エレナ編 第三十五章 エレナの転機② 崩れた友情
セリナは、しばらく何も言わなかった。怒鳴ることも、すぐに叱ることもない。ただ、エレナをまっすぐに見つめていた。
その沈黙が、かえって場の空気を張り詰めさせる。
「……エレナ」
低く、抑えた声だった。
「あなたは、剣を何だと思っているの」
エレナは即座に答える。
「強くなるためのものよ。勝つためのもの」
その言葉を聞いた瞬間、セリナの表情が変わった。
怒りというより、失望に近い。
「違うわ」
はっきりと、否定する。
「剣は、誰かを踏みつけるためのものじゃない。まして、友達を切り捨てるためのものでもない」
セリナは一歩前に出る。
その動きに、エレナの肩がわずかに強張った。
「あなた、今、自分が何を言ったかわかってる?」
問い詰める声ではない。
だが、逃げ場のない問いだった。
「サージュちゃんは、あなたの敵じゃない。一緒に汗を流して、悩んで、頑張ってきた“仲間”よ」
エレナは視線を逸らす。
「……でも、弱いなら……」
「それ以上、言わないで」
鋭く遮る。
セリナの声には、はっきりとした怒りが乗っていた。
「弱いから切り捨てる?勝てないから価値がない?そんな考え方で剣を振るなら、私は、あなたに剣を教え続けることはできない」
その宣告は、重かった。
エレナの目が大きく見開かれる。
「……え?」
「剣は、力を誇るための道具じゃない。人を敬えない者が振るう資格はないの」
セリナの声は、震えていた。怒りだけではない。妹への期待が、裏切られた痛みが混じっている。
「今のあなたに剣を教えたら、それは“強さ”じゃなくて“歪み”を育てることになる」
エレナは、反論しようと口を開きかけた。だが、言葉が出てこない。
「だから……」
セリナは、きっぱりと言い切る。
「今日から、あなたには剣術は教えない」
その瞬間、エレナの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
張り詰めた空気の中で、ルーメンは一歩前に出た。
セリナの激昂が収まらないことも、エレナの動揺が深いことも、すぐに分かった。
だからこそ、声を荒げることはしなかった。
「エレナ」
静かな呼びかけだった。
エレナはゆっくりと顔を上げる。その目には、まだ反発の色が残っている。
「僕からも、話していいかな」
問いかけるようでいて、実質的には通告だった。
「……なに」
ぶっきらぼうな返事。
ルーメンは一度だけ息を整え、言葉を選ぶ。
「さっきの言葉、サージュちゃんに向けた言い方は、明らかに間違ってる」
エレナの眉がひそめられる。
「私は事実を言っただけよ」
「違う」
即座に否定する。
「事実かどうかじゃない。
“どう言ったか”と“誰に向けたか”の問題だ」
ルーメンは、エレナを責める目では見ていなかった。
だが、甘やかす目でもない。
「君は、剣も魔術も強くなった。それは事実だし、努力も知ってる。でもね、エレナ。力がある人間ほど、言葉と態度に責任が生まれる」
エレナは唇を噛みしめた。
「もし、あの言葉を聞いたのがサージュちゃんじゃなくて、もっと心の弱い子だったらどうなってたと思う?」
答えを待たず、ルーメンは続ける。
「僕は、魔術を“誰かを支配するための力”としては教えていない。それは剣と同じだ」
視線が、エレナにしっかりと向けられる。
「だから、このままの考え方でいるなら、僕も魔術は教えられない」
エレナの目が揺れた。
「……兄ちゃんまで?」
「そうだよ」
きっぱりと、しかし静かに言う。
「セリナ姉は剣の話をしている。僕は魔術の話をしている」
「でも、理由は同じだ」
ルーメンは一歩近づき、目線を合わせる。
「力は、誰かを見下すために使うものじゃない。友達を切り捨てるために使うものでもない。それが分からないうちは、教える側として、ここで線を引くしかない」
エレナは何も言えなかった。
胸の奥で、怒りと悔しさと、理解できない何かが絡み合っている。
「これは罰じゃない」
最後に、ルーメンはそう付け加えた。
「君が、どう力と向き合うかを考えるための“止め”だよ」
その言葉は、エレナにとって、剣を取り上げられるよりも重かった。
張りつめていた空気が、ふっと緩んだのは、エレナとルーメンのやり取りが終わった直後だった。
その瞬間、耐えていたものが一気に崩れ落ちたかのように、サージュの肩が小さく震え始めた。
最初は、声を出さないように必死で堪えていた。唇を噛み、俯き、拳を握りしめて。
「……うっ……うっ」
けれど、喉の奥から漏れた、抑えきれない音とともに、大粒の涙がぽろぽろと地面に落ちた。
セリナはすぐに異変に気づき、歩み寄る。
「サージュちゃん……」
膝を折り、視線の高さを合わせると、
サージュは何も言えず、ただ首を横に振った。
「……だいじょう、ぶ……」
言葉にならなかった。
声は震え、呼吸が乱れる。
セリナは迷わず、その小さな肩に手を置いた。
「無理しなくていいわ。今は、泣いていいの」
その一言が引き金になった。
「……わ、たし……」
サージュは声を上げて泣き出した。
「ずっと……いっしょに……がんばって……エレナちゃんと……」
嗚咽に言葉が途切れる。
「おなじくらいに……なりたくて……おいていかれたく、なくて……」
それは、怒りでも恨みでもなかった。
ただ、純粋な「一緒にいたかった」という願いだった。
セリナは、サージュをそっと抱き寄せる。
「あなたは、何も悪くない」
ゆっくり、はっきりと。
「ここまで一緒に練習してきたこと、
誰よりも私は見てたわ」
サージュはセリナの服を掴みながら、必死に首を振る。
「でも……わたし……つよく、なれなくて……」
