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エアリス編 第七章 イーストレイク③ 研究室

 懐かしいオレンジに似た果実の余韻を喉に残したまま、僕たちは活気溢れる食堂を後にした。

 店を出て、リリィ先生の研究室のある大きな城に向かう、

 イーストレイクの中心部にそびえ立つその城塞は、近づくにつれてその圧倒的な質量で僕を押し潰さんばかりの威容を誇っていた。石の積み方は精緻を極め、一つ一つの巨石には風雨に耐えうる魔術的な処理が施されているのか、鈍い銀色の光沢を放っている。

 城前には多くの衛兵が立ち並ぶ。

 彼らは一様に、帝国の紋章が刻まれた白銀の甲冑を纏い、彫像のように微動だにせず門を護っていた。その場を支配する厳格な空気は、観光客や商人が入り混じる大通りの喧騒とは一線を画す、国家の中枢としての誇りと緊張感に満ちている。

 五歳の僕が一人で近づけば、即座に不審者として排除されるだろう。けれど、僕の隣には青い髪を風に遊ばせるリリィ先生がいる。

 リリィ先生の顔を見ると衛兵は頭を下げていた。

 それは単なるマナーとしての挨拶ではなかった。自分たちよりも遥かに高みに立つ存在、あるいは、この城の機能を支える不可欠な「賢者」に対する、畏怖と敬意が入り混じった深い礼だった。リリィ先生はそれに対し、軽く顎を引く程度の会釈で応じ、僕の手を引いて開かれた巨門の中へと足を踏み入れた。



 一歩足を踏み入れた城の内部は、外の喧騒とはまた別の、組織化された知性の熱量に包まれていた。

 城は大きく、天井は高く、たくさんの人々が働いていた。

 見上げるような吹き抜けの天井には、壮麗なフレスコ画が描かれ、巨大なシャンデリアが魔導灯の光を受けて虹色の飛沫を石床に落としている。廊下を行き交う人々――公的な書類を抱えた文官、忙しなく伝令を運ぶ少年、そしてリリィ先生と同じように、深い魔力を纏った高位の魔術師たち。

 五歳の僕の身長では、通り過ぎる大人たちの腰あたりしか見えない。けれど、その足音の響き一つ一つから、この巨大な組織がルシアークという世界の歯車を回しているのだという実感が伝わってきた。

 リリィ先生の研究室はこの城の2階。

 重厚な螺旋階段を登り、長く続く廊下の突き当たり。そこには、他の部屋とは明らかに違う雰囲気を放つ、黒い鉄木で造られた扉があった。

 ついて行くと、リリィ先生は扉に手をかざして詠唱を唱える。

 「……深淵に眠る静寂よ、主の呼び声に応じ、そのじょうを解け」

 その低く、けれど芯の通った声が廊下に響く。無詠唱に慣れている僕にとって、先生がわざわざ「詠唱」を用いるその行為は、それだけこの扉にかけられた術式が強力であることを意味していた。

 すると扉が開いた。

 カチリ、という重厚な機械音の後に、空間そのものが震えるような魔力の残響が走り、扉が滑らかに奥へと吸い込まれていく。

 魔術で鍵をかけているようだ。

 それは他者の侵入を拒むだけではなく、中にある「知識」という名の財宝が外へ漏れ出すのを防ぐための、厳格な防壁のように感じられた。



 足を踏み入れた室内は、これまでの城の華やかさとは一転して、静謐で濃密な「知」の気配が充満していた。

 リリィ先生の研究室は本や物が多いが、きちんと整理されていた。

 壁一面を埋め尽くす書架には、羊皮紙の古書から最新の魔導論文までが整然と並び、中央の長いテーブルには、見たこともないような奇妙な形状のフラスコや、淡く発光する魔石が、一定の規則性を持って配置されている。

 リリィ先生は「私は、ちょっと急ぎて片付けないといけない仕事があるので、ルーメン君は適当に魔術の本を読んでいてください」と言って仕事を始めた。

 先生は椅子に腰掛けると、積み上げられた書類の束へ向けてペンを走らせ始めた。その表情は、教壇に立つ時よりもさらに鋭利な、真理を追究する学究の徒のそれへと変わっている。

 僕は邪魔をしないように、そっと書架の前へと移動した。

 本棚には千冊を超える膨大な本、

 その一冊一冊に、先人たちが命を削って積み上げてきた歴史が詰まっている。僕はその背表紙を指先でなぞりながら、適当な一冊を引き抜いてみた。

 適当に読んでみたが、どれほど今の自分には理解できそうもないことが書かれていた。

 『高次元術式の並列構成論』『魔力循環における精神波の位相干渉』。

 ページをめくれば、そこに書かれているのはもはや言葉ではなく、幾何学模様と数式が複雑に絡み合った、精神を揺さぶるような暗号の羅列だった。

 前世で培った論理的思考を持ってしても、この世界の魔道の極致は、あまりにも遠く、深すぎる。五属性の上位魔法を習得したことで、どこか自分を特別だと思っていた僕の自負は、この千冊の沈黙の前に、あっけなく打ち砕かれた。

(……凄い。リリィ先生は、このすべてを理解して、さらに先へ行こうとしているんだ)

 リリィ先生は凄いんだなと思いつつ、魔術はかなり奥が深いと思っていた。

 僕が手にしている無詠唱という力も、この広大な魔術の海の、ほんの入り口の飛沫に過ぎないのかもしれない。

 そんな畏怖を感じながら、僕は先生が書類を片付けるペンの音をBGMに、理解できないながらも、その未知なる知識の断片を貪欲に瞳へと焼き付け続けた。



 どれほどの時間が過ぎただろうか。窓から差し込む陽光がわずかに角度を変えた頃、リリィ先生が深く息を吐き、羽ペンを置いた。

 リリィ先生が「仕事が片付いたので、さっそく教会に行きましょうか」と言ったので、

 その言葉に、僕は弾かれたように顔を上げた。

 そうだ。この街に来た真の目的。本棚の知識に圧倒されている場合ではない。ルゼリアで、風に溶けゆく恐怖と戦っているエアリスが待っているのだ。

 教会へ行くことに。

 僕は手にしていた本を丁寧に棚へと戻し、先生の元へと歩み寄った。

 「準備はいい、ルーメン君? ……これから向かうのは、この街で最も『光』が集まり、同時に最も『影』が深い場所よ」

 先生の言葉の意図は、五歳の僕にはまだ正確には汲み取れなかった。けれど、研究室を出て再び扉に魔法の錠がかけられる時、僕は自分の掌を強く握りしめた。

 イーストレイクの城を後にし、僕たちは白亜の塔がそびえ立つ、巨大な大聖堂へと向かって歩き出す。

 ルゼリアの神童と呼ばれた僕の魔力が、そして無詠唱という異能が、教会の「神位」という権威の前にどこまで通用するのか。

 エアリスを救うための、本当の戦いがここから始まろうとしていた。


最後まで読んで頂きありがとうございます


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