前世編 第二章 閉ざされた教室
第二章 閉ざされた教室
春の風は、小学校の頃に校庭で追いかけていたものとは、決定的にその質を変えていた。
それはどこか埃っぽく、陽を浴びて熱を持ち始めたアスファルトの、独特の焦げたような匂いを孕んでいる。真新しい制服は、まだ糊が効きすぎていて板のように硬く、首筋を擦るたびにわずかな、しかし消えない痛みを伴った。僕はその少し長すぎる袖を何度も何度も引きながら、これから三年間を過ごすことになる中学校の、重厚な鉄の校門をくぐった。
視界に入るのは、小学校から六年間、同じ教室で机を並べてきた見慣れた顔ぶれだ。けれど、その密度は昨日までとは異なっていた。校区の統合により、他の小学校から来た見知らぬ生徒たちが、怒涛の勢いで校庭を埋め尽くしている。その知らない顔の多さ、そしてそこから放たれる未知の熱量、剥き出しの好奇の視線。僕の胸の奥は、小さな警鐘を鳴らすように、ひどく不安定にざわついた。
教室という空間は、足を踏み入れた瞬間にその性質を「学びの場」から「生存の場」へと変えていた。
小学校のときの、あの柔らかい陽だまりのような、どこか家族的な空気は微塵もない。そこにあるのは、新調されたポリエステル製の制服の匂い、成長期特有の男子たちの、不必要に大きく野太い笑い声、そして威嚇するように机に足を乗せる音。すべてが鋭利で、何かに飢えているかのように張りつめている。笑い方ひとつ、言葉のトーンひとつ、あるいは持ち物ひとつを間違えれば、精巧な積み木細工のように危うい均衡が崩れ、奈落へと叩き落とされるような——そんな殺伐とした予感に満ちていた。
最初は、本当にごく些細な違和感に過ぎなかった。
けれど、時間は残酷な彫刻家のように、その違和感に鋭利な形を与え始めた。授業中、斜め後ろから飛んでくる消しゴムの破片。ノートを取るペン先が狂うほどの、背後からわざと机を蹴られる振動。それまでは教室全体に無邪気に散らばっていた笑い声が、少しずつ、しかし明確な指向性を持って、僕という個人に向けられるようになっていった。
決定的な瞬間は、ある湿った放課後の廊下で訪れた。
部活動の勧誘ポスターを、どこか他人事のように眺めていた僕の肩に、強烈な衝撃が走った。壁に押し付けられ、冷たいコンクリートの感触が、薄い制服を突き抜けて背中を打つ。
「お前、地味なくせにスカしとんな。気持ち悪いんだよ」
そう言って僕を見下ろしたのは、他の小学校から来た、声の大きい生徒たちだった。彼らの瞳には、僕という人間を尊重する意志など微塵もなく、ただ自分たちの優位を確認するために「格下」を嬲る、下卑た悦びだけが濁っていた。
けれど、本当の絶望は、加害者の剥き出しの言葉ではなかった。
彼らの背後で立ち止まり、成り行きを見守っていた足音の中に、聞き慣れた声が混じっていたのだ。昨日まで、あるいは春休みまで「光一」と呼んで笑い合っていた、小学校時代からの同級生たちの声。彼らは僕と目が合うと、一瞬だけ、罪悪感に似た怯えを見せて視線を逸らした。しかしそれから——周囲の支配的な空気に合わせるようにして、乾いた、卑屈な笑い声を上げたのだ。
それが、何よりも痛かった。肉体に受けた衝撃よりも深く、魂を根こそぎ切り裂くような、逃げ場のない裏切りだった
。
その日を境に、教室は僕にとっての戦場……いや、酸素の希薄な、逃げ場のない檻となった。
翌朝、重い足取りで教室に入り、机の蓋を開ける。そこには、無惨に引き裂かれた教科書が、死骸のように重なっていた。ノートの真っ白なページには、黒々としたマジックの太い筆致で「気持ち悪い」「根暗」「目障りだ」という文字が、呪詛のように執拗に刻まれている。
1980年代という時代、まだ「いじめ」という言葉すらどこか他人事であった教室において、その言葉の暴力は、剥き出しのまま僕の心に突き刺さった。
体育の時間、下駄箱から取り出した上履きには、冷たい泥が隙間なく詰められていた。それを知らずに足を入れ、異物感と汚れに顔を歪めた瞬間、背後で爆発的な歓喜の渦が巻き起こった。
「あはは! どんくさかー! 気色悪か!」
教室の中に満ちる、湿った、それでいて鋭利な悪意。
「おい、やめろ」
教壇に立つ担任は、教科書をめくる手を止めず、事務的にそう言った。体罰すら辞さない昭和の熱血教師像とは程遠い、ただ平穏を乱されることを嫌う官僚的な無関心。むしろ、彼は面倒な問題を抱え込んだ厄介者を見るような目で、一瞬だけ僕を射抜くように睨みつけた。あの教師の冷徹な視線こそが、僕から最後の抵抗心を奪い去った。大人すらも僕の味方ではない。この事実は、真冬の九州の曇り空よりも冷たく、僕の肩にのしかかった。
季節が巡るにつれ、僕の中で何かが静かに、しかし確実に磨り減っていった。
賑やかな昼休み、僕は机に伏して、弁当を食べるふりをした。誰かと目が合えば、そこに拒絶か、あるいは最も耐え難い「嘲笑」を見出してしまうのが怖かったからだ。僕はただ、窓の外の変わらない景色、校庭の隅に置かれた古びた百葉箱だけを見つめていた。
