エレナ編 第三十五章 エレナの転機③ いじめ騒動
変化は、家の外から始まった。
最初に気づいたのは、放課後の校舎だった。
いつもより少しだけ遅くまで残っていた日、廊下の奥で、低い声が聞こえた。
「……だから、言い方がきつすぎるんだよ」
振り向くと、校長先生が腰を落とし、誰かと目線を合わせて話していた。
その正面にいたのは、エレナだった。
女の子が一人、少し離れた場所で俯いている。目元を赤くして、肩をすくめていた。
「悪気がなかったとしても、言葉は人を傷つけるんだ。わかるね?」
校長先生の声は穏やかだった。
責める調子ではない。諭す、という言葉が一番近い。
エレナは一拍遅れて、こくりと頷いた。
「……はい」
声は小さいが、拒む響きはなかった。
「ちゃんと謝りなさい」
そう言われると、エレナは女の子の前に立ち、深く頭を下げた。
「言いすぎて、ごめんなさい」
それだけだった。
言葉は短く、余計な感情は削ぎ落とされている。
謝罪としては、形式を満たしていた。
女の子は一瞬ためらったあと、小さく頷いた。
「……うん」
そのやり取りを見て、校長先生は軽く息をついた。
「今日はもう帰りなさい」
エレナは再び頭を下げ、校舎を後にした。
それが、一度きりなら問題にはならなかった。
だが、似たような光景は、何度か繰り返された。
休み時間。授業の合間。帰り際の昇降口。
誰かが泣いている。そのそばに、エレナがいる。
毎回、理由は違った。言い合いだったり、勝負だったり、ただの口論だったり。
けれど、共通していたのは、エレナの言葉が、相手を追い詰めていたという点だった。
校長先生に呼び止められるたび、エレナは立ち止まり、話を聞いた。
言い返すことはない。暴れることもない。
ただ、淡々と、指摘を受け止めていた。
「気をつけます」
「すみませんでした」
その態度だけを見れば、反省しているようにも見える。
だが、見ている側には、別の違和感が残った。
感情が、そこにない。
怒りも、悔しさも、戸惑いも。何も表に出てこない。
まるで、正解の行動だけをなぞっているようだった。
家に戻っても、エレナはその日の出来事を詳しく話さなかった。
「今日はどうだった?」と聞かれても、
「普通」とだけ答える。
セリナはそれ以上、踏み込まなかった。
ルーメンも、無理に聞き出すことはしなかった。
ただ、確実に言えることがあった。
エレナは、少しずつ、周囲と噛み合わなくなっている。
それは、派手な衝突ではない。
問題として扱われにくい、小さなズレの積み重ね。
そしてそのズレは、誰にも止められないまま、次の段階へ進もうとしていた。
その頃から、エレナは稽古に顔を出さない日が増え始めた。
最初は、本当に些細な違和感だった。
いつもの時間になっても、姿を見せない。
「……あれ、エレナは?」
セリナが周囲を見渡し、そう口にする。
木剣を抱えたまま、首を傾げる仕草は、どこか拍子抜けしたものだった。
「まだ来てないみたいだね」
ルーメンもそう答え、特に深くは考えなかった。
少し遅れてくることは、これまでもあった。
だが、その日は結局、エレナは現れなかった。
翌日も。その次の日も。
理由を尋ねると、返ってくるのは短い言葉だけだった。
「今日はいい」
「気分じゃない」
言い訳はしない。謝りもしない。
ただ、距離を置くように、静かに稽古から離れていった。
それは反抗ではなかった。拒絶とも違う。
まるで、そこに価値を感じなくなったかのような態度だった。
剣も、魔術も。あれほど執着していたはずの鍛錬を、エレナはあっさり手放していった。
セリナもルーメンも、強く引き戻すことはしなかった。
無理に続けさせるより、本人の気持ちを尊重した方がいい。そう判断したからだ。
だが、その「静観」が、次の出来事を防ぐことはできなかった。
ある日の午後。家の扉が、荒々しく叩かれた。
「ちょっと、開けてください!」
鋭い声に、母は思わず肩を跳ねさせた。
扉を開けると、そこに立っていたのは見知らぬ女性だった。
息を荒げ、顔を強張らせている。
「あなたのところのエレナっていう子に、うちのミシェルがいじめられてるっていうのよ!」
言葉は、休む間もなく浴びせられた。
