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エレナ編 第三十六章 荒れ果てるエレナ④ 調律魔術の効果は

医務室の空気は、重く張りつめていた。外のざわめきは遮断され、時間だけが取り残されたように感じる。

ベッドに腰掛けたエレナは、俯いたまま動かない。だが、その沈黙が、怒号よりも強く胸を締めつけた。

怒鳴ることもできた。力で押さえつけて、終わらせることもできた。

それでも、俺はそうしなかった。ここで必要なのは、恐怖でも支配でもないと分かっていたからだ。


深く息を吸い、声が震えないように意識する。

「……エレナ」

名前を呼ぶだけで、胸の奥が軋む。

「お前はさ、本当は、優しい子だろ」

エレナの指先が、わずかにシーツを掴んだ。


「昔から、そうだった。よく転んで、よく泣いて。痛いのも、怖いのも……誰より嫌がってた」

何度も見てきた。転んで立ち上がれず、唇を噛みしめていた幼い姿を。


「だから、人が嫌な顔をする理由も、怖がる理由も……分からないはずがなかった」

声を低くする。


「自分がされて嫌だったことを、他人に向ける子じゃなかった」

少し間を置き、問いかける。


「もし、今日のことを……お前が、逆にやられたらどう思う?」

答えは求めない。想像させる。


「逃げ場もなく、理由も分からないまま、魔術を向けられたら」

短く息を吐いた。


「怖いだろ……何も考えられなくなる」

拳を強く握る。


「もし、セリナ姉や俺が、格上の大人に囲まれて、同じことをされたら」

言葉を区切り、はっきり告げる。


「それはもう、戦いじゃない。ただの暴力だ」

沈黙が落ちる。エレナの肩が、かすかに震えた。


「確かに、お前は強くなった。それは、事実だ。だが、その力は、お前一人で手に入れたものじゃない」

「セリナ姉がいて、俺がいて、守るために、教えた力だ」

声に、はっきりと意思を込める。


「いじめるためじゃない。気に入らない相手をねじ伏せるためでもない」

「自分を守るため、仲間を守るため、弱い人を救うために。そのために、教えたんだ」

現実を、逃げずに突きつける。


「力を振るえば、人は離れる。怖がられ、距離を置かれ、誰も近づかなくなる」

声を落とす。


「それが続けば、家族だって、守れなくなる」

「皆が、お前を止める側になる。そして最後には――」

静かに、言い切る。


「孤独になる」

エレナの肩が、大きく揺れた。


「俺は、それが一番怖い。お前が、一人になることが」

声が、わずかに震える。


「だから……こんなこと、言いたくなかった」

「エレナ。道に迷ったら、頼れ。話せ。怒られてもいい、叱られてもいい」

「それでも……一人で抱え込むな」

最後に、はっきりと言った。


「俺たちは、お前の味方だ」

しばらくして、エレナは小さく頷いた。

顔を伏せたまま、声を殺して泣き始める。その泣き声を、俺は止めなかった。



エレナの肩は、小刻みに震えていた。声を殺そうとしているのが、痛いほど分かる。

俺は、少しだけ距離を詰めた。触れはしない。ただ、同じ高さで、同じ空気を吸う位置に立つ。


「……なぁ、エレナ」

呼びかける声は、もう叱責ではなかった。怒りも、押し殺している。


「さっき言ったことは、脅しじゃない」

ゆっくり、言葉を選ぶ。


「人はな、暴力を振るう相手のそばには、いられない」

「怖いからじゃない正しいかどうか以前に……心が、持たないんだ」

エレナの指先が、きゅっと握られる。


「距離を置かれる。避けられる。誰も、何も言わなくなる」

淡々と、現実だけを並べる。

「それが続くと、気づいた時には、周りに誰もいない」

「……孤独だ」

その言葉に、エレナの肩が大きく跳ねた。

「今は、家族がいる。俺も、セリナ姉もいる」

「それでも、もし今日みたいなことを、繰り返したら」

「家族だって、お前を、止める側に回らなきゃならなくなる」

それは、脅しではない。兄として、一番言いたくなかった現実だ。


「守れなくなるんだ。一緒に、いられなくなる」

沈黙が落ちる。エレナの呼吸が、乱れた。


「……でもな、それでも、だ。俺はお前を、見捨てる気はない」

「間違えたなら、止める」

「道を踏み外したなら、引き戻す」

声は低いが、迷いはない。


