セリナ編 第十二章 セリナという姉③ セリナ姉の存在
セリナ姉は、いつもそこにいた。朝、目を覚ませば、家の中から聞こえてくる足音。剣を手入れする金属音。エレナをあやす、少し高い声。それらは、あまりにも当たり前で、俺は「なくなるもの」だとは思っていなかった。
ある日、学校の帰り道、セリナ姉がふと、こんなことを言った。
「ねえ、ルーメン」
「私ね、もっと強くなりたい」
その言葉に、俺は足を止めた。
「……もう、十分強いと思うけど」
「そう?でもね、私、まだ足りないって思うの」
セリナ姉は空を見上げながら、続けた。
「この世界ってさ、危ないでしょ。剣術があっても、魔術があっても、全部を守れるわけじゃない。だから、もっと強くなりたい、守れなかった、なんて言いたくないから」
その横顔は、真剣だった。あまりにも真剣で、俺は胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。強くなる、という言葉が、その時はじめて、「遠くへ行くこと」と結びついた。
強くなるためには、もっと厳しい稽古が必要で、もっと危険な場所に行く必要があって、もしかしたら、家を離れる必要がある。そんな考えが、頭をよぎった。
「……どこか、行っちゃうの?」
思わず、口に出ていた。
セリナ姉は少し驚いた顔をして、すぐに笑った。
「行かないわよ、どこにも。私は、この家が好きだし、エレナも、ルーメンも、守りたいし」
その言葉に、俺は安心した。……はずだった。けれど、胸の奥に、小さな棘のような違和感が残った。本当に、ずっと一緒にいられるのか?この人は、いつか剣を持って、俺の知らない場所へ行ってしまうのではないか?前世の記憶が、ふと蘇る。大切な人は、いつも、気づかないうちに離れていった。
仕事。時間。責任。理由はいくらでもあった。そして、そのどれもが、俺の意思では止められなかった。だから俺は、無意識のうちに、セリナ姉の背中を追いかけるようになった。剣術の稽古を見学する時も、学校で別のクラスに行く時も、誰かと話している時でさえ。「今、ここにいるか?まだ、手の届く距離か?」そんなことを、確認していた。自分でも気づかないほど、自然に。
ある時、セリナ姉が少し遅く帰ってきた。理由は、剣術の自主稽古だった。それだけのことなのに、俺は玄関の前で、息が詰まりそうになっていた。
「……遅かったね」
「ごめんね、夢中になっちゃって」
セリナ姉は悪びれもせず笑う。その笑顔を見た瞬間、胸の中に溜まっていたものが、ふっと抜けた。「ああ、帰ってきた」その安心感に、自分がどれだけ依存しているかを、思い知らされた。
セリナ姉は、俺の世界の「軸」だった。この人がいるから、学校に行けた。家に帰れた。人を信じようと思えた。だからこそ、失う想像が、怖かった。まだ何も起きていないのに。何も失っていないのに。ただ、「いつか」という言葉が、影のように付きまとい始めていた。その恐怖を、俺は誰にも言わなかった。セリナ姉に言えば、困らせる。母さんに言えば、心配させる。エレナには、まだ分からない。だから、胸の奥にしまい込んだ。それが、正しい選択だと信じて。
夜になると、前世の記憶は決まって忍び寄ってきた。眠りに落ちる直前、静かになった部屋の中で、何の前触れもなく、思い出してしまう。「守れなかった人。手を伸ばせなかった瞬間。大丈夫だ、と言いながら、何もしなかった自分」、この世界では、まだ誰も失っていない。それなのに、胸の奥には、すでに喪失の痛みがある。それが、怖かった。
前世での俺は、「自分にはどうしようもない」と、何度も言い訳をしてきた。仕事だから。忙しいから。自分が動いても変わらないから。そうやって、守らなかったことを、正当化してきた。そして、すべてが終わった後で、後悔だけが残った。取り返しのつかない、後悔だけが。だから、この世界では違う。そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
セリナ姉が、俺のために立ち向かってくれたあの日。あの時の背中は、俺の中で、ひとつの「誓い」になっている。「俺は、逃げない。見て見ぬふりをしない。守れる力があるなら、使う。」それが、前世の俺が果たせなかった、たったひとつの約束だった。
ある日の夕方。エレナが昼寝をしていて、母さんは台所。家の中は静かだった。セリナ姉は、居間で剣の手入れをしていた。俺はその向かいに座り、何となく、その手元を見ていた。
「ねえ、ルーメン」
「なに?」
「怖い?」
唐突な問いだった。
「……何が?」
「学校とか、いろいろ」
俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。嘘をつくこともできた。「平気」と言うこともできた。でも、なぜか、その日はできなかった。
「……ちょっと、怖い」
正直に言った。
セリナ姉は、少し驚いた顔をして、それから、ふっと優しく笑った。
「そっか」
それだけだった。慰める言葉も、説教もない。ただ、その一言が、胸に染みた。
「怖くなったらさ」
セリナ姉は、剣を置いて、俺の方を見る。
「私のところに来なさい、いつでもいいから。守ってあげるから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが崩れた。ああ、同じだ。前世で、誰かに言ってほしかった言葉。それを、この世界では、この人が、何の見返りもなく言ってくれている。俺は、その場で泣かなかった。泣いたら、この温かさが壊れてしまう気がして。ただ、強く頷いた。
「……うん」
その一言に、どれだけの想いを込めたか、自分でも分からない。
その夜、俺ははっきりと理解した。セリナ姉は、俺にとって「姉」以上の存在だ。この世界に生きる理由であり、俺が強くなろうとする理由であり、前世の後悔を、上書きする存在だ。だからこそ、いつか、この人が危険に晒されるなら、俺は、迷わず前に出る。それが、今世の俺が選んだ生き方だ。
まだ幼く、まだ力も足りず、ただ守られているだけの存在でも。心だけは、もう決めていた。次は、俺が守る番だ。
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