エレナ編 第三十八章 エレナ① 死の宣告
第三十八章・エレナ
~ルーメンの視点~
夕方の空は、薄く茜色に染まり始めていた。日中の熱をまだ残した風が、家の庭を抜けていく。その音は穏やかで、何事もなかったかのように静かだった。
玄関の扉が開く音がする。
「ただいまー」
弾んだ声。軽やかな足音。
呑気に帰ってきたその声を聞いた瞬間、ルーメンの胸の奥で、何かがひび割れた。
(……何も、なかったみたいな顔で)
そこに立っていたのは、いつものエレナだった。
剣も魔術も上達し、自信を纏った姿。
頬は少し上気し、外で遊んできた余韻がそのまま残っている。
同じ時間。同じ家。
押し入れの中で、真っ暗な時間を耐えていたエレナがいたことなど、微塵も感じさせない表情だった。
ルーメンは、視線を伏せたまま、深く息を吸う。怒鳴りたい衝動を、歯を食いしばって押さえ込む。
ここで爆発すれば、すべてが壊れる。
そう分かっていた。
「エレナ」
名前を呼ぶ声は、驚くほど落ち着いていた。それが逆に、胸を締めつける。
「少し、時間いいか」
「え? 今?」
エレナは首を傾げる。その仕草すら、無邪気に見えて、ルーメンの神経を逆撫でした。
「魔術の練習、しようと思ってな」
「今さら? 兄ちゃん珍しいね」
軽い調子で言いながらも、エレナは警戒している様子だった。ここ最近、兄が向けてくる視線が、どこか違うことに気づいている。
「エレナも、かなり強くなっただろ」
その言葉に、エレナの目が一瞬だけ輝く。
「……まあね」
誇らしげに、胸を張る。
「じゃあさ、勝負しよう」
その一言で、空気がわずかに張り詰めた。
「魔術勝負だ。エレナが勝ったら、土属性の上位魔術、教えてやる」
エレナの瞳が、揺れる。
上位魔術。
喉から手が出るほど欲しかったもの。
だが、同時に、嫌な予感も胸をかすめる。
「……兄ちゃん、本気?」
「本気だよ」
「ルールは、エレナに合わせる。中位魔術まで」
それは、表向きには公平な条件だった。
だがルーメンの内側では、すでに別の炎が燃えていた。
(……逃がさない)
この勝負は、遊びでも訓練でもない。
裁きでも、復讐でもない。
確かめるための場だ。
「……別に、やらなくてもいいけど」
エレナは、少しだけ視線を逸らす。本能的に、これは“いつもの勝負”ではないと感じ取っている。
「怖いか?」
ルーメンの言葉に、エレナはかっと顔を上げた。
「そんなわけないでしょ!」
感情が、先に立つ。
「やるよ。やればいいんでしょ」
そう言って、庭へと足を向ける。その背中を見つめながら、ルーメンは静かに拳を握った。
庭に出ると、空はすでに紫がかっていた。夕暮れと夜の境目。風が止み、音が遠のく。
始まる。
これは、魔術勝負という形をした、分岐点だった。
エレナは、まだ知らない。
自分がこれから立たされる場所が、「強さを試す場」ではないことを。
ルーメンは、目を閉じ、一度だけ心の中で呟いた。
(……逃げ道は、もう用意しない)
そうして、彼はゆっくりと構えを取った。
~エレナの視点~
最初の一手は、エレナだった。
「いくよ、兄ちゃん!」
軽やかな詠唱。
土属性の中位魔術、ストーンランチャー。
地面から鋭く隆起した岩塊が、一直線にルーメンへと射出される。
その軌道は正確で、迷いがない。
「……甘い」
ルーメンは一歩も動かず、手をかざす。
風の膜が瞬時に展開され、岩塊は砕け散った。
「え?」
エレナの眉が、わずかに動く。
続けて、火。水。土。
連続する中位魔術。どれもが、これまでのエレナなら十分すぎる威力だった。
それでも。ルーメンは、防御に徹していた。
真正面から受け、逸らし、相殺する。攻撃の兆しすら見せない。
「……兄ちゃん?」
エレナは笑う。
「全然、攻撃してこないじゃん」
余裕を装う声。だが、その奥に、かすかな苛立ちが滲む。
「手も足も出ない感じ?これじゃ、私の勝ちだね」
その瞬間だった。ルーメンの視線が、鋭く変わる。
「……そう思うなら、もっと来い」
空気が、変わった。
次の瞬間、ルーメンが初めて魔術を放つ。だが、それは直撃を狙ったものではなかった。
エレナのすれすれを、雷光が走る。
「っ!?」
反射的に、エレナは跳び退く。
(今の……わざと?)
