前世編 第四章 夢の入口
第四章 夢の入口
春の風は、九州の山あいに吹き付けていたあの刺すような冷たさを脱ぎ捨て、どこか湿り気を帯びた都会の匂いを運んでいた。
1994年。駅前のバス停。使い古された大きなスーツケースの重みが、右手にずっしりと食い込む。僕を送り出す家族の姿がそこにあった。
「身体に気をつけろよ。金は送れんが、米だけは送るけんね」
父の不器用な激励と、祖父母の震える声。僕は何度も深く頭を下げた。学ランを脱ぎ捨て、少し大人びた私服に身を包んだ僕は、期待よりも、背負ったものの重さに足がすくみそうになっていた。
国立大学への進学。それは、地方の貧しい我が家にとって、全員の血と汗を絞り出したような努力の結晶だった。父からは「仕送りは一円もできん」とはっきり告げられていた。合格はゴールではなく、地獄のような節約と労働、そして「借金」の始まりを意味していた。
高校三年の冬、僕は進路指導室で、冷たい指先を震わせながら二通の奨学金申請書を書き上げた。一つは日々の生活を繋ぐためのもの。もう一つは、万が一にも大学の授業料免除が通らなかった際、その数万円という巨額の学費を即座に補填するための予備としてのものだ。高校時代に内定を得たその二つの奨学金は、大学入学と同時に僕の通帳に数字を刻み始めたが、それは同時に、社会人になった瞬間に始まる「果てしない返済の旅」の契約でもあった。
授業料免除は、毎年厳しい審査がある。成績を落とせば、その瞬間に免除の梯子は外される。奨学金は僕にとって命綱であると同時に、将来の自分を縛り付ける鎖でもあった。それは自由なキャンパスライフなどではなく、一歩踏み外せば全てが崩れ去る「条件付きの未来」だったのだ。
新しい街は、僕の目にはあまりに眩しく、そして冷淡に映った。
駅から歩いて十五分。築三十年を超える古いアパートの一室が、僕の新しい城となった。六畳一間の畳は擦り切れ、窓を開ければ隣の家の壁が迫っている。家具は折りたたみ机と、実家から送った布団だけ。夜、初めてその部屋で横になったとき、窓の外の商店街から漏れる街灯の光が天井に細い筋を作っていた。
「月々の返済額、これだけで数万円か……」
暗闇の中で計算する。奨学金という名の負債。それは、まだ何者でもない僕の背中に、目に見えない巨大な重石となってのしかかっていた。
最初の一週間は、生きることそのものに翻弄された。
コインランドリーの洗濯機が立てる騒音に怯え、安売りで買った米を炊けば芯が残って硬い。節約のために風呂のお湯を最小限にしようとして、操作を誤り溢れさせたこともあった。けれど、その情けない失敗の一つ一つが、誰にも頼らず、将来の自分を質に入れて生きているという、ひりつくような誇らしさを僕に与えてくれた。
大学の講義は、僕の予想を遥かに超える高みで展開されていた。
専門用語の嵐、教授の容赦ないスピード。けれど、図書館の冷たい空気の中でノートを広げるたび、僕は自分が世界の真理の一端に触れているような高揚感に包まれた。しかし、知的好奇心を満たす時間は常に削り取られていく。
昼間は講義、夜は深夜までのアルバイト。帰宅すれば日付は変わり、冷え切ったカップ麺を啜りながら机に向かう。奨学金の支給日をカレンダーに赤丸で囲み、通帳の残高を確認するたびに、心臓が小さく縮むような感覚。
「学費免除を失えば、この奨学金だけじゃ足りなくなる。そうなれば、終わりだ」
中学時代の、あの泥のような絶望が背後に迫っている気がして、僕は眠気を覚ますために何度も何度も自分の頬を叩いた。
そんな擦り切れるような毎日の中で、偶然見つけたのがサークルの掲示板だった。
風に揺れる一枚のビラ。そこには、躍動感のあるタッチで描かれたドラムの絵があった。
指先が、無意識にその紙を掴んでいた。
音楽室の扉を開けると、そこには懐かしい、スティックが打面に当たるあの硬質な音が響いていた。
「君、経験者?」
