エレナ編 第三十八章 エレナ③ 救済の声
~閉じ込められていたエレナの視点~
窓が、軋んだ。
割れるほどの音ではない。
ただ、誰かが無理やり身体を押し出したときの、切迫した音。
次の瞬間、部屋の空気が、はっきりと変わった。
「……やめて!」
震えた声だった。叫びではない。怒りでもない。
それでも、その声は、確かに場を切り裂いた。
稲妻の光に照らされて、小さな影が飛び出してくる。
それは、閉じ込められていたエレナだった。
足は震えている。顔色は青白く、目は恐怖で大きく見開かれている。
明らかに、怖がっている。
それでも。身体が、勝手に動いていた。
「……その子も……エレナ……!」
声が裏返る。
喉が詰まり、涙が滲んで、それでも止まらない。
「その子もエレナ……同じ、私なの……!」
稲妻の光が、彼女のすぐ横で唸りを上げる。
一歩間違えれば、巻き込まれてもおかしくない距離。
それでも、閉じ込められていたエレナは止まらなかった。
「……消そうっていうなら……」
一瞬、言葉が詰まる。
怖い。死ぬかもしれない。
それでも、視線は、まっすぐルーメンを見据えていた。
「……私も、一緒に消して……!」
その言葉が落ちた瞬間。
世界が、確かに、止まった。
稲妻の膨張が止まり、光が、わずかに揺らぐ。
ルーメンの瞳が、初めて、大きく揺れた。
「……っ」
息を呑む音。怒りの熱が、急激に冷やされていく。
殺す。裁く。断罪する。
その線の上に立っていた意識が、はっきりと、引き戻される。
守る。
その選択肢が、ここで、初めて現れた。
~外にいたエレナの視点~
一方で。
今まで外にいたエレナは、完全に固まっていた。
(……え……?)
目の前で起きていることが、理解できない。
(……何で……私が……)
怒りも、反論も、すべて吹き飛ぶ。
残ったのは、ただ一つ。
(……殺される……)
自分が何をしたか、ではない。
正しいか、間違っているか、でもない。
ただ、今、命が奪われかけているという事実。
そしてその前に、自分と同じ顔をした存在が、命を差し出すように立っている。
理解が、追いつかない。
でも。胸の奥で、確かな痛みが走った。
稲妻は、小さく萎んでいく。
轟音の余韻だけが、耳の奥に残り、遅れて、焦げた匂いが鼻を刺す。
張り詰めていた空気が、まるで糸を切られたように、ゆっくりと弛んでいく。
今まで外にいたエレナは、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
膝が、がくがくと震えている。
指先に力が入らず、感覚が曖昧だ。
(……生きてる……?)
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
呼吸の仕方すら、思い出す必要があった。
ほんの少し前まで、死は、確実に、目の前にあった。
兄の右手に宿っていた光。
凝縮され、爆発寸前まで膨れ上がった稲妻。
あれは、脅しではない。怒りに任せた誇張でもない。
本気だった。
殺される。
そう理解した瞬間、思考は音を立てて崩れ落ちた。
怖い、という感情すら、後から追いかけてきたほどだ。
そのとき、視界の端に、動く影が入った。
閉じ込められていたエレナ。
震えながら、足をすくませながら、それでも、一歩前に出ていた。
自分を庇うように。兄の前に、身体を差し出すように。
(……何で……)
問いが浮かぶ前に、胸の奥に、別の感覚が押し寄せる。
怖かった。
剣も、魔術も、勝つことも、強くなることも、その瞬間、すべて意味を失った。
ただ、生きたい。それだけだった。
その願いを、代わりに差し出すように立っていたのが、もう一人の自分だった。
自分が、押し入れに縛って閉じ込めた、あのエレナだった。
「……そうだな」
低く、しかし、はっきりとした声で、
ルーメンが言った。
「どっちも、僕の妹のエレナだ。分かってるよ」
その言葉と同時に、彼の掌に集まっていた稲妻の光が、ゆっくりと、確実に収縮していく。
暴力の気配が、完全に消えた。
空気が戻る。音が戻る。時間が、再び流れ始める。
今まで外にいたエレナは、大きく息を吐いた。
足の力が抜け、このまま座り込んでしまいそうになる。
「さあ、二人とも。部屋に戻ろう」
怒号ではない。裁く声でもない。
兄としての声音だった。
「話がある」
閉じ込められていたエレナは、小さく頷き、自分の足で歩き出す。
一歩。また一歩。
床の感触を確かめるような、慎重な歩き方だった。
今まで外にいたエレナは、身体の震えを抑えきれず、ルーメンにヒーリングを施される。
温かな魔力が、じんわりと体内に広がる。
張りつめていたものが、一気に緩み、力が抜けた。
「……歩ける?」
問いかけに答える前に、視界が揺れる。
身体が、傾いた。
次の瞬間、ルーメンの腕が、自分を支えていた。
抱き上げられた瞬間、今まで外にいたエレナは、ようやく理解する。
(……私、強いふりをしてただけだったんだ)
強くなったと思っていた。剣も、魔術も、確かに上達していた。
でも、それは、何かを置き去りにした強さだった。
~ルーメンの視点~
エレナの部屋。
ベッドの上に、三人が並んで座る。
真ん中にルーメン。
左右に、二人のエレナ。
距離は等しい。
けれど、空気はまだ、均衡を探して揺れている。
「まず」
ルーメンが言う。