「最近、怪我をして帰ってくるから不思議に思って聞いたら、エレナにやられてるって!どういう教育してるの!校長先生にはもう話してあるから!明日は保護者会よ、みんなの前で説明してもらうから覚悟しておきなさい!」
母は、言葉を失った。
ただただ頭を下げることしかできず、
「申し訳ありません」と繰り返すばかりだった。
怒鳴り声が去ったあと、家の中には重たい沈黙が落ちた。
母は震える手で扉を閉め、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……そんな……」
信じられない、という呟きが漏れる。
そして、母ははっとしたように顔を上げ、エレナの部屋へ向かった。
「エレナ!入るわよ!」
扉を開けると、エレナはベッドに腰掛け、静かにこちらを見ていた。
母は感情を抑えきれなかった。
「あなた、ミシェルくんをいじめてるの!?怪我をさせたって言われてるのよ!どういうことなの、エレナ!」
それは、これまで見たことのない母の姿だった。声は荒く、言葉は鋭い。
エレナは何も言わず、ただ母を見返していた。
その沈黙が、さらに母を追い詰める。
「お父さんが帰ってきたら、ちゃんと話してもらうからね!覚悟しておきなさい!」
怒りと動揺が入り混じったまま、母は部屋を出ていった。
残されたエレナは、視線を落とすこともなく、ただ、静かに座り続けていた。
家の中に、決定的な亀裂が走った瞬間だった。
エレナの部屋を出たあとも、母の胸の高鳴りは収まらなかった。
台所に立っても、鍋を火にかけても、手は震えたままだ。
いじめ。怪我。保護者会。
頭の中で、その言葉だけがぐるぐると回る。
「そんなはずない……」
何度もそう呟きながらも、否定しきれない自分がいた。
ここ最近のエレナは、確かに変わっていた。
稽古に行かなくなり、家でも口数が減り、何を考えているのか分からない表情をすることが増えた。
それでも、まさか、他の子を傷つけるなんて。
母は唇を噛みしめる。
怒りの奥にあったのは、不安だった。そして、恐怖だった。
「私の知らないところで、何が起きているの……?」
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
やがて、玄関の扉が開く音がした。
「ただいま」
父の声だった。
その一言で、母の感情は一気に溢れ出した。
堰を切ったように、母は父のもとへ駆け寄る。
「あなた、大変なの!エレナが……エレナが、学校でいじめをしてるって!」
父は靴を脱ぐ手を止め、静かに母の顔を見た。
「……詳しく話してくれるかい」
その落ち着いた声に、母は一瞬、言葉を詰まらせた。
だが、すぐに感情のままをぶつける。
ミシェルという男の子。
怪我をして帰ってくること。
親が怒鳴り込んできたこと。
保護者会の話。
父は、黙って最後まで聞いていた。
母の声は次第に荒くなり、
話し終える頃には、息が上がっていた。
「……信じられないわ」
「どうして、あの子が……」
父は、しばらく考えるように目を伏せてから、静かに口を開いた。
「母さん。気が動転しているのは分かる」
その言葉に、母ははっとする。
「でもね、それは“相手の親の話”だ。エレナ自身の話は、まだ聞いていない」
「……それは……」
「人は、行き違う。ましてや子供同士なら、なおさらだ」
父の声は、終始変わらなかった。
責めるでも、庇うでもない。
「ここで感情だけで叱ってしまったら、
エレナは、もう本当のことを話さなくなる」
その言葉に、母の胸がちくりと痛んだ。
確かに、自分は、エレナの話を、まだ何も聞いていない。
「……私……」
母は、力なく椅子に腰を下ろした。
「私、ひどいこと言ったわね」
「何も聞かずに、怒鳴って……」
父は、そっと母の肩に手を置いた。
「気づけたなら、それでいい」
「これから、ちゃんと向き合えばいいんだ」
しばらくの沈黙のあと、父は続ける。
「エレナを呼ぼう。三人で、落ち着いて話そう」
母は、小さく頷いた。
怒りは、まだ胸の奥に残っている。不安も、消えてはいない。
それでも、ここから逃げてはいけない、と思った。
母は立ち上がり、エレナの部屋へ向かう。
「エレナ……食卓に来てちょうだい」
その声は、先ほどよりも、少しだけ柔らかかった。
