セリナ編 第十二章 セリナという姉⑤ 姉への因縁
その出来事は、ごくありふれた午後に起きた。授業が終わり、校舎の裏手を通って帰る途中。いつもより少し遠回りになるが、人通りが少なく、近道でもある道だった。セリナ姉は前を歩き、俺は半歩後ろをついていく。いつも通りの光景いつも通りの距離。そのはずだった。
「……止まって」
セリナ姉の声が、低く響いた。足が止まる。空気が、ぴんと張りつめる。
前方に、三人。年上の男子生徒だった見覚えがある。以前、俺を連れ出そうとした連中だ。
「セリナ」
名前を呼ばれただけで、胸がざわつく。
「今日は弟いないと思ってたんだけどな」
「ちょっと話、いい?」
笑っている。でも、その目は笑っていない。セリナ姉は、ゆっくりと一歩前に出た。
「用件は?」
声は、冷静だった。いつもの、剣術場で見せる声。
「なあ、お前さ、強いのは分かったよ。でもさ」
一人が、一歩、距離を詰める。
「調子乗りすぎじゃね?」
その瞬間、俺の中で、何かがはじけた。
「……離れて」
セリナ姉の声が、一段低くなる。
「ルーメンに近づかないで」
それだけで、場の温度が下がった。
「は?弟の前でカッコつけてんの?そんなに怖いなら……」
言葉の途中で、空気が、裂けた。
セリナ姉の手が、柄にかかる。剣は、抜かれていない。それでも。“抜く直前”の気配が、確かにあった。
俺は、気づいた。これは、いつものやつじゃない。これは、本気だ。
「セリナ姉!」
声が、喉から飛び出した。自分でも、驚くほど大きな声だった。
セリナ姉の動きが、止まる。わずかに振り返る。
「……なに?」
その目に、一瞬だけ迷いが浮かんだ。
「……もう、いい」
俺は、前に出た。足が震えている、怖い。でも、立ち止まれなかった。
「……帰ろう」
それだけを、言った。
「は?」
相手の一人が、馬鹿にしたように笑う。
「お前、何言って……」
「やめろ」
俺の声は、震えていた。でも、止まらなかった。
「これ以上、セリナ姉を一人にしないでくれ」
その言葉が、場に落ちた。
沈黙。風が、木の葉を揺らす音だけが響く。
「……」
セリナ姉は、ゆっくりと剣から手を離した。深く、息を吐く。
「……帰るわ」
それだけ言って、背を向けた。
相手は、何も言えなかった。言えなかったというより、言えなくなっていた。
帰り道。しばらく、二人とも無言だった。でも、重い沈黙じゃなかった。
「……ルーメン」
「なに?」
「さっきの、ありがとう」
声が、少しだけ揺れていた。
「……セリナ姉」
「うん?」
「一人で、全部背負わなくていい、俺も、いるから」
言葉にした瞬間、胸が熱くなった。
セリナ姉は、立ち止まり、ゆっくり俺の頭に手を置いた。
「……大きくなったわね」
その声は、泣きそうだった。
この日、俺は初めて守られる側から、隣に立った。ほんの一歩、それでも確かな一歩だった。
その夜、夕食の後、俺は縁側に座っていた。風が涼しく、虫の声が遠くで鳴いている。昼間の出来事が頭から離れなかった。
「……ルーメン」
背後から、聞き慣れた声。振り返ると、セリナ姉が立っていた。
「隣、いい?」
「うん」
セリナ姉は、ゆっくり腰を下ろした。しばらく、何も言わない。
「ねぇ、今日のことだけど」
視線は、庭の暗がりに向いている。
「私ね、怖かったの」
その一言に、胸が締めつけられた。
「ルーメンが傷つくのが。それだけが、怖かった」
セリナ姉は、ぎゅっと拳を握る。
「剣を抜く覚悟なんて何度もしてきたわ。でも、今日はルーメンが見てた。それが……怖かった」
意外だった。強くて、迷いのない姉。そのセリナ姉が、そんなことを言うなんて。
「私が誰かを傷つけるところを、弟に見せたくなかった……それだけ」
声が、少しだけ震えていた。
「でも、ルーメンが前に出てくれた時、救われた」
目が合う。
「私、一人で守らなきゃって、ずっと思ってた、お姉ちゃんなんだから、って。でも、隣に立ってくれてもいいのね」
その言葉が、胸に深く沈んだ。
「……うん、一緒に立つ。それなら、できる」
セリナ姉は、少しだけ笑った。昔と同じ、優しい笑顔。
「頼りないって思ってた?」
「……少し」
「ひどいな」
そう言いながら、肩が触れる距離まで寄ってくる。
「でもね、今日で、変わった。ルーメンは私の“守る対象”だけじゃない」
胸が、強く打たれた。
「支え合う弟、そう思うことにしたわ」
はっきりと、そう言った。その瞬間、俺の中で、何かが確かに変わった。
セリナ姉は、立ち上がる。
「さ、寝ましょ、明日も学校でしょ?」
「うん」
縁側を離れる直前、セリナ姉は振り返った。
「……ありがとう、ルーメン。生まれてきてくれて」
その言葉は、胸の奥に残った。
この日、セリナ姉は、“守るだけの姉”ではなくなった。俺もまた、“守られるだけの弟”ではなくなった。
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