リリィ編 第五十九章 リリィの快気祝い③ リリィの快気祝い
食卓に全員が揃うと、家の中の空気が、はっきりと一段切り替わった。
料理の湯気と香りが満ち、椅子を引く音が静かに重なる。父さんが一度、周囲を見渡し、それから小さく咳払いをした。
「じゃあ……始めようか」
その声は大きくはないが、よく通る。
家族としての声であり、今夜の場を整える声だった。
父さんはグラスを手に取り、ゆっくりと立ち上がる。
母さんとエレナ、そして俺もそれに倣い、リリィ先生も少し遅れて立ち上がった。
「今日は」
父さんは、正面に立つリリィ先生を見て、穏やかに続ける。
「リリィ先生の快気祝いだ」
その言葉に、場の意味がはっきりと定まる。
ただの食事ではない。祝うための時間だ。
「学校に戻ってきてくれたこと、そして……」
父さんは一瞬だけ言葉を選んだ。
「無事に、ここまで戻ってきてくれたこと。本当によかった」
“治った”とは言わない。
けれど、その一言の裏に込められた安堵は、誰にでも伝わった。
リリィ先生は、驚いたように目を瞬かせ、それから静かに頭を下げる。
「……ありがとうございます」
父さんは軽く首を振り、グラスを掲げた。
「細かいことは、食べながらでいい。今日は、たくさん食べて、たくさん話そう」
そう言って、皆の顔を順に見回す。
「それじゃあ……乾杯」
「乾杯」
声が重なり、グラスが軽く触れ合う。
澄んだ音が、家の中に響いた。
一口目の飲み物を口に含んだ瞬間、空気が一気に和らいだ。
緊張は完全に消えたわけではないが、それぞれが“楽しんでいい時間”に足を踏み入れたのが分かる。
「……本当に、ありがとうございます」
リリィ先生は、グラスを下ろしながら、改めてそう言った。
「こうして祝っていただけるなんて……正直、思っていませんでした」
「遠慮しなくていいのよ」
母さんが、柔らかく笑う。
「今日は、ゆっくりしていってください。主役なんですから」
「主役……ですか」
リリィ先生は、少し照れたように視線を伏せる。
「そんなふうに言ってもらえると……嬉しいですね」
父さんは満足そうに頷いた。
「治ってよかった、っていう気持ちは、みんな同じだ」
その言葉に、誰も反論しない。
それぞれが、それぞれの形で、この時間を待っていた。
「さあ、冷めないうちに食べよう」
父さんの一声で、ようやく食事が始まる。
料理を口に運ぶ音、感想を交わす声、時折混じる笑い。
回帰祝いの食事会は、こうして正式に始まった。
この席には、まだ話されていないことも多い。
けれど今は、それを急ぐ必要はない。
まずは祝う。
無事に戻ってきたことを、共に喜ぶ。
それだけで、この夜は、十分に意味を持っていた。
食卓に料理が並び始めると、空気はさらに柔らいだ。
湯気の立つ皿から立ちのぼる香りに、リリィ先生は自然と表情を緩め、ひと口、慎重に箸を運ぶ。
「……美味しいです」
声は小さかったが、はっきりとした実感がこもっていた。
噛みしめるように味わい、もう一度、今度は少しだけ息を吐く。
「本当に……すごく美味しいですね」
母さん――リオラは、少し照れたように微笑む。
「ありがとうございます。特別なことはしていませんよ。いつも通りです」
「そんなことはありません、すごく美味しいです」
リリィ先生は、迷いなくそう言った。
「忙しいと、どうしても外食や簡単なもので済ませてしまうことが多くて……。こういう味は、久しぶりです」
家庭の味。
その言葉を、リリィ先生は口にはしなかったが、表情がそれを語っていた。
何品か味わったあと、リリィ先生は、ふと箸を止めた。
そして、俺の方を向く。
「……ルーメンは」
少し間を置いた呼びかけだった。
何気ない会話の流れを装いながら、視線だけが、はっきりとこちらを捉えている。
「ルーメンは、どの料理が好きなんですか?」
