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エレナ編 第三十七章 エレナとエレナ① 家の中の静けさ

ハーモニック・リコンストラクションが効かなかったあの日から、数日が経っていた。


家の中は、表面上は平穏だった。怒号も泣き声もなく、物が壊れることもない。食卓にはいつも通り食事が並び、朝と夜の時間は、淡々と過ぎていく。


そしてエレナは、静かだった。

騒がない。噛みつかない。

誰かを睨みつけることも、強い言葉を投げることもない。


叱られれば、短く「うん」と返す。注意されれば、視線を落として受け入れる。謝るべき場面では、きちんと頭を下げる。

それは一見すると、反省している子どもの姿そのものだった。


だが、ルーメンは違和感を覚えていた。

(……落ち着いた、というより)

感情が収まった気配がない。怒りが消えたのではなく、押し込められている。


以前のエレナは、分かりやすかった。

苛立てば態度に出るし、不満があれば言葉にする。

傷つけば泣き、悔しければ声を荒らげる。


それが今はない。何も零れ落ちない。何も滲まない。

まるで、感情の表面に薄い膜を張ったようだった。


食卓での会話も、必要最低限だ。問いかければ答えるが、話を広げることはない。目は合うが、奥を見せない。

「今日はどうだった?」

そう聞けば、「普通」と返る。それ以上でも、それ以下でもない。


その「普通」が、妙に整いすぎていた。

(……演じている)

そう思った瞬間、胸の奥がざわつく。


誰かの期待に応えるための態度。これ以上怒られないための振る舞い。“これでいいでしょう?”という無言の距離。

排他的な姿勢は消えていなかった。ただ、外に向けていた刃を、内側へとしまい込んだだけだ。

それは、以前よりもずっと危うい。


「今日は、出かけてくる」

そう言って家を出るエレナの背中は、以前よりも真っ直ぐだった。姿勢も、歩幅も、迷いがない。強くなった自覚のある歩き方。同時に、誰にも触れさせない硬さ。


ルーメンは、玄関で靴音が遠ざかるのを聞きながら、動けずにいた。

(……本当に、これでいいのか)

反省している。落ち着いている。問題行動は減っている。

理屈だけを並べれば、改善しているように見える。

だが、直感が否定していた。

何かが、まだ終わっていない。

その違和感は、言葉にできないまま、

胸の奥で静かに沈殿していった。



その日は、家が妙に静かだった。

父も母も外出している。

セリナも用事があると言って、朝から出かけていた。

そしてエレナもついさっき、遊びに行くと言って家を出た。


誰もいない家。

それ自体は、珍しいことではない。

けれど、ルーメンは落ち着かなかった。

昼下がりの陽射しが廊下に伸び、窓の外では風に揺れる木々の音がかすかに聞こえる。時計の針が進む音が、やけに大きく感じられる。

(……静かすぎる)

そんな感想が浮かぶこと自体、普段なら気に留めない。

だが、胸の奥に沈んだ違和感が、じわじわと輪郭を持ち始めていた。


考え事をしながら廊下を歩いていた、その時だった。

……カタン

小さな音。

何かが、わずかに触れ合ったような、乾いた音。


足が止まる。

今のは、気のせいだろうか。

家鳴りか。風か。


そう思おうとした瞬間、再び……

カタン

今度は、はっきりと聞こえた。

音のした方角を、無意識に見ていた。

それは、エレナの部屋のある方向だった。

(……いや)

心の中で、即座に否定する。

エレナは出かけたばかりだ。

玄関で靴がなくなっているのも確認している。


忘れ物をして戻ってきた?

