前世編 第五章 光のかけら
第五章 光のかけら
春の空気は、これまで生きてきたどの季節よりも柔らかく、そしてどこか新しい機械の油と、乾いたアスファルトの匂いを含んでいた。
1990年代も終盤。引っ越しのトラックがアパートの前に止まり、重い荷物を運び入れるたびに、僕たちの新しい生活が産声を上げていた。
「見て、光一くん。ここの日当たり、すごくいいよ」
彼女が窓を開けると、埃の舞う室内を斜めの光が鮮やかに切り取った。
新しい部屋は、築年数を感じさせる小さなアパートの二階。六畳と四畳半をつなぐ襖を取り払うと、意外なほど広々として見えたが、そこにはまだ僕たちのわずかな荷物しかない。それでも、窓から差し込む陽光は、これから始まる生活を祝福するように、剥げかけた畳を黄金色に染めていた。
この街で生きていくためには、何よりもまず「足」が必要だった。僕は学生時代に必死に貯めたわずかな余りと、内定後のアルバイト代をすべて注ぎ込み、地元の個人経営の中古車販売店で、型落ちの小さな白い車を買った。それが、僕たちの新しい生活の象徴だった。
社会人としての初出勤。僕は彼女が朝早く起きて作ってくれた弁当を鞄に入れ、玄関の鏡の前で自分を整えた。身に纏っているのは、あの成人式の時に彼女が必死に貯めたお金で贈ってくれた、深い紺色のスーツだ。
袖口はわずかに擦れ、生地の光沢も落ち着きを見せていたが、僕にとってはどんな高級ブランドよりも誇らしい「戦装束」だった。
「いってらっしゃい。運転、気をつけてね」
彼女の声に背中を押され、僕は外へ出た。駐車場に停まった中古車のドアを開けると、古いシート特有の匂いが鼻をつく。エンジンをかけると、車体は大きく一度震え、低く頼りない排気音を鳴らした。
九州の田舎において、車は単なる移動手段ではない。それは社会という荒野を生き抜くための、自分だけの小さなシェルターだった。混み合う朝の国道、ハンドルの冷たい感触を確かめながら、僕は自分が背負ったものの重さを、アクセルを踏む右足の加減で感じていた。
工業団地の一角にある会社での毎日は、想像以上に苛烈だった。
新入社員への教育は容赦なく、朝から晩まで書類と格闘し、上司の厳しい叱責が飛び交う。二つの奨学金の返済という現実が、常に僕の背後で音を立てていた。けれど、自分でハンドルを握り、自分の車で帰路につくその時間は、唯一僕が「自分自身」に戻れる時間だった。窓を少し開け、夜の冷たい風を入れながら走る工業団地の直線道路。遠くに見える街の灯りが、僕の帰るべき場所を教えてくれていた。
帰宅すると、アパートの窓から漏れる黄色い灯りが、僕を現実の重圧から救い出してくれる。
「おかえりなさい」
扉を開けた瞬間に鼻をくすぐる、出汁の香りと湯気の匂い。
「今日ね、ガソリン代が少し上がってたよ。明日からは少し早めに家を出て、燃費のいい道を走ろうか」
そんな彼女の、生活に根ざした何気ない言葉。僕たちは決してお金を持っていたわけではない。ボーナスが出ても、その大半は奨学金の返済と、車の維持費、そして将来への蓄えに消えていく。外食なんて贅沢の極みだった。それでも、二人で分け合う食事は、僕の心を満たしてくれた。
数ヶ月が過ぎ、季節が初夏を迎えようとしていたある夜。僕は仕事帰りに、小さな、本当に小さなケーキを買って帰った。
「どうしたの? 誰かの誕生日だった?」
驚く彼女を前に、僕は畳に正座して、懐から一通の封筒を取り出した。婚姻届だった。
「……結婚しよう。式を挙げてやるお金はないし、指輪もまだ買えない。だけど、君を幸せにする自信だけはあるんだ」
そう言うと、彼女の瞳にみるみるうちに涙が溜まった。
世の中の若者たちが華やかな結婚式場を選び、純白のドレスや高価なホテルでの披露宴を夢見ていた時代だ。けれど、僕たちにはそんな選択肢は最初からなかった。あるのは、この六畳一間のアパートと、互いへの信頼だけ。
