エアリス編 第六章 ルーメンの初討伐② ゴブリン討伐
馬車の車輪が止まり、周囲を包む空気が一変した。
先程までの穏やかな揺れはどこへやら、僕の視界の先、街道を塞ぐようにして、三つの醜悪な影が揺らめいている。
遠くから近づいてくるゴブリンが3匹。
それは、絵本で見るような滑稽な怪物ではなかった。湿った土と腐肉を混ぜたような不快な臭いが風に乗って鼻腔を突き、細長い四肢を不自然に屈曲させながら、彼らは確かな殺意を持ってこちらを睨みつけていた。腰には錆びついた短剣を帯び、濁った黄色い瞳には、自分たちより小さく、弱そうな獲物――すなわち僕への、卑劣な加害欲が渦巻いている。
(……来る。本当に、僕がやるんだ)
僕は馬車のステップに足をかけ、地面に降り立った。五歳の僕の小さな足が、街道の乾いた土をしっかりと踏み締める。
隣では、リリィ先生が杖を傍らに立て、僕の背中を見守るように立っている。彼女の存在は大きな安心感だったが、今、この瞬間に魔術を放つのは、先生ではなく僕自身なのだ。
習った通りに、近づいてくるのを待ち、
僕は深呼吸を繰り返し、暴れる心臓を強引に押さえつけた。
ゴブリンたちは、僕が怯えていると見たのか、ギャハギャハと耳障りな笑い声を上げながら、その距離を急速に詰めてくる。
「……今よ、ルーメン君!」
リリィ先生の鋭い一言が合図となった。
僕は右手を突き出し、脳裏に激しく燃え盛る火球のイメージを刻みつける。言葉はいらない。無詠唱の魔力が、僕の指先へと一気に収束していく。
ファイヤーボールを連続で3発放つ。
シュッ、シュッ、シュッ! という空気を切り裂く音と共に、僕の手元から三つの赤い光弾が放たれた。
だが、現実は残酷だった。静止した標的を狙う練習とは何もかもが違う。
1匹に当たり、2匹は外れた、
最初の一発は、先頭を走っていたゴブリンの肩を直撃し、その肉を焼き焦がした。魔物は絶叫を上げ、その場にのめり込む。けれど、残りの二発は、獲物の急激な方向転換についていけず、虚しく背後の森へと消えていった。
一発当てたことで、僕の心に一瞬の油断が生まれた。あるいは、二発外したことへの動揺か。
ゴブリンたちは仲間が傷ついたことに怯むどころか、さらに凶暴な声を上げて加速した。彼らの足音は、まるで僕の死を刻むカウントダウンのように聞こえた。
すぐにファイヤーボールを連続で放つ、
僕は慌てて魔力を練り直し、次の一撃を繰り出した。
また1匹には当たったが、1匹外して、距離がかなり接近した、
二匹目の腹部を火球が焼き、その勢いを止めることには成功した。だが、最後の一匹が、仲間の影に隠れるようにしてジグザグに走り、僕の放った魔法をあざ笑うように回避したのだ。
その距離、わずか数メートル。
ゴブリンの吐息が届くほどの至近距離。振り上げられた錆びた短剣が、僕の視界を覆い尽くさんばかりに迫ってくる。
(……当たらない! どうして!? 次……次を放たなきゃ……!)
やばいと思って焦ってファイヤーボールを放とうとする直前、
指先が震え、魔力の道が乱れる。焦れば焦るほど、あんなに自在だったはずのイメージが霧のように拡散していく。
ゴブリンが跳躍し、その醜い爪が僕の喉元に届こうとした、その刹那だった。
――カッ、と。
僕の横から、僕の魔法とは比較にならないほどの高熱を帯びた、鮮やかな真紅の閃光が放たれた。
リリィ先生が的確にファイヤーボールで仕留めてくれた。
ドォォォォン!! という重厚な爆発音。
目の前にいたゴブリンは、一瞬にして光の中に消え、後に残ったのは黒い煙と、地面に深く刻まれた焦げ跡だけだった。
僕は腰を抜かしたようにその場にへたり込み、荒い呼吸を繰り返しながら、ただ自分の掌を見つめていた。
静寂が戻った街道。
リリィ先生は静かに歩み寄り、僕の目線に合わせて膝をついた。
「そうですね、初陣にしてはまずまずでしたね、1発も当たらない人が多いので、2発も当たったからいいでしょう、
彼女の声は、厳しさよりも温かな慈愛に満ちていた。
「魔物退治はやはり経験ですから、日頃の魔術の練習でも、魔物の動きを意識しながら魔術を放つといいでしょう、最初だから緊張しましたね、大丈夫ですよ」
先生の手が、僕の汗ばんだ茶色の髪を優しく撫でる。
リリィ先生の言う通り緊張した、
心臓の鼓動はまだ正常には戻らず、膝は小刻みに震え続けている。
教えられた通りにやってみたつもりだったが、ゴブリンがどう動くか分からず、狙いを定めきれずに5発のファイヤーボールを放った、
当たったのは2発、命中率は半分以下だ、
この数字が、今の僕の現在地だった。五歳にして全属性の上位魔法を習得したという自負が、本物の「実戦」という風に吹かれて、あっけなく散っていったのだ。
止まった的、動かない訓練場、そして優しい指導。それらがいかに「戦場」から遠い場所にあったか。
(……これじゃダメだ。エアリスを救うどころか、自分の身を守ることさえ、先生がいなければできなかった)
僕は震える手で土を掴んだ。
動きを意識して魔術を放つ、動きながら魔術を放つ、実戦形式の特訓は欠かせないと思った。
ただ魔力を練るだけでは足りない。敵の呼吸、足運び、周囲の起伏。そのすべてを計算に入れ、心臓が爆発しそうな恐怖の中でも、冷徹に「理」を通さなければならないのだ。
僕が立ち上がり、衣服の汚れを払う頃には、リリィ先生は再び馬車の扉を開けて待っていた。
「さあ、ルーメン君。旅はまだ始まったばかりよ」
その言葉に、僕は強く頷いた。
そうこうしている間に、馬車はイーストレイクの街の入口付近まで来た。
街道の先、巨大な石造りの城壁が姿を現す。
ルゼリアとは別の時間が流れる、魔導の最先端にして、エアリスを救う鍵が眠る場所。
僕は、初討伐のほろ苦い経験を胸の深くにしまい込み、新たな決意と共に、イーストレイクの門を潜ろうとしていた。
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