避けられる位置。しかし、確実に“怖い”距離。
「ちょっと……!」
エレナは抗議の声を上げようとした、その直後。
別の魔術が、今度は反対側から迫る。
「……!」
エレナは歯を食いしばり、即座に防御を展開する。
魔力を削られる感覚が、はっきりと伝わってくる。
(……魔力消費、早い)
エレナは気づいた時には、すでに流れに乗せられていた。
ルーメンは、すべての攻撃に魔術をぶつけてくる。
相殺。迎撃。そして、避けさせるための追撃。
攻めているのはエレナのはずなのに、
主導権は、完全に奪われていた。
「兄ちゃん……!」
エレナの声に、焦りが混じる。
それでも、エレナは止まらない。止まれなかった。
(負けたくない)
(ここで引いたら……)
理由は分からない。ただ、エレナの本能が叫んでいた。
もっと出せ。全部、使え。
「っ……!」
エレナは中位魔術を、連発する。
土を使い、水で牽制し、風で軌道を変える。
自分でも驚くほど、魔術が繋がる。動きに迷いはない。
「……すごいじゃん」
ルーメンの声が、淡々と響く。
「でも、まだだ」
「っ……!」
その言葉が、エレナの胸を刺す。
「兄ちゃん、もう……魔力、減ってるでしょ!」
声が荒くなる。
「このまま続けたら……!」
「まだだ」
被せるように、ルーメンが言う。
「エレナは、まだ全力を出し切ってない」
否定だった。評価ではない。
(……なんで)
エレナの呼吸が、乱れる。
(なんで、分かるの)
知られている。見透かされている。
それが、恐怖に変わり始めていた。
魔力は、確実に減っている。
体の奥が、重くなってきている。
それでも。
「……だめだ」
ルーメンの声は、冷たい。
「止めない」
その一言で、エレナは理解した。
この勝負は、
終わらせてもらえない。
庭に落ちる影が、長く伸びる。
夜が、完全に近づいていた。
そして、エレナは気づき始める。
これは勝負ではない。
これは追い詰められている。
次の魔術を放つ指先が、わずかに震えた。
~エレナの視点~
息が、苦しい。
胸の奥が焼けつくように熱く、それでいて、指先は冷えていく。
(……まずい)
エレナははっきりと自覚していた。
魔力が、底を見せ始めている。
それでも、止まれない。
止まった瞬間、何が起こるのか、
もう考えたくなかった。
「はあっ……!」
最後の力を振り絞り、ストーンランチャーを放つ。
だが、次の瞬間。
そのすべてが、正確に迎撃される。
弾かれ、砕かれ、霧散する魔術。
衝撃波だけが、虚しく地面を揺らす。
「っ……!」
膝が、がくりと落ちた。
視界が揺れる。世界が、斜めに傾く。
(……あ、これ……)
エレナは、初めて本当の恐怖を覚えた。
立てない。もう、出せない。
魔力が、尽きた。
どさり、と音を立てて倒れ込む。
土の冷たさが、頬に伝わる。
「兄ちゃん……!」
情けない声が、喉から漏れる。
その瞬間、ルーメンの足音が、近づいてくる。一歩。また一歩。
エレナは、必死に身を起こそうとするが、体は言うことを聞かない。
(……やだ)
(ここで、終わるの?)
視界の端で、光が生まれる。
ルーメンの右手に大きな稲妻の球体が現れる。
雷撃が凝縮され、膨れ上がる、圧倒的な魔力。
ルーメンの右手が、エレナの顔の前で止まった。
稲妻の球体が、唸りを上げる。
「……っ!」
息が、止まる。本能が叫ぶ。
あんなのやられたら死ぬ。
それは比喩でも、誇張でもない。
本当に、殺されると感じた。
「エレナ」
低く、感情を抑えた声。
「お前だな」
稲妻の光が、さらに膨張する。空気が震え、髪が逆立つ。
「俺の大切なエレナを……手と足と口を縛って、押し入れに閉じ込めたのは」
頭が、真っ白になる。
「ち、違……!」
声が、震える。
「兄ちゃん、ちょっと……待って……!」
だが、言葉は届かない。
「覚悟しろ」
淡々とした宣告。
「そんなことをするエレナは、家族でも、兄弟でもない」
稲妻が、爆ぜる寸前まで膨れ上がる。
「死んでもらう」
世界が、音を失った。
エレナの顔から、血の気が一気に引く。
(……私、何を……)
(……そんなつもりじゃ……)
言い訳も、説明も、
すべてが、遅すぎた。
ただ一つ、はっきりしていること。
これは、勝負じゃない。裁きだ。
そしてその裁きは、
自分に向けられている。
恐怖が、全身を締め付ける。
声にならない悲鳴が、喉の奥で潰れた。




