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ソアラ編 第四十六章 ソアラの日常と気持ちの変化② 釣り合わない私の祈り

時間に余裕ができたことで、私は、考えなくてよかったことまで、考えるようになってしまった。

前は、そんな暇はなかった。

朝起きたら、洗濯をして、掃除をして、弟たちを起こして、朝食を作って、身支度を手伝って、送り出して。

考える余白なんて、一つもなかった。


でも今は、魔術の練習が終わったあと、ふと、立ち止まってしまう時間がある。

川辺からの帰り道。風が髪を揺らす感覚。水面に映る自分の姿。

そのとき、胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さる。

(……私、ひどい格好だ)

服は、少ない。

何度も繕って、色もすっかり褪せている。

他の子たちが着ているような、きれいな制服の下に着る服も、私は持っていない。

髪だって、ちゃんと手入れなんてできていなかった。


以前は、「仕方ない」と思っていた。

貧しい家に生まれたのだから、こうなるのは当たり前だと。

弟たちが生きていければ、それでいい。

自分のことは、後回しでいい。

そう思っていたはずなのに。


今は違う。

ルーメンの隣に立つと、その差が、否応なく目に入ってしまう。

彼の服は、特別に派手なわけじゃない。

でも、清潔で、きちんと整っている。

姿勢も、所作も、言葉遣いも。

「ちゃんとしている人」

という印象が、自然と滲み出ている。


それに比べて、私は。

肌は荒れているし、手も、家事で荒れたまま。

鏡を見るたび、見ないふりをしてきたものが、急に、はっきり見えてしまう。

(……こんな私)

胸の奥で、そう呟く声がする。


ルーメンは、何も言わない。

私の服のことも、髪のことも、一度も、気にした素振りを見せない。

それが、余計につらかった。

見下されているわけじゃない。

同情されているわけでもない。

ただ、気にしていない。

それが、「差」をはっきりさせる。

私は、同じ場所に立っているつもりで、ずっと下を見上げているだけなんじゃないか。

(……釣り合わない)

その言葉が、頭に浮かんで、何度も消えない。


ルーメンは、魔術がすごい。

人としても、とても立派だ。

優しくて、冷静で、頼りになる。

私は、貧しくて、みすぼらしくて、魔術も、つい最近まで初位止まりだった。

こんな私が、彼の隣に立つ資格なんて、あるのだろうか。

そう考えてしまう自分が、嫌だった。


ルーメンは、私を助けてくれた。

環境を変えてくれた。時間をくれた。未来を、見せてくれた。

だからこそ、これ以上、近づいてはいけない気がする。

迷惑をかけたくない。

重荷になりたくない。

勝手に期待して、勝手に傷つくなんて、そんなこと、してはいけない。

(……私は、私の場所にいればいい)

そう言い聞かせる。

魔術を教えてもらえるだけで、十分すぎる。

これ以上を望むのは、贅沢だ。

でも。そう思えば思うほど、胸の奥に、別の感情が静かに広がっていく。

劣等感と、憧れと、感謝とそして、ほんのわずかな、手放したくないという気持ち。

それらが混ざり合って、私の心は、少しずつ不安定になっていった。



魔術の練習が、私にとって何を意味しているのか。

それを、私は最近になって、ようやく自覚し始めていた。

魔術が上達すること。良い職業に就ける可能性が広がること。家族に仕送りができる未来。

それらは確かに大切だ。でも、それだけじゃない。

魔術の練習の時間は、私が、ルーメンのそばにいられる時間だった。

それに気づいた瞬間、胸の奥が、少しだけ苦しくなった。

川辺での練習。魔力の流れを説明する声。うまくいった時の、短い頷き。

失敗したときも、責めることはない。

「大丈夫。今のはここが少し違っただけ」

その言い方は、いつも穏やかで、落ち着いていて、でも、確かに私を見てくれている。

誰かに、こんなふうに向き合ってもらったのは、初めてだった。


家では、「できて当たり前」だった。

家事も、弟の世話も。できなければ困る。できても、評価はない。

それが普通だった。

でも、ルーメンは違う。

小さな進歩でも、きちんと気づいてくれる。

「今のは良かったよ」

「昨日より、確実に安定してる」

その一言で、胸の奥が、少し温かくなる。

だから、魔術の練習が終わる時間が近づくと、心がざわつく。

(……もう終わりなんだ)