食卓に着いたエレナは、椅子に浅く腰掛け、視線を伏せていた。
いつもなら姿勢を注意されるところだが、誰もそれを口にしない。
父は向かいの席に座り、エレナの様子を静かに観察していた。
落ち着いているように見える。
だが、それは「平静」ではなく、「閉じている」ようにも感じられた。
母が口を開く前に、父が先に話し始める。
「エレナ。さっきは母さんが感情的になってしまった。まずは、そのことを謝らせてほしい」
母は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに深く頭を下げた。
「……ごめんなさい。あなたの話を聞かずに、怒鳴ってしまったわ」
エレナは、少しだけ顔を上げた。けれど、何も言わない。
父は、その沈黙を急かさなかった。
「エレナ」
「ミシェル君、という子の親御さんが来た。学校で、怪我をしたと言っていた」
淡々と、事実だけを並べる。
「エレナに聞きたい。心当たりはあるかい?」
エレナは、短く頷いた。
「……うん」
その返事に、母の肩が小さく震えたが、父は続ける。
「じゃあ、聞かせてほしい。どうして、そうなった?」
少しの間。エレナは唇を噛み、言葉を選ぶようにしてから、答えた。
「ミシェルが……私のこと、弱いって言ったの」
父は、遮らずに聞く。
「それで?」
「……じゃあ、勝負しようって」
「剣じゃない。体術みたいなもの」
「私が勝っただけ」
声は抑えられていた。
感情をぶつける様子はない。
「怪我は?」
父が問う。
「……転んだ」
「私、癒し魔術かけようとした」
「でも、ミシェル、走って逃げた」
それを聞いた父は、すぐに判断を下さなかった。一度、深く息を吸う。
「つまり、お互いの同意で勝負をして、エレナが勝った」
「怪我をさせてしまったが、癒しをしようとした」
「そういうことだね?」
エレナは、再び頷く。
「うん」
父は、その様子をじっと見つめてから、静かに言った。
「エレナ。勝負そのものが悪いわけじゃない」
母が、はっとした顔をする。
「でもね、怪我をさせてしまった事実は、消えない」
「逃げられたとしても、『ごめん』の一言は、言うべきだった」
エレナは、わずかに目を伏せた。
「……うん」
その一言は、先ほどよりも小さかった。
父は続ける。
「校長先生と、その親御さんには、父さんが事情を説明する」
「保護者会でも、きちんと話す」
母が、安堵と不安の入り混じった表情で父を見る。
「でも、エレナ。これは、これで終わりだ」
父の言葉に、空気が引き締まった。
「強さを持つなら、それをどう使うかも、同時に学ばなければならない」
「勝てばいい、ではない」
「相手を傷つけていい、でもない」
父は、はっきりと線を引いた。
「分かったね?」
エレナは、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
その返事には、反発も、言い訳もなかった。
ただ、受け止めるような響きだけが残った。
母は、その様子を見て、胸の奥が締めつけられるのを感じた。叱るべきだったのか。守るべきだったのか。
分からない。
けれど、父の言葉が、確かに場を整えていた。
この夜、エレナはそれ以上何も語らなかった。
だが、食卓を離れる背中は、どこか重く見えた。
均衡は、まだ崩れたままだった。
食卓の空気は、まだ重さを残していた。
誰も箸を動かさず、料理の湯気だけが静かに立ち上っている。
最初に動いたのは、母だった。
ゆっくりと椅子を引き、エレナの正面に座り直す。その動作一つひとつに、ためらいが滲んでいた。
「……エレナ」
呼びかける声は、先ほどまでの剣幕とは別人のように低い。
「さっきは、ごめんなさい」
「あなたの話も聞かずに、決めつけて怒鳴ってしまった」
エレナは視線を上げない。
けれど、耳は確かにこちらを向いている。
母は続ける。
「母さんね……あなたが強くなっていくのが、少し怖かったの」
自分でも驚くほど、正直な言葉だった。
「嬉しいはずなのに。誇らしいはずなのに。気がついたら、置いていかれるような気がしていた」
拳を膝の上で握りしめる。
「だから、問題が起きたとき、ちゃんと見ようとしなかった」