「式なんていらないよ、光一くん。そんなことにお金を使うなら、二人のこれからの生活に使おう。……私、光一くんと一緒になれるだけで、それだけでいいんだよ」
泣きながら笑う彼女を見て、僕は自分の不甲斐なさを恥じると同時に、この人を一生守り抜くのだと、腹の底で誓った。
翌日、二人で市役所へ向かった。平日、仕事を少しだけ中抜けして、中古車の助手席に彼女を乗せて。
役所の窓口は驚くほど無機質で、事務的だった。硬いプラスチックの椅子に座り、番号が呼ばれるのを待つ。周囲には税金の相談や住民票を取りに来た人々がいて、僕たちの「人生最大の瞬間」は、その喧騒の中に埋もれていた。
提出された婚姻届。僕たちの名前が並び、その下に押された二つの赤い印影。
保証人欄には、互いの親の名前が記されている。けれど、そこには誰もいない。豪華な聖歌も、フラワーシャワーもない。あるのは、窓口の職員が書類を確認するカサカサという音と、僕の隣で静かに鼻をすする彼女の気配だけ。
「はい、受理しました。おめでとうございます」
たった数分の事務手続き。それだけで、僕たちは夫婦になった。
役所の自動ドアを出たとき、外は眩しいほどの青空が広がっていた。
「……終わっちゃったね。なんだか、あっけないね」
彼女が可笑しそうに笑った。
「ああ。だけど、これで本当に家族だ」
駐車場に向かい、白い小さな中古車に乗り込む。この狭い車内が、今の僕たちに許された唯一の聖域だった。僕はハンドルの横に置いた彼女の手を、強く、強く握りしめた。
誰にも祝われない、二人だけの結婚。けれど、その純度は、どんな豪華な披露宴よりも高かったと、今の僕なら断言できる。
それからの日々は、凪のように穏やかに流れた。
彼女は近くのスーパーでパートを始め、家計を支えてくれた。僕は少しずつ会社で信頼を勝ち取り、任される仕事の幅も広がっていった。
休日の過ごし方も、相変わらず慎ましかった。二人で中古車を走らせ、海沿いの無料駐車場まで行く。自販機で買った一本の缶コーヒーを、熱いうちに分け合いながら、水平線を眺める。
「こうしてると、学生の頃を思い出すね。あのボロアパートで、将来の返済額を計算してた夜」
「うん。でも、今の方がずっといいよ。君が隣にいてくれるから」
冬になり、初めてのボーナスが支給された。額としては決して多くはなかったが、僕はその中から、彼女のために小さなネックレスを買った。
「こんなの、もったいないよ。車の車検代に回せばよかったのに」
彼女は驚いて遠慮したが、僕がその細い首筋にネックレスをかけた瞬間、声を震わせて泣き出した。その涙を見たとき、僕は「人を守る」という意味を、ようやく理解した気がした。
季節は再び巡り、春の気配が忍び寄ってきた。
ある朝、出勤途中の並木道で、僕は不意に車を停めた。古い石塀の向こう側、冷たい風に吹かれながらも、凛とした白い花が咲いていた。
梅の花だった。
あの中学の卒業前に、僕の絶望を救ってくれたあの花と同じ、透き通るような白。
「また会えたんだな」
その夜、夕食の席で彼女にその話をした。
「梅の花? 見てみたいな。今度の休み、その車で連れてってくれる?」
「ああ、約束だ」
彼女の笑顔を見ながら、僕は確信した。どんなに貧しくても、どんなに職場で嵐が吹こうとも、この車に彼女を乗せ、この小さな灯りのある部屋に帰ってこられる限り、僕は何度でも立ち上がれる。
これが、僕たちの「光のかけら」。
派手な飾りは何一つないけれど、それは僕の人生において、最も眩しく輝く真実だった。
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