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前世編 第三章 リズムを刻む手

第三章 リズムを刻む手

 春の光は、あの日見た梅の花の色を溶かし込んだように、白く、どこか刺すような鋭さを持っていた。

 1990年。平成という新しい時代の幕開けと共に、僕は地元の公立高校へと進学した。玄関の姿見の前に立つ僕は、三年前よりも明らかに背が伸び、少しだけ逞しくなった肩に、真新しい黒の詰襟——学ランを纏っていた。

 ブレザーにネクタイといった都会的な華やかさとは無縁の、重く、硬い生地。首元を締め付けるプラスチック製の白いカラーが、喉仏に当たって微かな痛みを運んでくる。指先で金色のボタンを一つずつ穴に通していくたびに、カチリ、カチリと硬質な音が静かな玄関に響いた。それは、子供時代の終わりを告げるカウントダウンのようでもあり、新しい戦場へ赴くための儀式のようでもあった。

 鏡の中の自分を見つめる。瞳の奥には、まだ中学時代のあの暗く冷たい教室の記憶が、澱のように沈んでいた。いじめという嵐に晒され、石のように心を固めて耐え忍んだ日々。けれど、学ランの第一ボタンまでしっかりと留め、鏡の中の自分と対峙したとき、僕は不思議な高揚感を覚えていた。この漆黒の制服は、僕にとっての鎧だった。


 家を出て、あぜ道を通り、村に一つしかないバス停へと向かう。

 この田舎には電車など通っていない。交通の要は、一日に数本、申し訳程度にやってくる古い路線バスだけだった。錆びついたトタンの待合室で待っていると、遠くのカーブから黒煙を吐き出しながら、ディーゼルエンジン特有の重低音を響かせてバスが姿を現す。

 「プシュー」という排気音と共に開く扉。乗り込むと、車内には湿った座席のシートと、長年染み付いた油の匂いが混じり合った独特の香りが漂っていた。ガタガタと車体を震わせながら走るバスの振動が、座席を通じて僕の背骨に伝わってくる。窓の外を流れるのは、どこまでも続く田植え前の茶色い田んぼと、芽吹き始めた山々の緑。その単調な景色を眺めながら、僕はカバンの中で、中学時代の終わりに買った参考書の端を無意識に撫でていた。


 高校の校舎は、長い歳月を耐え抜いた木造の部分と、無機質なコンクリートが継ぎ接ぎされた不思議な構造をしていた。廊下を歩くたびに床板が「ギィ、ギィ」と鳴る。

 けれど、その音は僕を追い詰めることはなかった。大きな窓から差し込む春の光が、空気中を舞う埃を黄金色に輝かせ、そこには新しい生活への期待と不安が、程よい熱気となって満ちていたからだ。グラウンドから風に乗って届く、運動部の掛け声。そして、どこかの部室から漏れ聞こえてくる、吹奏楽部のトランペットの鋭い音。その旋律が、凝り固まっていた僕の心を、微かな、けれど確かな振動で揺らした。

 僕の家は、相変わらず慎ましい暮らしのままだった。

 父は夜明け前に家を出て、夜露に濡れながら帰ってくる。祖母は台所の主として、変わらず僕の胃袋を温かい食事で満たしてくれた。祖父は庭先で黙々と雑草を抜き、時折、学ラン姿の僕を見て「立派になったのう」と細い目で笑った。

 夕餉の食卓には、相変わらず湯気の立つ味噌汁と、端が少しだけ焦げた卵焼き。けれど、その「変わらなさ」こそが、新しい環境に身を置く僕にとっては何よりも強力な精神的支柱となっていた。

 高校という場所は、中学時代とは異なる「能力」による序列が生まれる場所だった。

 放課後、バスの時間を気にする生徒たちの多くは、学校に残って自習するか、数少ない塾へと急ぐ。我が家にそんな経済的な余裕がないことは、言わずもがなだった。僕は放課後、図書館の古い木製机に陣取り、閉館のベルが鳴るまで粘った。家へ帰れば、自分の部屋の小さな折り畳み机に向かって、教科書と使い古された参考書だけを頼りに、夜遅くまでペンを走らせた。

