エアリス編 第八章 イレンティア大聖堂③ 大神官の感覚
「対抗する魔術はない」
大神官の言葉が、冷たい石の壁に反響し、僕の耳の奥でいつまでも鳴り止まなかった。魔都へ来れば、この世界の頂点に立つ叡智に触れれば、必ず救いが見つかると信じていた。その自信が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
リリィ先生と俺は落胆した。
隣に立つリリィ先生の、いつも凛としていた肩が微かに震えている。特級魔術師として、そして教師として、愛弟子の友人を救えないという事実は、彼女にとっても耐え難い敗北感だったに違いない。僕もまた、五歳の小さな指先が白くなるほど膝の上の服を握りしめていた。
前世で何も成し遂げられず、ただ流されるままに生を終えた自分。二度目の人生では「大切な人を守る力」を求めて必死に魔導を修めてきたはずなのに、結局、運命という名の巨大な歯車の前では、無力な子供でしかないのか。
沈黙が支配する応接室。しかし、大神官は僕たちの絶望をただ傍観してはいなかった。
大神官は「そう落ち込まないでください、聖水はお譲りします、エアリスという方の困難に使ってあげてください、」
その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一条の光だった。
「……ありがとうございます、大神官様」
リリィ先生が震える声で感謝を述べ、僕は深く頭を下げた。聖水。それは教会の至宝であり、エアリスのお母さんの病を治すための、唯一にして最後の希望だ。たとえエアリス自身の異変をすぐには治せなくても、彼女が抱える「家庭の困難」を取り除くことができれば、大神官の言う「心と体の不調和」を和らげる一助になるかもしれない。
大神官は立ち上がり、棚から美しく装飾された小さな銀の小瓶を取り出した。その中には、神位の魔術によって浄化された、清冽な魔力の結晶とも言える液体が満たされている。
「困難を一つずつ取り除いていくことです、坊や。希望を捨ててはいけませんよ」
大神官は僕の目を見つめ、優しく微笑んだ。
聖水を預かり、部屋を後にしようとしたその時だった。大神官の瞳に、先程までとは異なる、鋭く深い光が宿った。彼は僕の足を止めるように、穏やかな、けれど拒絶を許さないトーンで呼びかけた。
ところで坊ちゃん、ルーメン君と言いましたかね、貴方には光魔術の属性と私も分からない未知の魔術の属性があることが見えます。
その瞬間、僕の背筋に氷のような戦慄が走った。
光魔術の属性――それはルゼリアでリリィ先生と共に磨いてきた僕の武器だ。けれど、その後に続いた「私も分からない未知の属性」という言葉。それは、この世界の魔術体系には存在しないはずの、僕の魂の根源に触れる言葉だった。
(……見抜かれた? この人の目には、僕の魔力の流れがどう映っているんだ……!)
前世の知識。無詠唱という異能。五属性すべてを操る異常なまでの魔導適性。それらを束ねている、僕という「異分子」の核。
「ちょっと調べさせてもらえませんか?」
大神官の提案は、好奇心というよりは、この世界の秩序を司る者としての義務感に近いものに感じられた。リリィ先生も驚いたように僕と大神官を交互に見つめている。
僕の心臓は、これまでにない速さで警鐘を鳴らし始めた。もし、僕の魂の構造を解析されれば、僕がこの世界の理に属さない「別の世界からの来訪者」であることが露見してしまうのではないか。
言われて、俺が転生者だとバレるんじゃないかとドキッとしたが
もしバレたらどうなる? 異端として処刑されるのか、あるいは研究対象として一生この塔に閉じ込められるのか。前世の名前も、かつての生活も捨てて、ルーメン・プラム・ブロッサムとして歩み始めたこの人生が、ここで終わってしまうかもしれない。
冷たい汗が額を伝い、掌がじっとりと湿る。僕はリリィ先生に助けを求めようとしたが、彼女もまた、大神官が指摘した「未知の属性」という言葉に、魔術師としての強い関心を惹かれているようだった。
(……逃げることはできない。ここで拒絶すれば、それこそ怪しまれるだけだ)
それに、この人はエアリスのために聖水を譲ってくれた。彼女の病状を真摯に案じ、世界の歪みに対抗しようとしている聖職者だ。
何より、僕にはエアリスを救わなければならないという目的がある。そのための知識を得るためなら、自分の正体が揺らぐ程度のリスク、背負わずして何が「大切な人を守る」だ。
エアリスのため、大神官に身を委ねることにした
僕は震える足で大神官の前に立ち、その節くれ立った温かな手を、僕の額に置くのを許した。
「……では、失礼しますよ、ルーメン君。深呼吸をして、心の鍵を解いてごらんなさい」
大神官の指先から、清冽で圧倒的な質量を持った魔力が、僕の意識の内側へと流れ込んできた。それは僕の魔力回路の隅々を、光の洪水のように洗い流し、その奥底に潜む「何か」を探り当てようとする。
僕の脳裏に、前世の記憶が、名前のないかつての風景が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
(来る……! 僕の魂の、一番深い場所に……!)
教会の応接室という狭い空間で、今、世界の理と異界の記憶が激しく交錯する。
大神官の顔に驚愕の色が広がるのを、僕は瞼の裏側で感じていた。果たして、この「奇跡の代行者」の目には、僕という存在がどのように映るのか。そして、その結果が、エアリスを救うための新たな道筋となるのか、あるいは破滅の引き金となるのか――。
五歳の僕の掌には、逃れられない運命の熱さが、いつまでも残っていた。
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