エアリス編 第八章 イレンティア大聖堂② 魔石の呪縛
大聖堂の静謐な空気の中、若き神官が消えていった廊下の奥を、僕はリリィ先生の隣でじっと見つめていた。ステンドグラスから差し込む光の帯の中で、無数の塵が星屑のように舞い、高い天井からは微かな詠唱の残響が降ってくる。
やがて、遠くから重厚な、けれどどこか慈愛に満ちた足音が響いてきた。
老いた風格のある神官が出てきた、このイレンティア大聖堂の大神官だ。
白銀の刺繍が施された重厚な法衣を纏い、手には星の意匠が施された長杖を携えている。その顔には、長い年月を祈りと癒やしに捧げてきた者だけが刻める深い皺があり、そこからは枯淡とした知恵と、大海のような包容力が滲み出ていた。大神官の瞳は、五歳の僕を真っ直ぐに見据え、まるで魂の深部を優しく透かし見るかのような静かな光を湛えている。
「ようこそ、リリィ・アーデント殿。そして、小さなお客様。ここでは立ち話も何ですから、中へ」
奥の部屋に通され、リリィ先生と俺は、エアリスの身に起きたことを大神官に話す。
通された応接室は、大聖堂の象徴的な華やかさとは異なり、無数の古い羊皮紙や研究資料、そして淡く発光する魔石のランプに囲まれた、学究的で静かな空間だった。ルゼリアの丘で、あの日、赤紫色の髪をした少女が風に溶けゆくのを見た衝撃。彼女の体が透けて見え、風がその中を通り抜けていくという理不尽な現実。そして、彼女の家族が直面している困窮と、母を蝕む病。
僕は五歳の拙い、けれど必死な言葉を重ね、リリィ先生がそれを魔術師としての論理的な視点から補足していった。
僕たちの話を聞き終えた大神官は、深い沈黙の後に重い溜息をついた。その表情には、奇跡を司る者としての苦悩が滲んでいる。
大神官は「私も、似たような人の治療に当たりました、その人も様々な困難に直面し、その後に発症したようです」
その言葉に、僕は身を乗り出した。やはり、エアリスだけではないのだ。
「一旦は癒し魔術をかけましたが、全く治りませんでした。そこで、まずはその困難を解決するのが先だと思い、ご家族にはあらゆる支援を頼ってもらい、その困難をいくらか和らげることができました、もちろん、私も協力しました」
大神官の言葉から、教会の持つ政治的、経済的な影響力を駆使してまで救おうとした形跡が伺えた。けれど、結果は芳しくなかった。
「しかし、当事者の不可思議な現象は少し和らいだものの、治癒までには至りませんでした」
大神官は、空中に指先で複雑な魔力の紋様を描き、症例を解析するように言葉を続けた。
「どうやら、心と体の繋がりが不調和になっていたようです。その後も癒し魔術をしましたが、治りませんでした。癒し魔術をかけた時、その人の魔力の流れがかなり異常化していることは感じました」
心と体の不調和。五歳の身体に宿る僕の理性は、その言葉を反芻した。強いストレスや絶望が、肉体をこの世界に繋ぎ止める「楔」を弱めてしまうというのか。あるいは、魔力の流れそのものが、人間という形を維持することを拒んでいるのか。
「異常化……。それは、ただの病ではないということですか?」
僕の問いに、大神官は一層険しい表情で頷いた。
「私の推察ですが北の大地から広がっている魔族領地の魔石が関係していると思います」
魔族領地。その言葉が放たれた瞬間、部屋の温度が一段下がったような錯覚に襲われた。ルゼリアの穏やかな日々の中では、お伽噺の中の脅威でしかなかった存在。けれど、イーストレイクの知恵の心臓部では、それは現実的な恐怖として語られていた。
「魔石は上手く扱うと、魔力を維持してくれる非常にありがたいものですが、一歩使い方を間違えると、非常に危険なものです、あるいは魔族が意図的に悪い魔力の蓄えられた魔石を流通させているのかも知れません」
大神官は、机の上の小さな容器から、鈍い黒紫色の光を放つ小さな石の破片を取り出した。
「魔石は人間の感情や魔力を増幅し、安定させる力を持つ。だが、魔族領から持ち込まれた『汚染された石』は、持ち主の負の感情を餌にして、その人の魔力系を内側から食い破り、肉体を物理的な法則から解離させてしまうのです」
前世の知識で言えば、それは一種の放射性物質による汚染、あるいは精神を侵す寄生体のようなものか。エアリスのあの風のような現象は、彼女自身の魔力が、汚染された魔石の影響で「世界の一部」へと強制的に還元されようとしている悲鳴だったのだ。
「今の癒し魔術では、それに対抗する魔術はありません、おそらくそのエアリスという方も同じかも知れません」
大神官の冷徹な断定が、僕の胸を鋭く射抜いた。
対抗する魔術はない。奇跡を操る大神官がそう告げたのだ。
僕が求めていた答えは、救済ではなく、絶望だったのか。ルゼリアの外へ出れば救えると信じて、初めて魔物を殺し、初めて恐怖を乗り越えてここまで来たのに。
隣でリリィ先生が、握りしめた杖を震わせているのが分かった。
僕は自分の小さな掌をじっと見つめた。そこには、さっきまで誇りに思っていた魔力が宿っている。けれど、その力はエアリスの透明な涙一粒さえも止めることができないというのか。
(……いや、諦めるわけにはいかない。方法がないなら、作る。神位の魔術でも治せないなら、それを超える何かを。僕はそのために、二度目の命を授かったはずだ)
五歳の少年の瞳に、絶望を焼き切るような青い炎が灯る。大神官はその視線の強さに、微かに驚いたように眉を上げた。沈黙する室内で、時計の刻む音だけが、世界の歪みが進行していることを冷酷に告げていた。
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