 「シュッ、シュッ、シュッ」

 静まり返った深夜の部屋に、鉛筆の先が紙を削る音だけが規則正しく響く。

 ふと、僕は気づいた。この音は、リズムだ。

 英単語を一文字ずつ書く。数式を一段ずつ展開する。間違えては消しゴムで消し、また一から正確に書き直す。そのストイックな繰り返しは、どこか楽器の基礎練習に似ていた。音の代わりに、僕は自分の脳内に数字や言葉という断片を、一つずつ、寸分違わぬ拍子で刻み込んでいく。そう考えるようになると、あれほど孤独で退屈だった勉強が、自分の中の「無音の音楽」を奏でる行為へと変わっていった。


 そんなある日のことだった。

 部活動の見学期間中、音楽室の前を通りかかったとき、腹の底を直接揺さぶるような、凄まじい衝撃が聞こえてきた。

 「ドン、パッ、ドド、パッ」

 ドラムの音だった。

 1990年代初頭。音楽シーンがバンドブームの余韻の中にあった時代。ブラウン管の向こう側で輝くスターたちが鳴らしていたあの音が、目の前の扉の向こうで鳴り響いていた。軽やかで、迷いがなく、それでいて力強く空間を支配するリズム。その音を聴いた瞬間、僕の全身の血が逆流するような感覚に陥った。

 気づけば、僕は音楽室の扉を勢いよく押し開けていた。

 そこには、合奏の練習を始める吹奏楽部の姿があった。金管楽器の煌びやかな残響、木管楽器の柔らかな息遣い。そしてその中心で、楽曲の骨組みを、心臓の鼓動のように支えるドラマー。スティックを操る先輩の、一分の無駄もない動きを、僕は食い入るように見つめた。

 その日のうちに、僕は入部届を提出していた。担当はもちろん、パーカッションだった。

 けれど、憧れだけでは音は鳴らなかった。

 初めて本物のドラムセットに座り、スティックを握ったとき、僕の身体は石のように固まった。右手と左手、そしてバスドラムを踏む右足。それぞれを独立して動かすという行為は、まるで一つの体で別々の三つの物語を書くような困難さを伴った。リズムは瞬く間に崩壊し、無機質な打撃音だけが虚しく響く。

 「光一、もっと力を抜かんね。学ランと同じばい、力みすぎれば動きの鈍くなるぞ」

 先輩の言葉に頷きながらも、僕は何度も何度も間違えた。けれど、中学時代の、あの終わりの見えないいじめの苦痛に比べれば、リズムがずれることなど、僕にとっては「解決可能な課題」に過ぎなかった。間違えるたびに、僕は「もう一回」と自分に言い聞かせ、スティックを振り下ろした。

 部活動の練習だけでは、到底満足できなかった。

 けれど、本物のドラムセットなど、家が買えるはずもないことは重々承知していた。僕は小学校の頃からずっと、使わずに貯めていたお年玉のポチ袋をすべてかき集めた。祖母がこっそり持たせてくれた小遣いも足した。それでも足りない分は、意を決して、父と祖父に頭を下げた。

 「これで、勉強も今以上に頑張ります。どうしても、叩けるようになりたいんです」

 僕の、これまでにないほど強い眼差しに、父は黙って数枚の万札をちゃぶ台の上に置いた。


 数日後、我が家に中古の電子ドラムが届いた。

 段ボールを開けた瞬間、独特の金属の匂いとゴムの香りが部屋に広がった。スティックを握る手が、武者震いのように震えたのを今でも覚えている。

 それからの日々は、まさに「リズムへの没頭」だった。

 テレビに繋いだ古いビデオデッキに、録画した音楽番組のテープを差し込む。プロのドラマーの動きを、スロー再生や巻き戻しを繰り返して、擦り切れるまで見つめた。

 夜遅くまで、パッドを叩く「ポコポコ」という乾いた音が、静まり返った田舎の夜に響く。

 「光一、うるさかばい! 牛の起きるぞ!」

 祖父に冗談混じりで叱られることもあったが、僕はやめなかった。叩くたびに、僕の中に溜まっていた、中学時代のあの泥のような感情が、音と一緒に外へ排出されていくような気がしたからだ。

 不思議なことに、ドラムの上達は、勉強の効率をも劇的に変えていった。

 難しい数学の難問にぶつかったとき、僕は焦るのをやめた。スティックを握るときと同じように、まずは肩の力を抜く。学ランの首元の窮屈さを忘れ、深呼吸をする。問題を小さな拍子に分解し、一歩ずつ、正確な手順を繰り返していく。

 「焦らず、乱れず。もう一度、最初から」

 自分に言い聞かせる内的リズムが、いつの間にか「恐怖」を「挑戦」へと塗り替えていた。気づけば、苦手だった英語の長文も、複雑な物理の法則も、僕にとっては乗り越えるべき「長い一曲」のように感じられるようになっていた。


