、いつも通りの賑やかさだった。エレナが「あれなに?」「これなに?」と、皿を指差して質問しては、セリナ姉が「それはね、こうやって食べるの」と丁寧に教える。父さんは笑いながら「セリナは先生みたいだな」と言い、母さんは「ほら、エレナ。ちゃんと噛んでね」と優しく注意する。


僕もそれに混ざりながら、今日は特に“見ていた”。家族が楽しそうにしている様子を、心の中で何度も写し取るように。きっと、学院に行けばこういう時間は減る。減るのは当然だ。成長すれば、離れるのが当たり前になる。それでも、今この瞬間は確かにここにある。

そして、いよいよ果実が出てきた。母さんが小皿を食卓の真ん中に置くと、エレナの目が一気に大きくなる。

「わあ……きらきら!」

「甘い果実よ。今日はエレナの誕生日だから」

「たべる!エレナ、たべる!」

エレナが身を乗り出しそうになるのを、セリナ姉がそっと支える。

「落ち着いて、エレナ。ちゃんと順番ね」

「じゅんばん!」

エレナは順番という言葉の意味を完璧には分かっていないはずなのに、セリナ姉の声が優しいだけで安心して頷く。そういうところが、セリナ姉の“面倒見”なんだと思う。言葉の意味じゃなく、気持ちを落ち着かせる。

母さんは果実を小さく切り分けて、まずエレナの皿に多めに置いた。僕はそれを見て、心の中で頷く。そうだ。主役はエレナだ。


「ほら、エレナ。ゆっくり食べてね」


「んんっ……あまい……!」

エレナは一口食べて、両目を丸くした。喜びがそのまま表情になる。次の瞬間には、体を揺らしながら笑っていた。

「おいしい!もっと!」

「ほらほら、噛んで。飲み込んでから次ね」

セリナ姉がそう言いながら、自分の分を受け取る。母さんが次に果実を多めに置いたのは、セリナ姉の皿だった。やっぱり女の子だし、こういう甘いものが好きだろうという母さんの判断が見える。

僕の皿にも切れ端がいくつか置かれた。艶があって、甘い匂いが強い。だけど、僕は少しだけ躊躇した。甘いものをあまり食べたことがないせいか、口が受け付けない時がある。前世でも、甘いものより塩気のあるものが好きだった。こっちの世界でも、体は変わっても嗜好は少し残っているみたいで、甘さが強すぎるとどうしても構えてしまう。


それに、今日はエレナの日だ。

僕は果実を一つ摘まんで、わざとらしく少し困った顔を作った。

「うーん……僕、甘いものってあんまり食べたことないからさ。なんか口が慣れてなくて」

「え、そうなの?」と母さんが言う前に、セリナ姉の目が光った。

「じゃあ、私が食べる!」

「エレナも!」

エレナも勢いよく手を挙げる。小さな手が、果実に向かって伸びた。

「ほら、エレナ。お兄ちゃんの分も分けてあげる。今日はエレナの日だけど、ちょっとだけね」

「ちょっとだけ!」

結局、僕の皿の果実は、エレナとセリナ姉の皿へ移っていった。母さんは少し呆れた顔をしたが、最後には笑った。

「ルーメン、あなたは本当に……優しいのか、ただ面倒くさいのか分からないわね」

「優しいに決まってるだろ」と父さんが笑って、僕の肩を軽く叩く。「こういうのは主役に食わせてやるのが一番だ」

僕は照れ隠しに水を飲む。セリナ姉は嬉しそうに果実を食べ、エレナは口の周りを甘い汁で汚しながら「おいしい!」を繰り返していた。母さんはそのたびに布で口を拭いてやる。父さんはそれを見て笑う。

終始、家族は賑やかに過ごした。幸せな一日だった。


その言葉が、ただの感想じゃなく、胸の奥で重みを持って響いた。こんな日が続けばいいのに、と思う。だけど、続かないことも知っている。成長は、嬉しいことでもあり、別れの準備でもあるからだ。

食事が終わって、皿が片づけられ、エレナは興奮の余韻のままセリナ姉に抱かれて寝落ちしそうになっていた。セリナ姉は「ふふ、今日はいっぱい食べたね」と囁き、母さんは「よく頑張ったわね」と頭を撫でる。父さんは「三歳は一回だけだ」と、誇らしそうに言った。

僕はその光景を見ながら、心の中で静かに思った。この“今”を、絶対に忘れたくない


最後まで読んで頂きありがとうございます


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