そう考え、玄関へ視線をやる。靴は、ない。一つも、増えていない。


もう一度、耳を澄ます。

家の中は、静まり返っている。

(……気のせい、か)

そう結論づけようとした、その刹那。


コトッ

今度は、より近い音だった。しかも、一定の方向から。

確信が、生まれてしまった。


この家に、いてはいけない気配、がある。

理由は分からない。正体も、分からない。

だが、確実に、今この瞬間、何かがおかしい。

ルーメンは、ゆっくりと息を吸い込み、エレナの部屋へと足を向けた。



エレナの部屋の前で、ルーメンは立ち止まった。

扉は閉じられている。いつもと同じ、見慣れた木製の扉だ。取っ手の位置も、壁に掛けられた小さな飾りも変わらない。

(……入るべきじゃない)

その考えが、真っ先に浮かんだ。


妹の部屋だ。しかも、本人がいないと分かっている。兄とはいえ、勝手に踏み込むのは礼を欠く。

まして最近のエレナは、どこか刺々しく、距離を取ろうとする態度を見せていた。

不用意に境界を越えれば、余計に心を閉ざさせてしまうかもしれない。

(やめておこう)

そう結論づけ、踵を返そうとした、その瞬間。

扉の向こうから、かすかな気配がした。


音ではない。風でも、家鳴りでもない。

魔術師として、長く培ってきた感覚が、微細な違和感を拾い上げていた。

(……魔力?)

はっきりと流れているわけではない。けれど、空気が微妙に歪んでいる。


まるで、呼吸をひそめた何かが、「気づかれないように」そこにあるかのような。


胸の奥が、じわりと冷える。

それでも、理屈より先に、足が動いてしまう。


「……少しだけ」

誰にともなく、言い訳するように呟く。


もし、何もなければ、それでいい。ただの思い過ごしだったと笑えばいい。

だが、もし、何かあった場合。それを見過ごす選択だけは、兄として、できなかった。


ルーメンは、静かに取っ手に手をかけた。音を立てないよう、慎重に回す。扉が、わずかに軋む。その音が、やけに大きく感じられた。


中に足を踏み入れる。

エレナの部屋は、整っていた。


どこか、違和感がある。生活感が薄い。

人が「今さっきまでここにいた」気配も、「これから戻ってくる」気配もない。


空室のはずの部屋が、空っぽではないという矛盾。

(……何だ、これは)


視線が、自然と部屋の奥へ向かう。

そして、そこで初めて、

明確な異常が目に入った。



始め、部屋を見渡して、最初は違和感の正体が分からなかった。

配置は変わっていない。

机も、本棚も、椅子も、いつもの位置にある……はずだった。

だが、視線が自然と部屋の奥へ吸い寄せられる。


押し入れ

本来なら、半分ほど開けられたままになっていることが多い場所だ。

エレナは几帳面だが、完璧主義ではない。

出し入れの頻度が高い場所を、完全に閉め切る性格ではなかった。

(……おかしい)

近づくにつれ、その異様さがはっきりしてくる。


押し入れの前に、本棚が置かれている。

それも、ただ立てかけたような雑な置き方ではない。

机が、その前に重ねられている。

机の脚は、床にぴたりと固定されているかのように安定していた。


意図的だ。

「……何か隠している」

嫌な想像が、頭をよぎる。


まさか、と思う。

だが、まさかを否定する材料が、どこにもない。


ルーメンは深く息を吸い、覚悟を決めた。

「……失礼するよ、エレナ」

誰もいない部屋に、そう告げる。


本棚に手をかけると、想像以上に重かった。

本が詰め込まれているのではない。

重さは、不自然なほど均等で、動かされることを想定していない。


力を込め、ゆっくりとずらす。

ぎぎっ、と木が擦れる音がする。


机も同様だった。

脚の裏には、床を傷つけないための布が噛ませてある。それが、意図的な準備であることを、雄弁に物語っていた。

(……ここまでして)

胸の奥に、冷たいものが落ちる。


ようやく現れた押し入れの扉。

だが、それで終わりではなかった。


扉の縁に、違和感がある。

板だ。


何枚もの木板が、打ち付けられている。

釘の位置も雑ではない。

開けられないよう、計算された配置。

板を剥がす作業は、思った以上に時間がかかった。

釘を一本ずつ抜き、板を外すたび、息が詰まる。


この向こうに何があっても、

もう引き返せないところまで来ている。

最後の板が外れた。


押し入れの扉に、手をかける。

指先が、微かに震えているのが分かった。

(……覚悟しろ)

自分に言い聞かせる。


何が出てきても、

見なかったことにはしない。

ゆっくりと、扉を開く。

闇が、口を開けた。


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