エアリス編 第二章 異世界の学校 ― 魔術と剣術 ―① 朝の光
第二章 異世界の学校 ― 魔術と剣術 ―
ルゼリアの丘を包む朝の光は、どこまでも澄み渡り、新しい季節の息吹を運んでいた。
鏡の中に映る僕は、茶色の髪を短く整えた、まだ幼さの残る五歳の少年だ。前世の記憶を色濃く残してはいるものの、このルシアークの世界で生きる「ルーメン・プラム・ブロッサム」としての肉体は、驚くほど軽やかで、けれど未熟な脆さを孕んでいた。
今日から、僕の新しい「社会生活」が始まる。
僕たちの住むルゼリアのような田舎の分校には、都会の学院にあるような華々しい「入学式」などという儀式は存在しない。学びの時期を迎えた子供たちが、それぞれの家庭の事情や成長に合わせてバラバラにその門を叩く。それが、この世界の、そしてこの村の極めて質実剛健な日常だった。
プラム・ブロッサム邸の朝は、いつものように活気に満ち、心地よい喧騒に包まれていた。
広い台所からは、乾燥した薪がパチパチと爆ぜる小気味よい音と共に、焼き立てのパンの芳醇な香りと、旬の野菜をじっくりと煮込んだスープの温かな湯気が漂ってくる。
母リオラは、まだ生後間もない妹エレナをあやしながら、片手で手際よく朝食の支度を整え、さらには洗濯の準備を指示していた。その姿は慈愛に満ちていると同時に、家政を切り盛りする一人の女性としての力強さに溢れている。
「……あの、母さん。魔術のことなんだけど、少し教えてもらうことはできないかな」
僕は、忙しく立ち働く母の背中に、おずおずと声をかけた。
あの日、白い霧の中で授かった不思議な力。そして自分の中に確かに拍動している魔力の「種」。学校へ行く前に、それをどう扱えばいいのか、少しでも手がかりが欲しかったのだ。
母リオラは、エレナを抱き直しながら、ふっと優しく、けれど少しだけ申し訳なさそうな微笑みを僕に向けた。
「おはよう、ルーメン。……そうね、魔術のこと。お母さんも本当はあなたに手取り足取り教えてあげたいのだけれど……。見ての通り、今はエレナの育児と家事で手がいっぱいなのよ」
母は僕の目の高さまで腰を落とし、茶色の髪を慈しむように撫でてくれた。彼女の指先からは、癒やしの魔術を日常的に使う者特有の、清らかな精霊の気配のような残り香がした。
「魔術は学校でしっかり教えてもらってね。分からないところがあったら、帰ってきてからお母さんも協力するから。いいわね?」
「……うん。分かった。学校で頑張ってくるよ」
母の言葉に、僕は静かに頷いた。確かに、今の母にこれ以上の負担をかけるわけにはいかない。学校という場所が、僕の知らない「この世界の理」を解き明かしてくれることを願うしかなかった。
「ルーメン! 準備はいい!? 置いていっちゃうわよ!」
玄関から、鈴を転がしたような元気な声が響いた。
そこには、緋色の髪を朝日に輝かせながら、通学用のカバンを肩にかけた姉セリナが立っていた。彼女の髪は、まるでルゼリアの地に咲く情熱的な花のように鮮やかで、見る者の心を無条件に明るく照らし出す。
「さあ、私の手を握って! 迷子にならないように、お姉ちゃんが案内してあげるんだから!」
セリナがぐいっと力強く手を差し出す。僕はその小さくも頼もしい手を握り、住み慣れた屋敷の扉を後にした。
「ほら、しっかり足を動かして! ルーメンの歩幅だと、普通に歩いても時間がかかるんだから」
セリナは僕の手を引き、慣れた足取りで丘を下っていく。
ルゼリアの集落は、豊かな自然の中に家々がポツン、ポツンと点在している。離れていても、それら一帯がひとつの集落という括りであり、互いに助け合って生きる共同体なのだという。
しばらく歩くと、ルゼリアの象徴とも言える、ゆったりとした川の流れが見えてきた。
「見て、ルーメン。ジャンヤ川よ。今日もお水がキラキラしてて、とっても綺麗だね」
セリナが指差す先には、春の陽光を反射して銀色に輝くジャンヤ川が流れていた。その豊かな水音は、初登校を控えた僕の緊張を、川底の砂利を洗うように優しく鎮めてくれる。
道すがら、点在する家々を眺めているうちに、僕はひとつの重要な事実に気づかされた。
(……僕の家って、周囲に比べても、やっぱり凄く大きいんだな)
瓦屋根や壁の造り、庭の広さ。周囲の農家の家々に比べ、高台に建つプラム・ブロッサム邸は明らかに立派だった。
父ランダルは、この領土の管理を任され、さらには剣術を教えることで、物理的にも精神的にもこの村を支えている存在だ。
(父さん……。ただ剣が強いだけじゃなくて、これほど多くの人たちの生活を守り、感謝されているんだ。……凄いな。僕も、この名前を汚さないようにしなきゃ)
父の背負う責任と、村の人々から寄せられる信頼の重さを、五歳の肉体を通して初めて実感した瞬間だった。
しかし、そんな誇らしい感傷に浸っていられるほど、実際の道程は甘くはなかった。
五歳の子供の未熟な足にとって、学校までの距離はあまりにも遠すぎた。
最初は、見たことのない野草や小鳥に目を輝かせていた僕も、数十分が経過する頃には、呼吸が激しく乱れ、一歩を踏み出すたびに膝が笑い始めた。
「……はぁ、はぁ。……姉さん、まだ、着かないの……?」
「もうすぐそこよ! 頑張って、ルーメン!」
セリナは平気な顔で僕の手を引くが、僕のふくらはぎは既にパンパンに張り詰め、神経が痺れるような鈍い痛みが走る。
(帰りも……またこの道を、今の体で歩かなきゃいけないのか。……魔術を学ぶ前に、基礎体力のなさに打ちのめされそうだ)
ようやく、ルゼリア分校の木造の校舎が見えてきたとき、僕の足は限界を迎え、文字通り棒のようになっていた。
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