「二人とも、僕の手を握ってくれ」
差し出された手を、二人は、ためらいながらも取る。
魔力が流れる。
読み解かれる感覚。内側を覗かれるような、静かな圧。
ルーメンの表情が、わずかに硬くなった。
(……同じだ)
流れも、乱れ方も、完全に一致している。
同じ魔力暴走状態。
「確認できた」
ルーメンは静かに告げる。
「二人とも、同じ状態だ」
その視線が、今まで外にいたエレナへ向く。
「まずは、だ」
「今まで外にいたエレナ。閉じ込められていたエレナに、謝罪と弁明を」
逃げ場はなかった。
だが、もう、逃げるつもりもなかった。
今まで外にいたエレナは、深く息を吸い、ゆっくりと向き直る。
視線が、合う。
閉じ込められていたエレナの目は、怯えを残しながらも、まっすぐだった。
「……エレナ」
声が、掠れる。
「閉じ込めてしまって……ごめんなさい」
頭を下げる。深く。逃げ場のないほどに。
「……あの時は」
一瞬、言葉が詰まる。
「お互いだった、って……そう思おうとした」
それは、自分を守るための言葉だった。
「いきなり私が二人になって……驚いて……混乱して……」
「どうすればいいか、分からなかった」
でも、その言い訳は、最後まで言葉にならなかった。
目の前のエレナの姿が、すべてを否定していたから。
「私が先に起きて……」
「あなたを縛って……押し入れに閉じ込めた」
その瞬間の光景が、断片的に、蘇る。
「長い間……真っ暗な中で……」
「辛い思いをさせてしまって……本当に、ごめんなさい」
顔を上げる勇気は、ない。
それでも、言葉だけは、止めなかった。
「……あれから」
「剣術も、魔術も……私は、上手にできるようになった」
「……でも」
唇を噛みしめる。
「あなたを、そのままにして……」
「私が、家族として過ごしてしまった」
その事実が、胸を、深く刺した。
「何度謝り尽くしても……足りないと思う」
「本当に……ごめんなさい」
沈黙が落ちる。
やがて、今まで外にいたエレナは、ぽつりと続けた。
「……あれから、色々あって」
「私に……無くなっている部分があるって、気づいたわ」
視線を、閉じ込められていたエレナへ向ける。
「あなたの持っている……優しさと思いやりの心」
「私、少し……自暴自棄になったこともあった」
「みんなを……困らせてしまった」
それは、自分の欠損を、初めて正しく認める言葉だった。
「だからね……」
声が、震える。
「私には、あなたが必要なの」
「私だけじゃ……エレナとして、生きていく資格がない」
それは、敗北でも、自己否定でもない。
欠けているものを、正確に言葉にした告白だった。
「……本当に、ごめんなさい」
頭を下げたまま、今まで外にいたエレナは、動かなかった。
今まで外にいたエレナの謝罪が終わっても、閉じ込められていたエレナは、すぐには口を開かなかった。
ベッドの上で、小さく肩をすぼめ、両手を膝の上で強く握りしめている。
視線は落ちたまま。
謝罪を受け取れないわけではない。
だが、すぐに「大丈夫」と言えるほど、
彼女の中の時間は、まだ動いていなかった。
ルーメンは何も言わず、ただ、彼女の手を包む力を少しだけ強めた。
その温度が、ようやく合図になった。
「……分かってる」
閉じ込められていたエレナは、小さな声で、そう言った。
「あなたが、わざと悪いことをしようとしたわけじゃないってこと」
言葉は冷静だった。だが、それは感情が無いからではない。
感情を抑えなければ、声が壊れてしまうからだった。
「でもね」
ゆっくり、顔を上げる。
今まで外にいたエレナと、まっすぐ視線を合わせた。
「縛られて、閉じ込められて……真っ暗な中に置いていかれたこと」
「それが、どれだけ怖かったか……あなた、分かる?」
責める口調ではない。
ただ、確認するような問いだった。
「何も見えなくて」
「時間も分からなくて」
「声を出しても、誰にも届かなくて」
言葉を重ねるごとに、指先がわずかに震える。
「……生きてるのに、生きてないみたいだった」
「存在してるのに、誰にも気づかれてない感じだった」
一瞬、言葉が詰まる。
「あなたは……外で」
「家族と話して、笑って、剣術と魔術を頑張って」
「……“エレナ”として、生きてた」
声が、かすれた。
「私はね」
「押し入れの中で……ずっと、考えてた」
「このまま、誰にも見つからずに……一生、ここにいるのかなって」
その言葉に、今まで外にいたエレナの顔から、血の気が引く。
「……あなたが悪いって、言いたいわけじゃない」
閉じ込められていたエレナは、そう前置きしてから、続けた。
「でも」
「二人になった時、もし……」
「もし、二人で一緒に、お父さんやお母さんや、お兄ちゃんやお姉ちゃんに相談していたら」
「私は、あんな場所に、閉じ込められずに済んだと思う」
沈黙が、部屋に落ちた。
それは責めではない。
だが、取り消せない事実だった。
「謝ってくれたことは、受け取る」
「……ちゃんと、反省してほしい」
「それだけ」
言い終えた瞬間、閉じ込められていたエレナは、大きく息を吐いた。
長い間、胸の奥に溜め込んでいたものを、ようやく外に出したような吐息だった。
ルーメンは、その様子を静かに見つめながら、二人の手を、同時に包み込む。
「……ありがとう」
そう言った声は、二人に向けたものだった。