「怒る。叱る。ぶつかる。それでも、俺は、お前の味方でいる」

エレナの喉が、小さく鳴った。


「一人にしない。孤独にはさせない」

最後に、静かに言った。


「だから……もう、壊れる方向に進むな」

その瞬間。エレナは、とうとう顔を伏せたまま、声を押し殺して泣き出した。嗚咽が、止まらない。

俺は、何も言わずに、それを受け止める。ここから先は、言葉ではない。そう、理解していた。



エレナは、俯いたまま泣いていた。肩を震わせ、嗚咽を噛み殺そうとしているのが分かる。

俺は、その前に膝をつき、ゆっくりと手を差し出した。

一瞬の迷いのあと、エレナの小さな手が、弱々しく俺の指に触れる。

その感触だけで、胸の奥が締めつけられた。この手を、離してはいけない。


俺は、エレナの手を包み込むように握る。強くはしない。

逃がさないためではなく、「ここにいる」と伝えるために。


目を閉じる。エレナの魔力を感じで、エレナに俺の魔力を流し込み、エレナの魔力に沿わせていく。

思い浮かぶのは、願いだけだった。これから正しい道を歩いてほしい。

力に飲み込まれず、誰かを傷つける側にならないでほしい。

道に迷っても、一人で抱え込まないでほしい。


エレナが、もう迷わないように。

闇の中で、独りにならないように。

その想いを、静かに込めて、俺は、囁いた。


「……ハーモニック・リコンストラクション」

次の瞬間、優しく、暖かな光がエレナを包み込む。それは眩しさを伴わない、柔らかな光だった。まるで、人の手の温もりそのもののような。


届いてくれ。そう願った、その刹那。

光は、小さく揺れ、淡く瞬いて、すぐに、消えた。

何も、起こらない。

俺は、エレナの手を握ったまま、その現実を、ただ受け止めるしかなかった。



消えた光の残像が、まだ視界の奥に焼きついている。

俺は、しばらくの間、動けなかった。

手のひらに残るエレナの体温だけが、現実を繋ぎ止めている。


一度目は、偶然だと思った。集中が足りなかったのかもしれない、と。

だから、もう一度だけ。今度は、より深く、より慎重に。


エレナに魔力を流し込み、より丁寧にエレナの魔力に添わせていく。

エレナの手を握り直し、彼女のことだけを思う。

正しい道を。道に迷わない未来を。この子が、これ以上傷つかないように。

祈りに近い想いを、魔力に乗せる。


「……ハーモニック・リコンストラクション」

優しく、暖かな光が、確かに、再び生まれた。

一瞬、胸がわずかに軽くなる。今度こそ、と。

だが、その期待は、すぐに打ち砕かれた。

光は、脈打つことなく、定着する前に、すっと霧散する。


消えた。完全に。

「……なんでだ……」

思わず、声が漏れる。


やり方は、間違っていない。想いも、足りているはずだ。今まで、何度か救ってきた。

なのに、どうして、今回は届かない。


エレナの手を離し、その体に流れる魔力の感触を、改めて確かめる。

荒れている。流れが乱れ、渦を巻き、本来あるべき調和を、拒むように暴れている。

魔力暴走状態。

頭では、理解できる。だが、納得はできなかった。

「……これじゃ、ダメなのか……」

自分でも驚くほど、弱い声だった。


今までなら、手を伸ばせば、必ず届いてきた。

困っている時も、泣いている時も、迷っている時も。


それなのに。今は、目の前で泣いている妹を、抱きしめることすら、正解なのか分からない。

エレナは、俯いたまま、泣き続けている。嗚咽を噛み殺そうとして、それでも抑えきれず、肩を震わせている。


俺は、その姿から目を逸らせなかった。

怖かった。救えなかったことが、怖い。

このまま、もっと深く沈んでいくんじゃないかという不安が、胸の奥を締めつける。

大丈夫だ、と言えない自分が、何より怖かった。

手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、

今は、何一つ確かな答えを渡してやれない。


俺は、拳を強く握りしめる。

救えなかった。少なくとも、今は。それでも、ここで目を逸らすわけにはいかない。

泣き続けるエレナのそばで、俺はただ、立ち尽くしていた。

次に何をすべきかも分からないまま、それでも、妹を見失わないように。


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