エレナ編 第三十七章 エレナとエレナ③ 檻の外の調律
ルーメンは、そっとエレナの手を握った。
ひどく冷たい。血の気が引いているというより、長いあいだ“動かされなかった”冷えだった。
だが、その奥に、確かに感じる。
(……同じだ)
指先から伝わってくる魔力の流れ。
それは、外で剣を振り、魔術を放っているエレナと、まったく同じ質をしていた。
荒れている。整っていない。流れは速く、鋭く、そしてどこか危うい。
(同じ魔力暴走状態……)
確信に近い感覚が、胸の内に落ちる。
ルーメンは、ゆっくりと言葉を選んだ。
怖がらせてはいけない。だが、誤魔化してもいけない。
「……エレナ」
名を呼ぶと、エレナはびくりと肩を揺らし、それから小さく頷いた。
涙は止まっていないが、きちんと話を聞こうとしている。
「エレナはさ……魔術と剣術が、うまくできなくて、不安だったんだよな」
エレナの指が、きゅっとシーツを掴む。
「……うん」
かすれた声。
否定はなかった。
「焦ってた。でも同時に、もっと上手くなりたいって気持ちも、すごく強かった」
ルーメンは、握った手に少し力を込める。
「その二つの気持ちは、どっちも本物だ。逃げたい気持ちも、強くなりたい気持ちも」
エレナは俯いたまま、ぽろぽろと涙を落とす。
「……私、弱かった」
「違う」
即座に、否定した。
「不安になるのは弱さじゃない。前に進もうとしてた証拠だ」
「エレナも……もう一人のエレナも、同じ魔力の流れをしている」
エレナの瞳が、わずかに揺れた。
「同じ……?」
「ああ。どっちも、同じエレナだ」
ルーメンは、はっきりと言い切る。
「たぶん……その魔力暴走が引き金になって、不安と焦りでいっぱいのエレナと、もっと魔術も剣術も上手くなりたいエレナが、分かれた状態になってしまったんだと思う」
“分裂”という言葉は使わなかった。
まだ、それを確定させる段階ではない。
「だから、心配することは何もない」
そう言って、もう一度、手を握り直す。
「どっちもエレナだ。どっちも、間違ってなんかいない」
エレナの唇が震える。
「……ほんとに?」
「ほんとだ」
間髪入れずに答えた。
「お兄ちゃんに、任せてくれないか」
その言葉に、エレナはしばらく動かなかった。
迷い。不安。
それでも、やがて、小さく、けれど確かに。
「……うん」
泣きながら、頷いた。
その頷きは、救いを求めるものではなく、“信じてみる”という選択だった。
ルーメンは胸の奥で、静かに誓う。
(……必ず、支える)
まだ答えは見えない。
だが、このエレナは、一人ではない。
ルーメンは、エレナの手を握ったまま、目を閉じた。
冷たい。けれど、確かに“生きている”手だ。
(……この子は、ここにいる)
閉じ込められ、縛られ、暗闇の中に置き去りにされていたとしても、それでも、目の前のエレナは、確かに存在している。
だからこそ。
(……頼む)
胸の奥から、切実な願いが湧き上がる。
言葉にする前から、魔力が自然と集まり始めていた。
荒れた流れを、包み込むように。
壊れかけた均衡を、もう一度編み直すように。
エレナのことを思いながら、その存在を、ありのまま受け止めながら。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、
そしてエレナにも届くように、囁く。
「……大丈夫だから」
そっと、魔力を流し込む。優しく。慎重に。押し付けることのないように。
「……ハーモニック・リコンストラクション」
小さな声だった。それは呪文というより、祈りに近かった。
その瞬間、淡い光が、二人を包む。
強い光ではない。眩しさも、衝撃もない。
春の日差しのような、ただ“あたたかい”と感じるだけの光。
エレナが、わずかに目を見開いた。
「……兄ちゃん?」
声は、まだ弱い。
「……なんか……あったかいの、来た」
ルーメンの魔力が、エレナの内側を、そっと撫でていく。
荒れていたはずの流れが、一瞬だけ、静かになる。
(……今だ)
そう思った、次の瞬間。
弾かれた。否定ではない。拒絶でもない。
ただ、魔力の奔流そのものが、調和を拒んだ。
荒れた流れが、再びうねりを上げる。内側から、外へ。外へ、外へと。
(……止まらない)
ルーメンの額に、冷たい汗が滲む。
もう一度。慎重に、流れを整えようとする。
「……ハーモニック・リコンストラクション……」
だが、同じだった。
優しい魔力は、途中までは届く。確かに触れている。
それなのに、核心に至る前に、かき消される。
「……くそ」
小さく、息が漏れた。
エレナは、何が起きているのか分からないまま、ただ、じっとルーメンを見つめている。
「……兄ちゃん?」
不安と、期待が混じった声。
「……今の……優しかったよ」
エレナは、胸元に手を当てた。
「途中まで……兄ちゃんの魔力が……ちゃんと、来た気がした」
その言葉が、何よりも胸に突き刺さる。
(……感じている)
届かなかったことを、この子自身が、感じ取ってしまっている。
ルーメンは、ゆっくりと首を振った。
「……ごめん」
謝罪が、先に出た。
「今は……うまくいかなかった」
エレナは、少し考えるように黙り込み、
それから、小さく首を横に振る。
「……いいの」
そう言って、無理に笑おうとした。
「だって……兄ちゃん、ちゃん見つけてくれたでしょ」
その笑顔が、かえって痛かった。
(……効かなかった)
事実は、変わらない。
祈りは届かず、魔力暴走は、治まらなかった。
それでも……
(……諦めるわけにはいかない)
このエレナは、ここにいる。助けを求めている。
そして、まだ何も終わっていない。
ルーメンは、エレナの手を離さなかった。
しばらく、部屋には音がなかった。
