エレナ編 第三十六章 荒れ果てるエレナ① 助けを求める声
第三十六章 荒れ果てるエレナ
あの時までは、そう、確かに、あの時までは。
エレナは反省していた。少なくとも、兄である俺の目には、そう映っていた。
俯いたまま、小さく震える声で「ごめんなさい」と言ったあの姿を、俺は今でもはっきりと思い出せる。
逃げるような言い方ではなかった。言い訳もなかった。怒られる前から、エレナのほうが先に謝っていた。
何が悪かったのかを、言葉にすることはできなくても、少なくとも「いけないことをした」という自覚は、あったように思えた。
だからこそ、俺は安堵してしまったのだ。
まだ間に合う。今なら、まだ戻れる。叱るべきところは叱り、正しい方向へ導けばいい。そう信じて疑わなかった。
エレナは、優しい子だ。
昔からそうだった。泣いている子を放っておけず、自分が損をしても誰かのために動いてしまう。
剣術も魔術も、最初から強さを求めていたわけじゃない。ただ、「守りたい」という気持ちが人一倍強かっただけだ。
だから、今回のことも、行き過ぎた結果ではあっても、根っこは同じだと、俺は勝手に思い込んでいた。
叱られて、理解して、反省して。
そして、また一歩ずつ、やり直せばいい。
その「やり直せる」という感覚が、どれほど危ういものだったのかを、俺はこの時、まだ理解していなかった。
エレナの態度は、確かに落ち着いていた。
以前のような刺々しさもなく、感情の起伏も小さく見えた。
周囲と距離を取りながらも、無用な衝突を避けるような素振りすら見せていた。
教師からも、特に問題は聞いていなかった。
だから、大丈夫だと。
俺は、そう判断してしまった。
ただ、その安心感の底に、ほんのわずか、言葉にできない違和感が沈んでいたのも事実だった。
視線が合ったとき、ほんの一瞬だけ感じる、冷えたような空気。
返事をするまでの、妙に長い間。
そして、感情が平らすぎる、あの静けさ。
だが、その違和感を、俺は深く考えなかった。
考えようとしなかった、と言ったほうが正しいのかもしれない。
反省しているのなら、それでいい。
謝っているのなら、それでいい。
そうやって、俺は、兄として、一番してはいけない油断をした。
その日は、ごく普通の学校の一日だった。少なくとも、俺が声をかけられるまでは。
廊下を歩いていた俺の前に、突然、一人の女の子が立ちはだかった。
肩で息をしていて、顔色は真っ青だった。
手は小刻みに震え、声を出そうとしても、
うまく言葉にならない様子が一目で分かる。
「す、すみません……」
か細く絞り出すような声だった。
「エレナさんの……お兄さん、ですよね……?」
その一言で、胸の奥が嫌な音を立てた。
ただ名前を呼ばれただけなのに、背中を冷たいものが伝っていく感覚があった。
「エレナちゃんが……その……」
女の子は、そこで一度、言葉を詰まらせた。喉を鳴らし、唇を噛みしめ、それでも続きを言おうとする。
「数人の男の子相手に……魔術を……」
それ以上は言えなかったのか、女の子は俺の袖をぎゅっと掴んだ。
その力は意外なほど強く、必死さが痛いほど伝わってくる。
「とにかく、早く来てください……!」
懇願するような声だった。
助けを求める、切実な声だった。
次の瞬間、俺は何も考えずに頷いていた。
女の子に手を引かれるまま、走り出す。
廊下の床が軋む音、すれ違う生徒たちの驚いた視線、遠くで聞こえるざわめき。それらが一気に視界の端へと追いやられていく。
胸の奥で、嫌な予感がどんどん膨らんでいった。
魔術を使った?
しかも、複数人相手に?