そんなふうに思ってしまう自分に、はっとする。

これは、魔術のためじゃない。


私は、この時間そのものを、失いたくないと思っている。

ルーメンの声が聞こえる場所。同じ景色を見て、同じ風を感じて、同じ魔力の流れを意識する時間。

それが、私の日常になってしまった。

でも、それは永遠じゃない。

私は、もうすぐ学校を出て、学院に進まなければならない。

それは、ずっと前から決まっていたことだ。

母のため。弟たちのため。家族の未来のため。

逃げるつもりはない。

行かなければならないことも、分かっている。

それなのに。


(……行きたくない)

そんな言葉が、心の底から、浮かび上がってくる。自分でも、驚くほど、はっきりと。

学校を出ることが嫌なんじゃない。勉強が嫌なわけでもない。

ただ、ここを離れたくない。

ルーメンのいる場所から、遠ざかりたくない。

魔術の練習がなくなれば、私は、彼と会う理由を失う。

教えてもらう立場じゃなくなれば、話す機会も減っていく。

そう考えると、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


(……私、何を考えてるんだろう)

これは、ただのわがままだ。そう分かっている。

貧しい家庭に生まれて、弟たちの面倒を見て、一度も「自分のため」に何かを願ったことのない私が、今さら、誰かのそばにいたいなんて。

そんな感情を抱く資格は、ないはずなのに。

でも、一度芽生えてしまった想いは、簡単には消えてくれなかった。

魔術の練習が終わったあと、家に戻る道すがら。

ふと、振り返ってしまう。もう、誰もいない川辺を。

(……また、明日も)

そう思う自分がいる。

そして同時に、「いつか、終わる」という現実が、重くのしかかる。

私は、理性では理解している。これは、わがままだ。でも、心は、少しずつ、それを否定しなくなっていた。



私は、これまで一度も、神様に願い事をしたことがなかった。

神様に願ったところで、貧しい家が急に豊かになるわけでもない。

亡くなった父が戻ってくるわけでもない。

家事や弟たちの世話が、誰かの代わりに消えてなくなるわけでもない。

そうやって、私はずっと、「願う」という行為そのものを、心のどこかで切り捨ててきた。

願う前に、やらなければならないことがあった。

考える前に、動かなければならなかった。

だから、神様なんて、遠い存在だった。


それなのに。最近、夜になると、考えてしまう。

布団に横になり、弟たちの寝息を聞きながら、天井を見つめて。

(……もし、神様がいるなら)

そんな言葉が、自然と浮かんでくる。自分でも、少し怖くなる。

だってそれは、今までの私なら、決して口にしなかった言葉だから。


私は、分かっている。この気持ちは、正しくない。

学院に行くことは、私にとって必要なことだ。魔術の才能を伸ばして、職業に就いて、家族を支える。

それが、私の役割だ。それを放り出して、「ここにいたい」なんて。


(……そんなの、わがままよね)

自分で、自分を戒める。

でも、心は、それでも静かにならない。

魔術の練習が終わったあと、ルーメンの背中を見送るとき。

家に帰る途中で、ふと立ち止まったとき。

風が吹いて、川の音が遠くに聞こえたとき。

そのたびに、胸の奥が、じん、と疼く。


(……もう少しだけ)

そんな言葉が、喉元まで上がってくる。もう少しだけ、この時間が続けばいいのに。もう少しだけ、ここにいられたらいいのに。

魔術の練習という理由があるから、私はルーメンのそばにいられる。

それがなくなったら、私は、ただの「通り過ぎる人」になる。

そう思うと、息が詰まりそうになる。


(……神様)

心の中で、小さく呼びかける。声に出したわけでもない。誰に聞かせるつもりもない。

ただ、胸の奥で、そっと。


(……お願いです)

これまで、一度も言ったことのない言葉。


(……私の、わがままを)

胸が、きゅっと締めつけられる。願ってはいけないと、ずっと思ってきた。

でも、今は。


(……この時間を、もう少しだけ、続けさせてください)

学院に行かなくていい、とは言わない。家族を捨てたいわけでもない。

ただ、今、この場所で、今、この時間を、失いたくない。

それだけなのに。

でも、その「それだけ」が、どれほど強い願いなのかを、私はまだ知らなかった。

神様は、返事をしない。空は、何も変わらない。夜は、静かに更けていく。

それなのに、胸の奥で、何かが、わずかに熱を帯びた。


ほんの一瞬。鼓動と一緒に、魔力が、微かに揺れた気がした。

(……今の、なに?)

気のせいだと、自分に言い聞かせる。

疲れているだけ。考えすぎているだけ。

そう、思おうとした。けれど、その夜から、私の中で、「留まりたい」という感情は、はっきりと形を持ち始めていた。ただの祈り。ただの願い。


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