明るく声をかけてきた先輩に、僕は小さく頷いた。久々に握ったスティックの感触。指先に伝わる振動が、死にかけていた僕の心を鮮やかに蘇らせた。サークルの仲間たちは、僕の生活の困窮や背負った借金など気にも留めず、ただ「音」だけで繋がってくれた。バイトと勉強に追われる砂漠のような日々の中で、ドラムを叩く時間だけが、僕にとって唯一のオアシスだった。秋の学祭、照明に焼かれながら叩いた一打一打。心臓の鼓動が楽器の音と溶け合い、僕は初めて「自分は今、ここに存在している」と叫びたいような衝動に駆られた。
その頃、僕は同じ学部の女性と親しくなった。
講義の合間に話すようになり、食堂で向かい合って座る時間も増えた。彼女は太陽のように明るく、輝かしい将来の夢を語るのが上手だった。けれど、僕の見ている景色は彼女とは違っていた。
「今度、新しくできたカフェに行かない?」
彼女の誘いは、僕にとって「バイトの時給何時間分か」であり、「将来の奨学金返済の何分の一か」という計算に直結してしまう。
「ごめん、今日もバイトなんだ。……それに、あまり余裕がなくて」
断るたびに、彼女の瞳から輝きが消えていく。やがて、彼女は僕の前から静かに去っていった。
「光一くんって、いつも自分を殺して我慢してるよね。将来のことばかり気にして、今を楽しもうとしない。一緒にいても、なんだか苦しいよ」
最後にそう言われた言葉は、鋭いナイフのように僕の胸を抉った。将来のことを気にしている。当たり前だ。僕には、卒業した瞬間に始まる数百万の返済が待っているのだから。今を楽しむ余裕など、どこにもなかった。
季節は巡り、冬の寒さがアパートの隙間風を鋭くした。
期末試験の結果、僕は無事に上位を維持し、次年度の学費免除を勝ち取った。もしこれが通らなければ、二つ目の奨学金を取り崩すしかなかった。そうなれば、将来の負担はさらに膨らんでいた。「生き延びた」という安堵感で、冬の空を見上げながら、僕は初めて自分を褒めてやりたいと思った。
年が明け、僕は新しいアルバイトを始めた。夜の街の端にある、落ち着いた雰囲気の喫茶店だ。琥珀色の照明、深いコーヒーの香り。
そこで出会ったのが、彼女だった。
僕より少し年上で、フリーターをしながら自分のペースで生きている女性だった。彼女は決して饒舌ではなかったが、僕が皿を洗う後ろ姿や、ふとした瞬間の表情を、静かに、そして正確に見守っていた。
初めて二人で話した夜。閉店後の店内で、彼女は言った。
「無理してない? なんだか、すごく重いものを一人で背負ってる顔してるよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れた。中学時代の痛みも、学費への恐怖も、そして誰にも言えなかった「借金を背負って生きる不安」も。彼女の真っ直ぐな瞳の前では、隠し通すことができなかった。
仕事終わりに二人で食べるまかない。
「大学の勉強って、どんなことしてるの?」
「大変だけど、頑張ってるのはちゃんと伝わってるからね」
僕は彼女に、自分の境遇を全て話した。貧しい実家のこと、二つの奨学金を借りていること、卒業すればすぐに返済が始まること。彼女は嫌な顔一つせず、ただ頷いて聞いてくれた。
「いいじゃない。自分の力で未来を切り拓いてるんだもん。返済だって、二人で頑張ればなんとかなるよ」
彼女の穏やかな肯定。それは、僕がこれまでずっと誰かに言ってほしかった、魔法のような言葉だった。
やがて、僕たちは自然と寄り添うようになった。派手なデートも、高級な贈り物もない。
半年後、僕たちは僕の狭いアパートで一緒に暮らし始めた。
六畳間に、二人分の布団を並べて敷く。小さな冷蔵庫の中には、見切り品の野菜と卵が少しだけ。それでも、二人で工夫して作るカレーは、どんな三ツ星料理よりも深く、豊かな味がした。
「光一くん、明日の試験、大丈夫?」
「うん、君がいてくれるから。……奨学金、借りててよかったよ。君に出会えたんだから」