頭の中で、何度も否定しようとした。
反省していたはずだ。きちんと謝っていた。もう、無茶はしないと……そう、信じていた。
それでも、女の子の震えた手の感触が、その希望を容赦なく削り取っていく。
走りながら、俺は心の中でエレナの名前を呼んでいた。
やめてくれ。頼むから、やめてくれ。
そんなことをしているはずがない、そうであってほしい。
だが、足が向かう先から伝わってくる空気は、明らかに普通じゃなかった。
悲鳴に近い声。
押し殺した呻き。
そして、どこか生々しい、土と血の匂い。
その全てが、俺の中の「最悪の想像」を、確信へと変えつつあった。
俺は、この時点で理解していたのかもしれない。
もう「注意」で済む段階ではないことを。
もう「説教」で止まる相手ではないかもしれないことを。
それでも、走る足を止めることはできなかった。
兄として。
曲がり角を抜けた瞬間、視界に飛び込んできた光景に、俺の足が思わず止まりかけた。
ひどい。
それが、最初に浮かんだ言葉だった。
地面は抉られ、あちこちが砕け散っている。
石畳には大小さまざまな穴が空き、割れた破片が無秩序に散乱していた。
ついさっきまで、ここが子どもたちの通り道だったとは、とても思えない。
その中心に、数人の男の子たちが倒れていた。
誰も立っていない。
誰一人、逃げることもできずに、その場に伏している。
腕を押さえてうずくまる者。
脚を引きずることすらできず、地面に横たわったままの者。
顔を覆い、歯を食いしばりながら呻き声を漏らしている者。
制服は裂け、土と血で汚れ、あちこちに赤黒い痕が残っていた。
ただの転倒や、喧嘩の延長でつく怪我じゃない。
土魔術・中位ストーンランチャー。
一目で分かった。
訓練用に軽く撃つレベルじゃない。
人に向けて、しかも連発して使えば、最悪の場合、命に関わる。
「い、痛……っ」
「動くな……動くと、響く……」
かすれた声が聞こえた。
恐怖と痛みが混じった、震えるような声。
俺の喉が、無意識に鳴った。
これをやったのが、エレナ?
そんなはずはない、と思いたかった。
だが、否定する材料は、どこにもなかった。
男の子たちの周囲には、まだ魔力の残滓が漂っている。
荒々しく、刺々しく、抑えが効いていない――明らかに、感情に任せて放たれた魔術の痕だ。
その時、視界の端で、誰かが身じろぎした。
「お、俺たち……」
一人の男の子が、血の滲む唇を震わせながら言葉を絞り出す。
「もう、やめてって……言ったんだ……」
その一言が、胸に突き刺さった。
やめてくれと、言った。
それでも、止まらなかった。
教育じゃない。
制裁でもない。
これは、暴力だ。
俺の中で、何かが音を立てて崩れた。
ここにあるのは、行き過ぎた叱責でも、感情的な小競り合いでもない。
明確に一線を越えた、取り返しのつかない行為だった。
そして、俺は、感じていた。
この惨状の「向こう側」に、まだ終わっていない何かがあることを。
魔力の圧が、背中を刺すように伝わってくる。
まだ、止まっていない。
そう、直感が告げていた。
考えるより先に、身体が動いていた。
俺は男の子たちの間へ駆け込み、膝をつく。
魔力を抑える余裕などなかった。癒しの流れをそのまま掌に通し、最も傷の深そうな子の胸元へと当てる。
キュアヒーリング。
柔らかな光が、裂けた制服の下へと染み込んでいく。骨に達していた衝撃が和らぎ、歪んでいた呼吸が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。
「だ、大丈夫だ……息を整えて」
声が、思ったよりも低くなった。
自分を落ち着かせるための言葉でもあった。
すぐ隣で、脚を押さえて震えている少年へと移る。
足首は不自然に腫れ、皮膚の内側で鈍い痛みが渦巻いているのが、魔力越しにも伝わってくる。
間に合え。祈るように魔力を流し込む。乱れた回路をなぞり、傷を塞ぎ、痛みを引き剥がす。
完全に治し切るには時間が足りない。それでも、命の危険だけは取り除かなければならなかった。
「……あ、れ?」
少年が、恐る恐る脚を動かす。
「……動く……?」
「無理はするな。今は、座ったままでいい」
俺はそう言いながら、次の一人へ向かう。
腕、肩、額、背中。
傷の場所はばらばらだったが、共通していたのは、どれもが「加減のない」魔術の痕だということだった。
「ありがとう……」
「助かった……」
か細い声が、ぽつりぽつりと聞こえてくる。
そのたびに、胸の奥が軋んだ。
助けられた。
確かに、今はそれでいい。
だが、俺は、はっきりと感じていた。
背中に、刺すような視線がある。空気が、重い。
魔力の圧が、すぐ後ろから迫ってきている。
治療を終え、最後の一人の容体を確認した瞬間、俺はゆっくりと立ち上がった。
全員、命に別状はない。
少なくとも、今すぐどうこうなる状態ではない。
よかった。
その安堵と同時に、別の感情が込み上げてきた。
怒りだ。そして、恐怖だ。
俺は、振り返った。
そこに立っていたのは、妹だった。
エレナ。
だが、その姿は、俺の知っているエレナと、どこか決定的に違って見えた。
魔力が、纏わりつくように溢れている。
荒れている。制御されていない。
まるで、次の一撃を待っているかのように。
俺は一歩、エレナの方へ踏み出した。
話をしなければならない。止めなければならない。
そう思った、その瞬間、嫌な予感が、はっきりと形を持った。




