エレナ編 第三十六章 荒れ果てるエレナ③ 暴力をふるった心情
エレナの体を抱えた、その瞬間だった。
軽い。いつもと変わらない重さ。
それなのに、違和感だけが、はっきりと伝わってくる。
腕の中にある体温に、異常はない。呼吸も安定している。心拍も、乱れていない。
それでも、魔力だけが、落ち着いていなかった。意識を、そっと内側へ向ける。触れている部分から、ごく自然に、魔力の流れを感じ取る。
荒れている。最初に浮かんだのは、その感覚だった。
川のように流れているはずの魔力が、ところどころで跳ね、ぶつかり、行き場を失って渦を巻いている。
一定の方向を持たない。整えられた経路を無視して、感情に引きずられるように走っている。
「……っ」
思わず、息が詰まる。これは、単なる興奮ではない。怒りや高揚が強いだけの状態でもない。
魔力の制御そのものが、外れている。
荒れている。乱れている。そして、その乱れが、内側から広がっている。
外からの刺激ではない。誰かに干渉された形跡もない。
エレナ自身の内側で、魔力が、自分の意思より先に動いている。
そこで、ようやく言葉が定まった。
「……魔力暴走状態」
だが、判断は揺るがない。
ここまで来ると、感覚ではなく、確信だ。
思い返す。
止める言葉が届かなかったこと
攻撃を「正しい」と認識していたこと
治療後であるにも関わらず、魔術を止めなかったこと
すべてが、一本の線で繋がる。
エレナは、悪意で動いていない。
だが、理性が魔力を制御できていない。
魔力が、感情を引きずって先に走っている。
それは、守るべきものが反転した状態だ。
腕の中で、エレナが小さく身じろぎする。苦しそうな表情ではない。
ただ、疲れ切ったように、力が抜けている。それが、余計に胸を締めつける。
「……エレナ」
名前を呼ぶ。返事はない。それでも、この状態で放っておくことはできない。
まずは、落ち着いた場所へ。人目のない、刺激の少ない環境へ。
医務室へ向かう足取りは、自然と早くなった。
だが、心は急がない。焦れば、判断を誤る。
今必要なのは、止めたことを、正しく終わらせること。
そして、ここからが、本当の向き合いになる。
腕の中の妹を、少しだけ強く抱き直しながら、俺は、静かに決意を固めていた。
医務室は、静かだった。外のざわめきが嘘のように遮断され、白い壁と簡素なベッドが並ぶ空間には、落ち着いた空気だけが残っている。
エレナをそっと寝かせ、俺はその傍らに立った。
呼吸は安定している。顔色も悪くない。身体的な損傷は、ない。それだけは、はっきりしていた。
だが、魔力はまだ荒れている。暴れ回っている。
その状態を確認してから、最低限の癒しを施す。刺激を与えすぎないよう、あくまで“整える”程度に。
しばらくして、エレナのまぶたが、ゆっくりと動いた。
「……ん……」
小さな声。
目を開けると、一瞬、焦点が合わない。
天井を見て、壁を見て、最後に、俺を見る。
「あ……」
頭を押さえ、眉をひそめた。
「……頭、痛い……」
声は弱い。だが、混乱はない。
「気づいたか」
できるだけ、落ち着いた声で言う。
「今は医務室だ。無理に動くな」
エレナは、しばらく黙ってから、ゆっくりと記憶を辿るように口を開いた。
「……私……」
数秒の沈黙。
そして、唐突に、あっさりと言った。
「ストーンランチャー、連発してた?」
胸が、わずかに締めつけられる。
「覚えてるのか」
「うん……ああ……」
エレナは、どこか他人事のように続けた。
「あの連中さ、私のこと気に入らないって言いがかりつけてきたのよね」
淡々と。まるで、日常の出来事を語るように。
「だから……分かるまで、お仕置きしてただけ」
俺は、言葉を失った。
怒りでも、後悔でもない。正当化だった。
「文句、ある?」
視線が向けられる。挑発ではない。悪意もない。ただ、本気でそう思っている目。
その事実が、何よりも重かった。
「……エレナ」
声を絞り出す。何から言うべきか、一瞬、迷う。
だが、エレナは構わず続けた。
「今日のなんて、今の私には普通だよ」
あまりにも軽い口調。
「この前もさ、気に入らない女の子がいて、魔術で威嚇したらすぐ泣いて逃げたし」
俺の中で、何かが、音を立てて崩れた。
「通るのに邪魔だった男の集団も、ウインドスラストで吹き飛ばしたし」
話すほどに、感覚がずれていく。
「そしたらさ、仕返しだって言うから……」
「……もういい」
思わず、言葉が出た。それ以上、聞く必要はなかった。
エレナは、不思議そうに俺を見る。
「なに?」
責められている、という自覚すらない。その無自覚さこそが、最も危険だった。
俺は、椅子に腰を下ろし、真正面からエレナを見つめる。
ここから先は、力では止められない。言葉で向き合わなければならない。そう、はっきり分かっていた。
エレナは、ベッドの上で体を起こし、俺の顔をまっすぐ見た。そこに、怯えはない。反省も、後悔もない。
あるのは、「当然だろう?」という感覚だけだった。
エレナは、少し首を傾げる。
「だってさ、私、間違ったことしてないよね?」
その言葉に、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
やられたら、やり返す。邪魔されたら、排除する。それが、判断基準になっている。
「相手が悪いんだよ」
エレナは、軽く肩をすくめた。
「最初から、ちょっかい出してきたのは向こうだし」
「私、ちゃんと“分かるまで”やっただけ」
分かるまで。その言葉が、俺の中で、何度も反響する。
「……エレナ」
声が、低くなる。
「“分かるまで”って、何だ」
「何って……」
エレナは、きょとんとした顔で言う。
「相手が、もうやめてって思うまで?」
「もう逆らわないって分かるまで?」
悪意はない。だからこそ、救いがない。
「……それを」
俺は、言葉を選びながら続ける。
「相手がどうなったか、考えたことはあるか」
「え?」
「恐怖で固まった顔」
「逃げたくても、動けない身体」
「次に何が来るか分からない状況」
エレナの表情が、わずかに変わる。
だが、すぐに元に戻った。
「……それが、なに?」
心臓が、強く打つ。ここまで来ている。
エレナの中では、相手の感情が、完全に切り捨てられている。
「今日の男の子たちもさ」
エレナは、何気なく続けた。
「最初は強気だったのに、すぐ黙ったよ」
「顔、真っ青でさ」
その言い方は、武勇伝に近かった。
俺は、もう耐えきれなかった。
「エレナ、もういい」
はっきり、遮る。エレナが、少し驚いたように目を見開く。
「なに、急に」
「それ以上、話すな」
声が、震える。怒りではない。悲しみと、恐怖と、焦りが混ざった声。
「……お前が言ってることが、どれだけ異常か、分かってるか」
エレナは、黙った。
初めて、空気が止まる。
「それはな……」
俺は、ゆっくりと言った。
「“たまにやった”ことじゃない」
「“勢いで出た”ことでもない」
視線を逸らさず、続ける。
「お前の中で、暴力が日常になってる」
言い切った瞬間、エレナの指先が、わずかに震えた。
「……そんなこと、ない」
声が、小さくなる。だが、否定は弱い。
「だって……」
何か言いかけて、言葉に詰まる。
俺は、その沈黙を逃さなかった。ここから先は、叱責ではない。兄として、向き合う時間だ。