お金はない。負債もある。けれど、僕の心は、人生で初めて「凪」を迎えていた。
大学二年の冬。地元から成人式の案内状が届いた。
出席するつもりはなかった。中学時代のあの地獄のような記憶、僕を嘲笑った連中。それに、着ていくスーツを買う金など、どこにもなかったからだ。
けれど、彼女は僕の背中を優しく押した。
「行っておいで。光一くんがどれだけ立派になったか、見せてあげなよ」
彼女はそう言って、僕に小さな、けれどずっしりと重い紙袋を差し出した。
「これ、私からのプレゼント。就職活動にも、ずっと使えるやつを選んだんだから」
袋を開けると、そこには深い紺色の、上質なスーツが入っていた。
彼女が夜のバイトを増やし、将来の返済に怯える僕を想って、コツコツと貯めたお金で買ってくれたものだということが、触れただけで分かった。生地の滑らかさが、僕の手のひらに熱を持って伝わってきた。
「……ありがとう」
声が震え、涙がスーツの袖に落ちそうになった。このスーツは、僕にとって単なる衣服ではなかった。彼女が僕という人間を肯定し、返済を背負う僕の未来さえも丸ごと信じてくれているという、目に見える証だった。
成人式の日、僕はそのスーツを纏い、数年ぶりに地元の土を踏んだ。
会場には、かつて僕をいじめていた同級生たちの姿もあった。彼らは相変わらず騒がしく、派手な姿で談笑していた。
一人の男が僕に気づき、「あ、川田じゃん」と声をかけてきた。
僕は足を止め、彼の目を真っ直ぐに見つめて「久しぶり」とだけ言った。
不思議だった。あんなに僕を苦しめた相手なのに、今は何の感情も湧いてこない。僕の隣には(心の中に)彼女がいて、僕の背中には国立大学という積み上げた努力と、それを支える二つの奨学金の重み、そして何より、僕の身を包んでいるのは、世界で一番温かい想いがこもったスーツだったからだ。
会場を後にし、僕は一人、思い出の通学路を歩いた。
遠くの丘の上、あの時と同じ場所に、白い梅の花が咲いていた。
寒風の中で、誰に媚びることなく凛として咲く姿。
「あの時と同じだ。俺も、あんな風に生きられてるかな」
僕はスーツの袖口を撫で、深く息を吸い込んだ。あの花は、ずっと僕を待っていてくれたのかもしれない。そして僕も、ようやく胸を張って、この花と同じ季節を生きられるようになったのだと、そう確信した。
大学生活の後半は、さらに加速していった。
就職活動。成人式で贈られたあのスーツを、僕は何度も何度もブラシで整え、面接に臨んだ。
「このスーツには、彼女の想いがこもっている。負けるわけにはいかない。早く就職して、彼女との生活を安定させて、返済も始めなきゃならないんだ」
不採用の通知が続く夜もあった。心折れそうになる僕の手を、彼女は黙って握ってくれた。
「光一なら大丈夫。あなたは、誰よりも努力することを知っている人だから」
夏の終わり、ようやく一社から内定の知らせが届いた。
その紙を見つめながら、僕たちは狭い部屋で、子供のように泣きながら抱き合った。
内定先の勤務地は、今住んでいる場所から遠く離れた街だった。
引っ越しの準備をする段ボールの山の中で、僕は彼女に向き合った。
「一緒に行こう。これからは、僕が君を支えたい。奨学金の返済も始まるけど、君がいれば怖くないんだ」
彼女は少しだけ驚いたような顔をして、それから世界で一番綺麗な笑顔を見せてくれた。
「もちろん。どこまでも一緒に行くよ」
窓の外から、春の予感を含んだ風が吹き込んできた。
その風の中に、僕は確かに、あの梅の花の香りを嗅いだ気がした。
「夢の入口」。
その扉の向こう側にある未来を、僕たちは今、手を携えて踏み出そうとしていた。
たとえ返済という長い冬が続こうとも、この手の中にリズムがあり、隣に彼女がいて、背中にはあの「白」の記憶がある限り、僕はもう、二度と道に迷うことはない。
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