エレナ編 第三十七章 エレナとエレナ② 檻の中
押し入れの奥は、想像していた以上に狭かった。
湿った木の匂い。空気の淀み。長い時間、閉ざされ続けていた空間特有の重さが、扉を開けた瞬間に流れ出す。
最初は、何も見えなかった。
暗闇の中、目が慣れるまでのわずかな時間。その数秒が、異様に長く感じられる。
そして。
「……っ」
喉が、音にならない声を漏らす。
そこに、人がいた。
押し入れの奥、壁に背を預けるようにして、小さな身体が丸められている。
縛られている。
手首も、足首も。口元には、布が食い込むように当てられている。
「……エレナ!?」
思わず、名前を呼んでいた。だが、同時に脳裏をよぎる。
さっき、玄関で見た。確かに、エレナは外に出ていった。靴も、間違いなくなかった。じゃあ、これは誰だ。
頭が混乱している。
近づくにつれ、その違和感がはっきりしてくる。
背格好は、エレナだ。
顔も、声も、間違いなく妹のものだ。
けれど、どこか違う。
筋肉の付き方が、違う。最近の、鍛錬を重ねたエレナの身体ではない。
肩の線が、細い。腕も、脚も、まだ華奢なままだ。
まるで、誕生日を迎える前の、あの頃のエレナ。
目が合った。
暗闇の中、その瞳だけが、はっきりとこちらを見つめている。
怯え。困惑。そして、深い、深い絶望。
「……っ、ん……」
声を出そうとして、出せない。
その様子を見た瞬間、思考は止まった。
理屈も、疑問も、すべて後回しになる。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように、そう呟きながら、急いで縄に手を伸ばす。
結び目は固い。だが、意図的に「解けない」ようにしたものではない。
時間をかければ、外せる。
「今、外すから……」
指先が、震える。怖かった。
この状況そのものが。そして、このエレナが、何を意味しているのかが。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
一つ、また一つ、縄を解いていく。
手首。足首。最後に、口元の布。
「……っ、は……」
空気を求めるように、浅く呼吸を繰り返す。
ヒーリングを施すと、冷え切っていた身体に、わずかに温もりが戻る。
だが、エレナは泣かなかった。
ただ、じっとこちらを見つめている。
まるで、存在を確認しているかのように。
「……助けて、くれたの?」
その声は、かすれていた。
「……ああ」
短く、しかしはっきりと答える。
その瞬間、エレナの表情が、わずかに緩んだ。
次の瞬間、恐怖が押し寄せる。
(……もし、外に出たエレナに見つかったら)
理屈ではない。直感だった。
これは、見つかってはいけない。
急いで板を戻し、本棚と机を元の位置に戻す。音を立てないよう、細心の注意を払う。
そして、エレナを抱き上げる。
軽すぎる。胸の奥が、きしむ。
「……少しの間、僕の部屋に行こう」
エレナは、こくりと小さく頷いた。
その仕草が、何よりも胸に刺さる。
こうして、もう一人のエレナは、闇から引き出された。
エレナを抱き上げた瞬間、ルーメンははっきりと理解していた。
これは、ただの「救出」ではない。この選択は、どちらかのエレナを選ぶ行為になる。
それでも、腕は止まらなかった。小さな身体は、見た目以上に軽い。長い時間、動くことを許されなかったせいだろうか。
それとも、存在そのものが、薄くなりかけていたのか。
「……大丈夫だ」
声に出したその言葉は、エレナに向けたものでもあり、自分自身に向けたものでもあった。
抱きかかえたエレナは、抵抗もせず、ただ静かに身を委ねている。
その様子が、余計に胸を締め付けた。
(……慣れてしまっている)
拘束に。暗闇に。誰にも気づかれない時間に。押し入れという、心の奥底そのもののような場所で、彼女はどれほどの時間を過ごしていたのか。
板を元に戻し、本棚と机を戻す作業は、異様に手際が良かった。
まるで、「何事もなかったことにする」ことに、体が慣れているかのように。
(……見つかるわけにはいかない)
その考えが、はっきりと形を持っていた。
もし、あのエレナ、外で、強気に振る舞い、剣と魔術を振るうエレナに見つかったら。
このエレナは、もう一度、あの闇へ戻される。
それだけは、絶対に許されない。だから、選んだ。
「……僕の部屋に行こう」
それは、匿うという選択だった。家の中でありながら、家族から隠すという選択。
兄として、本来選ぶべきではない道。それでも、選ばずにはいられなかった。
部屋に運び、ベッドに寝かせる。シーツに触れた瞬間、エレナの身体がわずかに強張った。
「……ここは?」
「僕の部屋だ。安全だよ」
その言葉に、エレナは小さく息を吐いた。張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩んだのが分かる。
ヒーリングを施しながら、改めて観察する。痩せ細ってはいない。衰弱している様子もない。
……異常だ。
閉じ込められていた期間を考えれば、あり得ない。
(……魔力)
身体の奥に流れるものは、確かにエレナの魔力だ。
だが、あのエレナと同じように、暴走の兆候を帯びている。
荒れ、うねり、行き場を探すように脈打つ。(……同じだ)
このエレナもまた、魔力暴走状態にある。
だが、その方向性が違う。