 高校三年の春、進路希望調査票を前にした夕食の席で、父がぽつりと、しかし拒絶を許さないトーンで言った。

 「光一。うちは私立は絶対に無理だ。国立に受からんと、大学へ行かせることはできんぞ。浪人も許さん」

 その言葉は、冷酷な現実となって僕の胸を締め付けた。1990年代。日本がバブルの絶頂から崩壊へと向かいつつある中で、地方の、それも僕のような家柄の人間が学問を続けるためには、国立大学という狭き門を突破する以外に道はなかった。

 「分かっとる。必ず国立に行く。約束する」

 僕はただ、短く答えて頷いた。学ランのカラーが、あの日よりも強く喉を締め付けたような気がした。その重圧を、僕は右手のペンの重みと、左手のスティックの重みとして、全身で受け止めた。

 昼は学校の授業と図書室。一日に数本のバスに揺られて帰宅し、夜は再び机に向かう。家族が寝静まった深夜、再び電子ドラムの前に座り、無音のリズムを刻む。

 ノートの端には、微分積分の公式の代わりに、スティックのストロークを描いた落書きが増えていた。けれど、その本質は同じだった。

 “叩くこと”も“学ぶこと”も、自分の中にある未熟さを、反復という名の祈りによって磨き上げる行為なのだ。


 冬が近づき、受験シーズンが本格化する頃、模試の成績表に僕の受験番号が載るようになった。

 「川田。お前、これなら国立を狙えるぞ。最後まで気を抜くな」

 進路指導室で先生にかけられたその言葉。かつて「お前は根暗だ」「気持ち悪い」と言い捨てられたあの教室と同じ場所で、今、僕は「期待」という名の光を浴びていた。自分の努力が、他者の肯定的な声によって形を成した瞬間、視界が熱く滲んだ。

 受験当日の朝。

 九州の冬の空気は鋭く冷え込み、校門の前で深呼吸をすると、肺が痛いほどに引き締まった。

 手のひらが、自分でも驚くほど緊張で震えている。僕は学ランのポケットの中で、三年間使い続けた愛用のスティックを握るイメージで、手を強く開き、そしてゆっくりと閉じた。

 その感触を思い出すだけで、不思議と心が凪いでいった。

 試験会場の、独特の静寂の中で、僕の頭の中には、三年間叩き続けてきたドラムのリズムが流れていた。

 「焦らず、乱れず。ひとつずつ、正確に」

 まるで、三年間練習し続けた長い、長い楽曲の、たった一度きりの本番を迎えるように、僕は解答用紙に自分の人生のリズムを刻み続けた。


 そして、春が来た。

 合格発表の日。掲示板に並ぶ無数の数字。

 自分の受験番号を見つけた瞬間、足の力が抜け、膝が冷たいコンクリートについた。

 「あった……」

 声にならなかった。けれど、僕の心の中では、今までにないほど激しく、最高に力強いドラムのロールが鳴り響いていた。

 家に帰ると、祖母がエプロンの端で何度も目を拭きながら泣いていた。

 祖父は「よぉやった、よぉやった」と僕の背中を何度も叩き、父は黙って、僕の少し逞しくなった肩を、一度だけ強く掴んだ。

 「よく頑張ったな」

 その一言が、僕の中のすべての過去を、報いてくれた。

 その夜、僕は自分の机を見つめた。

 そこには、三年間使い古したスティックと、何十本もインクを使い切ったペンが並んでいた。どちらも、僕をこの新しい世界へと連れてきてくれた、無二の戦友だった。

 ふと窓の外を見上げると、庭の隅に一本の梅の木が、見事なまでに満開の花を咲かせていた。

 白く、静かに、けれど圧倒的な力強さで、月明かりを反射している。

 あの中学時代の帰り道に、僕を救ってくれたあの花と同じ、凛とした佇まい。

 「梅は寒かほど、咲きたがるとばい」

 祖父の言葉が、今なら真理として理解できた。

 寒さに耐え、屈辱に耐え、それでも自分を刻むことをやめなかった者だけが、この白い光を放つことができるのだ。

 

 ボタンを留める手。ペンを握る手。スティックを振る手。

 そのすべてが、僕の人生の新しいリズムを刻み始めていた。

 冷たい風はまだ吹いている。けれど、僕の胸には、もう二度と凍ることのない、確かな春が咲き誇っていた。


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