俺は少しだけ考え、素直に答える。
「僕は……特に、これですね」
一つの皿を指し、それから少し照れくさくなって、もう一つ。
「次に、これが好きです」
ただの好みの話だ。
少なくとも、俺自身はそう思っていた。
けれど、その答えを聞いた瞬間、リリィ先生の目が、ほんのわずかに和らいだのを、俺は見逃していた。
「……なるほど」
小さく頷き、記憶するような間。
「では」
そう前置きしてから、リリィ先生は母さんへと向き直る。
「ぜひ、その二つのレシピを教えてください」
その言葉は、自然で、柔らかくて、けれど確かだった。
まるで、未来のどこかで“作る側”になることを、当然のように想定しているかのように。
「ふふ、分かりました」
母さんは、にこやかに頷いた。
「材料も手順も、難しくありませんよ」
「ありがとうございます」
リリィ先生はそう言ってから、もう一度だけ、俺の方を見る。
そこにあったのは、教師の視線ではない。
研究者の分析でもない。
……あなたのことを、もう少し知りたい
そんな静かな感情が、ほんの一瞬、滲んでいた。
料理は、ただ胃を満たすものではない。
この夜、食卓に並んだ味は、人と人との距離を、確実に近づけていた。
料理がいくらか減り、食卓の上に落ち着いた余白が生まれ始めたころ、場の空気はすっかり和やかなものになっていた。最初に感じていた緊張はもうほとんどなく、会話も自然に行き交っている。
「……本当に、どれも美味しいですね」
リリィ先生は、箸を置いてそう言った。満足したというより、噛みしめるような声だった。
「こうして、ゆっくり食事ができるのは……久しぶりです」
「忙しいお仕事ですものね」
母さんがそう返すと、リリィ先生は小さく苦笑した。
「ええ。研究や授業に追われていると、どうしても時間に追いつかなくて。食事は“済ませるもの”になりがちでした」
その言葉には、後悔よりも、今この時間を味わっている実感が込められている。
「……やっぱり」
リリィ先生は、食卓を見渡して続けた。
「こういうのが、一番幸せになりますね」
何気ない一言だったが、誰も否定しなかった。
むしろ、家族全員がそれぞれに頷いていた。
しばらくして、父さんがグラスを手に取りながら言う。
「リリィ先生は、お酒は飲まれますか?」
その問いに、リリィ先生は少し考えるように首を傾げた。
「時々は……ですね」
「でも、あまり強くないんです。少し飲むと、すぐ眠くなってしまって」
「そうなんですか」
「ええ。ですから、今日は遠慮しておきます」
その言い方は、気取らず、背伸びもしていなかった。無理に大人ぶらない、その自然さが、この場によく合っている。
「それがいいわね」
母さんが微笑む。
「今日は、ゆっくり過ごしてもらう日ですから」
「ありがとうございます」
リリィ先生は、そう言って湯飲みに手を伸ばした。
俺は、そのやり取りを見ながら、改めて思う。
この場にいるリリィ先生は、学校で見る姿とも、研究室での姿とも違う。
一人の客として。
一人の大人として。
そして、どこか等身大の人として。
「……こうして話していると」
リリィ先生は、ぽつりと続けた。
「時間が、ゆっくり流れている気がします」
「そうですね」
俺は頷いた。
「うちは、いつもこんな感じです」
「……いいですね」
その言葉は、短いが、深い。
食卓に流れるのは、特別な話題ではない。
料理の感想、仕事の忙しさ、日常の些細なこと。
それでも、その一つひとつが、確かな幸福を形作っていた。
やがて、会話は自然と途切れ、静かな時間が戻ってくる。
誰も、それを気まずいとは思わない。
この何気ないひとときこそが、快気祝いの本質なのだと、俺は思った。
無事に戻り、こうして同じ食卓を囲めていること。
それ以上の祝福は、きっとない。