外に向かって暴れるのではなく、内側に、内側に、押し込められるように。
だから、分裂した。
(……いや、分けたのか)
強さを選んだエレナが、弱さを、恐れを、不安を引き受けきれずに。
「……何も、いらないの?」
食べ物と水を差し出すと、エレナは首を横に振った。
「……ここにいるだけで、いい」
その言葉が、何よりも痛かった。
存在を、許可されているだけで満足する声だった。ルーメンは、エレナの前に腰を下ろす。
「……話してもいい」
強制はしない。急かさない。ただ、待つ。沈黙は、長かった。
だが、やがて、エレナは、ぽつりぽつりと語り始める。
声は小さく、途切れ途切れで、それでも、必死だった。
不安だったこと。焦っていたこと。追いつけない恐怖。置いていかれる感覚。
そして、ある朝、自分を見下ろす
「もう一人の自分」がいたこと。
「……あの子、怖かった」
静かな声。
「でも、強かった」否定ではない。恨みでもない。ただの、事実。
「……私がいらないって、言われたわけじゃない」
その言葉に、ルーメンは息を呑む。
「……私が、いらないって、分かっただけ」だから、閉じ込められた。
だから、消された。
必要ない部分として。
(……そんなことが、あっていいはずがない)
だが、現実として、起きてしまった。
この家に、エレナは二人いらない。
その事実が、この部屋に、重く横たわっている。
だからこそ、ルーメンは決める。
(……守る)
どちらかを消すのではない。どちらかを否定するのでもない。
今はただ、このエレナを守る。
それが、兄として選び取ってしまった道だった。
エレナは、少し間を置いてから続けた。
「……あの日の朝ね」
声が、わずかに震える。
「目が覚めた時、最初は、いつもと同じだったの。天井があって、朝の匂いがして……」
そこまで言って、言葉を探すように視線を落とす。
「でも、違った」
ゆっくりと、息を吸う。
「……ベッドの横に、私が立ってた」
それは比喩ではなかった。夢でも、錯覚でもない。
「仁王立ちで、じっと、私を見下ろしてた」
その瞬間の光景を思い出すだけで、指先が小さく震える。
「顔は……同じだった。でも、表情が違った」
強気で。迷いがなくて。不安なんて、最初から存在しないみたいな顔。
「声を出そうとしたの。助けて、って」だが、声は出なかった。
「……その時、気づいた」
自分の口が、塞がれていることに。手も、足も、動かないことに。
「縛られてた。最初から、全部」
準備されていた、と言わんばかりに。
「抵抗しようとしたけど、無理だった。力の差とかじゃないの。……最初から、負けてた」
ルーメンは、何も言えなかった。
それは「襲われた」のではない。排除されたのだ。エレナは続ける。
「そのまま、引きずられた」
感情を込めると壊れてしまうと分かっているような口調で。
「押し入れの前まで連れて行かれて……扉を開けられて」
そこが、自分の居場所になると理解した瞬間。
「中、真っ暗だった」
何も見えない。何も分からない。
「……閉められた」
扉が閉まる音。板を打ち付ける音。外の世界が、完全に遮断される音。
「その時ね……思ったの」
一瞬、言葉が途切れる。
「……ああ、私、このまま死ぬんだ、って」
子どもが想像するには、あまりにも重い結論だった。
「怖かった。すごく、すごく」
声が小さくなる。
「でも……死ななかった」
エレナは、自分でも信じられないものを見るように言う。
「お腹、空いたなって思ったら……次の瞬間、ご飯を食べた後みたいに、満たされてた」
「トイレに行きたいな、って思ったら……行った後みたいになってた」
生理的欲求は、意思を介さず、処理されていた。
「時間も、分からなかった」
昼なのか、夜なのか。どれくらい経ったのか。
「たぶん……生きては、いたんだと思う」
けれど。
「……存在してた感じは、しなかった」
そこにいたのは、“生きているエレナ”ではない。ただ、消されない最低限の器。
「声は聞こえたよ」
家族の声。笑い声。外で過ごす、もう一人のエレナの声。
「……うまくやってる声だった」
それが、何より残酷だった。
暗闇の中で、聞こえるのは、自分の代わりに生きている自分の音だけ。
自分はここにいるのに、いないものとして暮らしが進む。
「……何で私が二人いるのかも、分からなかった」
エレナは唇を噛みしめる。
「でもね、だんだん分かってきたの」
怒りではなく、諦めに近い声。
「私が悪いわけじゃない。でも……必要じゃなかった」
受け入れてしまった諦念。
「強い方の私が、この家で生きるんだ、って」
「不安で、弱い私は……邪魔だったんだ、って」
静かに、涙が落ちる。
「だから、お兄ちゃん。見つけてくれて、ありがとう」
そして、決定的な一言。
「でも、この家には……エレナは二人、いりません」
それは自己否定ではない。自罰でもない。役割分担としての結論だった。強くなるために、弱さは要らない。そう信じてしまった、もう一人のエレナの論理。
ルーメンは、拳を握る。
(……そんな理屈、許されるはずがない)
だが同時に理解してしまう。
魔力暴走が感情を二極化させ、「不要な側」を切り捨てる選択を生んだのだと。
だからこそ、俺は、もう一度決め直す。
消させない。閉じ込めさせない。
このエレナを、存在として肯定する。それが、兄として背負うべき選択だと。




