エアリス編 第八章 イレンティア大聖堂① 異変の相談
第八章 イレンティア大聖堂
リリィ先生の研究室で膨大な「知」の質量に圧倒された後、僕たちは再び城の重厚な廊下を通り、外界へと出た。イーストレイクの空は高く、冬の陽光を弾いて鋭く輝いている。
イレンティア大聖堂は城の少し西にある。
城の東側が行政と軍事、そして学究の熱気に包まれているのに対し、西側の区画は、近づくにつれて空気が澄んでいくような、独特の静謐さに支配されていた。石畳を叩く馬車の音もここでは控えめに響き、通りを歩く人々もどこか敬虔な面持ちで、声を潜めて語り合っている。
その区画の中心に、それは聳え立っていた。
とても高い建物だった。
ルゼリアの丘から見えた時もその巨大さには驚かされたが、足元まで来ると、それはもはや建築物というよりは、大地から天へと伸びる白亜の樹木のようにさえ思えた。幾重にも重なる尖塔、精緻な彫刻が施された控え壁、そして天界を覗き見るかのように配置された無数のステンドグラス。その圧倒的な垂直方向への志向は、見る者の視線を強制的に天へと向けさせ、己の矮小さを思い知らせる。
「ここはイーストレイクの教会、イレンティア大聖堂です、ルーメン君、教会は神聖な場所です、勝手に色々触ったり、動き回ったりしないでくださいね、失礼のないようにお願いします」とリリィ先生に言われ、
先生の声は、いつになく厳格な響きを帯びていた。教育者としてではなく、この世界の理を守る一人としての忠告。僕は、五歳の小さな身体を正し、溢れ出しそうな好奇心を理性の鎖で繋ぎ止めた。
「はい、先生。肝に銘じます」
僕は深く頷き、先生の紺碧のローブの裾から離れないよう、静かにその門を潜った。
一歩足を踏み入れた瞬間、僕を包んだのは、外界の喧騒を完全に遮断した「沈黙の重圧」だった。
イレンティア大聖堂の中へ。
荘厳な造りの教会は厳格な雰囲気が漂う。
見上げるような天井の高さに、僕は思わず息を呑んだ。巨大な石柱が林立し、その上部で複雑な交差円蓋を形成している。ステンドグラスを透過した陽光は、赤、青、黄金の極彩色の帯となって、空気中を舞う微かな香炉の煙を透かし、石床に幻想的な幾何学模様を描き出していた。
そこには、ルゼリアの小さな教会にはない、組織化された宗教の「力」が満ちていた。
数名の神官が中におり、祈りを捧げている街の人もいる。
白い法衣を纏った神官たちは、音もなく廊下を歩み、時折、跪く信徒の肩に手を置いて静かに言葉を交わしている。祈りを捧げる人々の背中には、切実な願いや、拭いきれない罪の意識、あるいは大切な誰かへの慈愛が滲み、それらが教会特有のひんやりとした空気の中に溶け込んでいるようだった。
前世の記憶にある、歴史的な大聖堂の静寂を僕は思い出した。けれど、このイレンティア大聖堂には、それ以上に「実体を持った魔力」の気配があった。建物そのものが巨大な魔力貯蔵庫であるかのように、壁の隅々から清冽な癒やしの波動が微かに漏れ出している。
リリィ先生は迷いのない足取りで、中央祭壇の脇に控えていた一人の若手神官へと近づいていった。
リリィ先生は神官の1人と話し始めた。
その表情は、先程の研究室での険しさとは異なり、礼節を尽くしながらも対等な立場を崩さない、特級魔術師としての矜持に溢れていた。
「帝国特級魔術師、リリィ・アーデントです。大神官様へ、事前にお伝えしていた件でお取次ぎ願えますか」
若手神官は、先生の名を聞いた瞬間に姿勢を正し、深々と一礼した。
先生の交渉は、極めて事務的かつ迅速に進められた。
最近起こっている不思議な異変の治療に当たった神官の話を聞きたいということと、聖水のことについて話しているみたいだ。
僕は少し離れた場所で、先生の背中を見つめながら、その言葉の断片を拾い集めていた。
聖水。それは、死にゆく命を繋ぎ止める「奇跡の雫」。
そして異変。それは、エアリスの身体を風へと変質させている、あの理不尽な怪異。
リリィ先生は、この教会という場所が単なる慈善施設ではなく、膨大な症例と知識が集積された「癒し魔術の最前線」であることを熟知していた。
神官は先生の問いに対し、慎重に言葉を選びながら応答していた。
「……異変の件ですね。承知いたしました。確かに、近頃は癒し魔術の範疇を超えた症例がいくつか報告されております。大神官様も、その調査に深く関わっておられます」
その言葉に、僕は自分の掌を強く握りしめた。
エアリスだけじゃない。この世界のどこかで、同じように苦しんでいる人がいる。それは、単なる「病」ではなく、世界の理そのものが軋みを上げている証拠のように思えてならなかった。
話が終わると、その神官は奥の部屋に行き、
静寂が再び僕たちを包み込む。高い天井から降り注ぐ光の粒子を眺めながら、僕はルゼリアで待っている赤紫色の髪の少女を想った。
彼女の家で聞いた、母リオラの言葉。高価で手が出せない聖水。兵士を辞めざるを得なかった父。
そのすべての悲劇の結び目が、今、この白亜の巨塔の中で解かれようとしている。
やがて、廊下の奥から、ゆっくりとした、けれど確かな重みを持った足音が聞こえてきた。
現れたのは、長い歳月を経て研ぎ澄まされた、静謐な魔力を全身に纏った人物だった。
僕の五歳の感覚が、本能的に察知する。
これから会うのは、この街で、あるいは帝国で、最も「奇跡」に近い場所に立つ人間なのだと。
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