エレナはベッドの上に座り、膝を抱えるようにして俯いている。
さっきまで感じていた、あの“あたたかさ”は、もう残っていない。
代わりにあるのは.胸の奥に、じわじわと広がる不安。
「……ねえ、兄ちゃん」
エレナが、静かに口を開いた。
「私……これから、どうなるの?」
問いは、まっすぐだった。
泣き声でも、責める声でもない。
ただ、先が見えないことへの、素直な問い。
ルーメンは、すぐに答えられなかった。
(……どうなる、か)
分からない。それが、正直な答えだった。
今、分かっていることは少ない。
エレナは二人いる。
二人とも、同じ魔力暴走状態にある。
自分の魔術では、今は止められなかった。
それだけだ。
「……今は」
慎重に、言葉を選ぶ。
「今は……少し、落ち着いて過ごそう」
エレナは、小さく頷いた。
「……うん」
だが、その声は軽くない。
「……外の私、さ」
ぽつりと、続ける。
「今日も、普通に遊びに行ってるんだよね」
責める響きはない。ただ、確認するような声。
「……たぶんね」
ルーメンは、そう答えるしかなかった。
エレナは、少しだけ口元を歪める。
「そっか……」
自分は、ここにいる。外のエレナは、外にいる。
同じ“エレナ”なのに、同じ時間を生きていない。
その事実が、じわじわと心を削っていく。
「……私」
エレナは、胸に手を当てる。
「怖い」
小さな声だった。
「このまま、ずっと……私、ここにいるだけなのかな、って」
それは未来への不安であり、同時に“今”への恐怖だった。
ルーメンは、即座に首を振る。
「……そんなふうには、ならない」
言い切った。
根拠は、まだない。だが、ここだけは揺らがせなかった。
「ちゃんと考える。方法も、理由も……全部」
エレナは、その言葉を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
「……うん」
完全に安心したわけではない。
それでも、独りではないと知れただけで、ほんのわずか、呼吸が楽になる。
一方で.ルーメンの胸の内は、静かではなかった。
(……効かなかった)
あの魔術は、何度か誰かを救ってきた。
心の傷を癒し、暴走を鎮め、心を繋ぎ直してきた。
それが、目の前の妹には、届かなかった。
(……力が足りない)
認めざるを得ない現実だった。
「……ごめんな」
思わず、そう口にしていた。
エレナは、驚いたように顔を上げる。
「え?」
「さっきの……うまくできなくて」
エレナは、少し考え、首を横に振った。
「……兄ちゃんのせいじゃない」
そう言って、困ったように笑う。
「だって……ちゃんと、来てくれたし」
来てくれた。それだけで、意味がある。
その言葉に、胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
(……守る)
方法は、まだ見えない。答えも、まだ出ない。
それでも、この時間を、無かったことにはしない。
エレナは、ここにいる。不安を抱えたまま、それでも前を見ようとしている。
ルーメンは、改めて決める。
(……必ず、道を探す)
今は、二人のエレナがいる。それが、現実だ。
だからこそ、その現実を否定せず、向き合うしかない。
部屋の外では、家の時計が、静かに時を刻んでいた。
先は見えない。だが、時間は止まらない。
エレナが眠りについたのを確認してから、ルーメンは静かに部屋を出た。
廊下は、昼間と変わらないはずなのに、
どこか冷えて感じられる。
(……出かけている、んだよな)
玄関に目を向ける。靴は、きちんと揃っていない。
ついさっきまで、この家のどこかで、いや、もう外で。
“もう一人のエレナ”は、何事もなかったかのように、日常を過ごしている。
その光景を想像した瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
(……ふざけるな)
言葉にならない感情が、熱を帯びて込み上げる。
強くなった。剣も、魔術も、誰よりも。
それは、事実だ。だが、その裏で。
不安を。恐怖を。追いつけない焦りを。
全部、押し付けて。
縛って。塞いで。暗闇に閉じ込めて。
自分だけ、外に出た。
(……どれだけの時間だ)
どれだけの夜を、あのエレナは、一人で過ごした。
声も、光もない場所で。
それを、“強さ”の代償として、切り捨てたのだとしたら。
(……許せるわけがない)
拳が、無意識に握り締められる。
守るべき存在を、同じ顔をした“自分”が、傷つけていた。
その事実が、兄としての理性を、静かに焼いていく。
(……だからといって)
ここで、怒りをぶつけても、何も解決しない。
エレナは、二人いる。どちらも、本物だ。
どちらも、守るべき存在だ。
だが、今、守らなければならないのは、
どちらか。
ルーメンは、ゆっくりと踵を返し、自分の部屋へ戻った。
ベッドの上で眠るエレナは、小さく、穏やかな呼吸をしている。
その姿を見た瞬間、胸の奥に渦巻いていた怒りは、一つの形に収束した。
(……ここだ)
ここを、守る。
少なくとも、今は。
外のエレナには、何も知らせない。
家族にも、まだ話さない。
匿う。それは、危うく、間違っているかもしれない選択。
だが同時に、これ以上、このエレナを無防備に晒すわけにはいかなかった。
「……大丈夫だ」
眠るエレナに、小さく声をかける。
「兄ちゃんが、ここにいる」
その言葉は、誰よりも自分自身に向けた誓いだった。
外では、夕方の光が、街を包み始めている。
呑気に、何も知らずに帰ってくるだろう、もう一人のエレナ。
その時、この家の空気は、確実に変わる。
そして、ルーメンの中で芽生えた怒りは、静かに、次の行動へと姿を変えていく。
それはまだ、爆発ではない。