「守るために怒ったつもりで、実際には、目を逸らしていたのかもしれない」
エレナの肩が、わずかに動いた。否定でも、同意でもない。ただ、聞いているという合図。
母は、それを見逃さなかった。
「エレナ。あなたは、強いわ」
その言葉に、エレナの指が微かに震える。
「でもね、強い子ほど、間違えたときに、独りになりやすい」
母は、そこで一度言葉を切った。
「母さんは、あなたを独りにしたくない」
視線を落とし、深く頭を下げる。
「これからは、ちゃんと聞く。怒る前に、考える。約束するわ」
しばらくの沈黙。
エレナは、ようやく顔を上げた。その表情は、怒っても、泣いてもいない。
ただ、少し疲れていた。
「……うん」
短い返事だった。
けれど、それは拒絶ではなかった。
父は、そのやり取りを黙って見守っていた。
そして、最後に一言だけ添える。
「家族は、正しさを押しつける場所じゃない」
「立ち直るために、戻ってくる場所だ」
母は、小さく頷いた。
エレナは、それ以上何も言わなかった。
だが、食卓に戻ると、ゆっくりと箸を取った。
その動作を見て、母は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
均衡は、まだ完全には戻らない。けれど、崩れきったままでもなかった。
この夜、家の中には、
「やり直せるかもしれない」という、かすかな余白が生まれていた。
食卓に、再び静けさが戻った。先ほどまでの緊張が嘘のように、夜は淡々と進んでいく。
父は湯呑みを手に取り、一口だけ飲んでから口を開いた。
「エレナ」
名を呼ばれ、エレナは背筋を伸ばす。
叱責ではないと分かっていても、自然と身構えてしまう。
「今日の話を、父さんなりに整理するよ」
声は穏やかで、いつもと変わらない。
それが、かえって重く響いた。
「まず、エレナは、ミシェル君と勝負をした」
「それは、お互いの同意のもとだった」
エレナは小さく頷く。
「次に、勝ったあと、怪我をさせてしまった」
「癒し魔術をかけようとしたが、相手は逃げた」
「ここまでは、事実だね?」
「……うん」
父は一度、言葉を区切る。
「勝負そのものが悪いとは言わない」
「でも、勝負のあとにどう振る舞うかは、別の話だ」
その視線は、鋭くも、責めるものではない。
「力がある者ほど、相手の受け止め方まで考えなければならない」
「剣でも、魔術でも」
「人に向けた時点で、それはただの遊びじゃなくなる」
エレナは、黙って聞いていた。
反論も、言い訳もない。
父は続ける。
「校長先生と、ミシェル君のご両親には、父さんが話をする」
「事情を説明して、誤解は解く」
母が、はっとしたように父を見る。
「でも、それで全部が終わるわけじゃない」
父の声は、少しだけ低くなった。
「エレナ。これからは、勝負をするとき、ちゃんと考えなさい」
「相手がどう感じるか」
「その先に、何が残るか」
「それが分からないうちは、軽々しく力を振るうべきじゃない」
長い沈黙が落ちた。
エレナは、膝の上で指を握りしめていた。
少しだけ時間が経ってから、ゆっくりと顔を上げる。
「……わかった」
その声は、震えていなかった。反抗でも、開き直りでもない。ただ、受け止めた声音だった。
父は、それを見て静かに頷く。
「よし、それでいい」
それ以上、何も言わなかった。
説教を続けることもしない。
母は胸に手を当て、深く息を吐いた。
セリナも、ルーメンも、言葉を挟まなかった。
この場で必要なのは、それ以上の裁きではないと、全員が分かっていた。
エレナは、食卓を見つめたまま、最後に小さく言う。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのかは、分からない。
けれど、それで十分だった。
その夜、エレナは静かに自室へ戻った。
剣も、魔導書も手に取らず、
灯りを落として、布団に潜り込む。
崩れた均衡は、まだ完全には戻らない。
けれど、この夜を境に、何かが確かに「止まった」。
転機とは、劇的な変化ではない。
多くの場合、それは踏みとどまった一瞬のことを指す。
エレナは、その場所に立っていた。
まだ前には進めない。
けれど、もう戻ることもできない。
そういう夜だった。