そのうち、僕は笑うことを完全に忘れた。そして、泣くことすらも、体力の無駄だと感じてやめてしまった。心は石のように硬くなり、感覚を遮断することで、辛うじて自己の崩壊を防いでいた。
家では、決して何も言わなかった。
祖母が「光一、おかえり。よう頑張ったね」と、すべてを知っているような、あるいは何も気づいていないような優しい顔で出してくれる夕飯を、僕は黙々と口に運んだ。父が仕事から帰ってきて、「学校はどうだ。勉強はしよるか」と短く問いかけてくる。僕はその度に、あらかじめ用意していた嘘を、一番自然なトーンで差し出す。
「楽しいよ。友達ともうまくやりよる」
その言葉だけは、自分の本心を塗りつぶすほどに、滑らかに口から出るようになっていた。家族に心配をかけたくないという想いと、惨めな自分を、自分の一部である彼らに直視させたくないという、最後の一片の虚栄心。それが、僕に孤独な嘘をつき続けさせた。
冬が訪れた頃、学校の空気はさらに鋭利な殺意を帯びていた。
下駄箱には左右バラバラの、カッターで切り刻まれた上履きが放り込まれ、ロッカーには誰が使ったかもわからない汚れた雑巾が、悪臭を放ちながら詰め込まれていた。
ある放課後、体育館の裏に呼び出され、不意に突き飛ばされた。硬い砂利の上に転がり、膝が焼けるような熱い痛みを上げる。血が滲んでいくのをぼんやりと見つめながら、僕はただ、自分を囲む数人の影を見上げていた。
誰も助けなかった。通りがかった他クラスの生徒たちも、見て見ぬふりをして、何かに追われるように足早に去っていく。
肉体の痛みよりも、「誰にも見られなかったこと」が悲しかった。世界という巨大なシステムから、自分の存在だけが透明になり、意図的に消去されていくような、耐え難い疎外感。僕は自分が本当に生きているのか、それともすでに死んで幽霊になってしまったのかさえ、判別できなくなっていた。
出口のない闇の中、卒業の足音が近づいてきた。
制服の袖は三年前よりも明らかに短くなり、吹き付ける風はいっそう厳しさを増す。賑やかに思い出を語り合い、サイン帳を回し合うクラスメイトたちの輪の中で、僕だけが違う季節、違う世界に取り残されているようだった。卒業式の練習。体育館の冷え切った床の上に並び、無機質な号令に合わせて起立し、礼をする。そこにどんな意味があるのか、僕には一言も分からなかった。
その日の帰り道のことだった。
空気は肺の奥まで凍りつくほどに冷たかった。いつもの通学路、角を曲がった瞬間に、視界の隅で何かが白く揺れた。
梅の花だった。
誰の持ち物でもないような古い石塀の向こう側、まだ冬の寒さが色濃く残る、節くれ立った荒々しい枝に、その花は咲いていた。誰に注目されることもなく、誰に褒められることも望まず。ただ、凍えるような大気に真っ向から逆らうように、静かに、けれど圧倒的な、拒絶しがたい意志を持って咲き誇っていた。
僕は足を止め、その花を吸い込まれるようにじっと見つめた。
冷たい風が頬を刺し、指先の感覚はもう失われている。けれど、僕の胸の奥は、これまでに感じたことのない種類の、根源的な温かさに満たされていた。
——綺麗だ。
心からそう思った。この残酷な世界において、何かを純粋に「綺麗だ」と感じたのは、生まれて初めてのことだった。いじめという痛みで泥水のように曇りきっていた僕の世界の中で、その梅の白さだけが、暴力的なまでの鮮やかさで、僕の網膜を、そして魂を射抜いた。
何も言わなくていい。誰にも認められなくていい。それでも、自分という命を全うするために、この冷たさの中で咲く。それがどれほど強く、気高いことなのかを、僕はその花から教えられた気がした。
帰宅し、居間にいた祖父にその話をすると、彼は古い新聞を畳み、静かな声で言った。
「梅は寒かほど、咲きたがるとばい。苦しか思いばした分だけ、花は綺麗になるとよ」
その言葉は、僕の魂の最深部に、重く、深く突き刺さった。隣で茶を淹れていた祖母も、僕の顔を覗き込んで、すべてを包み込むように優しく笑った。
「光一はよう見とるね。その花は、あんたの心の色かもしれんね」
その夜、僕は暗い天井を見つめながら、昼間に見たあの白い花を何度も思い返していた。
闇の中でゆっくりと揺れる、白く、小さな、けれど強靭な一輪。
——あの花のように、生きられたらいい。
その想いが、冷え切った僕の心の底で、小さな、決して消えることのない灯火となった。
明日もまた、地獄のような教室へ行かなければならない事実に変わりはない。けれど、僕の胸にはあの「白」がある。それだけで、僕はほんの少しだけ、自分を、この汚された自分を、もう一度だけ信じてみようと思えたのだった。
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