「違うわ」
今度は、はっきりと否定した。
「あなたは弱くない。努力してきたし、逃げてもいない。ただ、成長の仕方が違っただけ」
その言葉に、サージュは一瞬だけ顔を上げた。
セリナは優しく微笑む。
「比べられると、苦しいわよね。でも、比べる必要なんて、本当はなかったのよ」
少し離れた場所で、ルーメンもサージュの様子を見ていた。
胸の奥が、重く沈む。
(エレナだけじゃない。傷ついたのは、サージュちゃんもだ)
ルーメンは静かに近づき、声をかけた。
「サージュちゃん」
サージュは涙を拭いながら、恐る恐る顔を向ける。
「今日は……もう無理に練習しなくていい」
「君がここまで頑張ってきたことは、僕もちゃんと知ってる」
それは慰めではなく、事実だった。
サージュは小さく、何度も頷いた。
「……ごめんなさい……わたし、泣いちゃって……」
「謝らなくていい」
ルーメンは首を横に振る。
「泣くのは、ちゃんと向き合ってきた証拠だよ」
その言葉に、サージュは再び涙をこぼしながらも、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
だが、その背中には、もう以前のような無邪気さは残っていなかった。
友情に入った、はじめての深い亀裂。その痛みは、静かに、確実に残っていた。
しばらくの沈黙のあと、エレナは一歩、前に出た。
足取りは迷いなく、背筋も伸びている。
その姿だけを見れば、いつもの強いエレナだった。
「……サージュ」
名前を呼ばれ、サージュはびくりと肩を震わせる。
セリナの腕の中から、恐る恐る視線を向けた。
エレナは深く息を吸い、そして、頭を下げた。
「さっきは、言いすぎたわ。あなたを傷つけるつもりはなかった。その……ごめんなさい」
それは、確かに「謝罪」だった。
言葉としては、間違っていない。
けれど。
その声には、迷いも、揺らぎも、戸惑いもなかった。
自分が間違ったと“理解した”というより、謝るべきだと判断した、そんな響きだった。
サージュは、すぐに返事をしなかった。
俯いたまま、両手をぎゅっと握りしめ、何かを探すように、床を見つめている。
「……」
沈黙が続く。
セリナは口を挟まなかった。
ルーメンも、あえて視線を逸らしていた。
やがて、サージュが小さく口を開いた。
「……うん……わかったわ……ごめん、なさいって……言ってくれて……ありがとう」
それ以上の言葉は、続かなかった。
エレナは顔を上げ、サージュを見た。
その表情に、怒りはない。悲しみも、拒絶も、ない。
ただ、距離があった。
昨日まで、並んで剣を振っていた相手を見る目ではない。
何かを共有していた相手を見る目でもない。
エレナは一瞬だけ、その違和感を感じ取ったようだったが、
すぐにそれを振り払うように、口を結ぶ。
「……じゃあ、今日はここまでにしましょう」
淡々とした声だった。
「練習も……続けられそうにないし」
その言葉に、サージュの指先が微かに震えた。
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
セリナが場を締めるように言う。
「今日は、解散にしましょう」
誰も異を唱えなかった。
帰り支度をする間、エレナとサージュが言葉を交わすことはなかった。
視線が合うことも、なかった。
ただ、同じ空間にいるだけで、
かつての距離が、はっきりと「過去」になったことが分かる。
ルーメンは、その様子を見ながら思った。
(謝った。でも、元には戻らない)
それは、誰かが悪いからではない。
一度生まれてしまった溝は、
言葉ひとつで埋まるものではなかった。
その日を境に、二人の間には、静かな冷却が始まった。
表面上は、何も変わっていないように見えて。
けれど確実に、何かが終わっていた。
剣を教えない。魔術も教えない。
その言葉が告げられてから、エレナは一晩、何も言わなかった。
翌朝。まだ誰も起きていない時間、エレナは一人で身支度を整え、居間に向かった。
そこには、すでにセリナとルーメンがいた。
「……姉ちゃん。兄ちゃん」
呼びかける声は小さかったが、逃げはなかった。
二人が振り向く。
エレナは、その場で深く頭を下げた。
「昨日のこと、ごめんなさい。サージュに言ったことも、姉ちゃんに言い返したことも、全部、悪かったと思ってる」
言葉は整っていた。言い訳はなかった。
「私、強くなったって思って……それで、周りが見えなくなってた」
セリナは、すぐには何も言わなかった。
ルーメンも、黙って様子を見ている。
「剣術も、魔術も……続けたい。教えてほしい」
エレナは顔を上げた。視線は真っ直ぐだった。
しばらくの沈黙のあと、セリナが口を開く。
「……謝れるなら、それはいいことよ」
厳しい声だが、拒絶ではなかった。
「でもね、エレナ。謝ったからすぐ元通り、って話じゃないわ」
エレナは黙って頷く。
「剣を振る資格は、強さだけじゃない。人を見下す心を持ったままじゃ、私は教えられない」
その言葉を、エレナは受け止めた。
「だから、続けるかどうかは、これからの態度を見て決める」
ルーメンも続ける。
「魔術も同じだ。力は便利だからこそ、扱う人の姿勢が問われる」
エレナはもう一度、深く頭を下げた。
「……わかりました」
その声に、迷いはなかった。
それから、練習は再開された。
ただし、以前と同じではない。
次の日も、その次の日も。
いつもの時間になっても、サージュは姿を見せなかった。
最初のうちは、誰も深く考えなかった。
「今日は用事があるのかしら」
「体調でも崩したのかな」
そんな言葉が、何気なく交わされるだけだった。
エレナも、特に何も言わなかった。
剣を手に取り、いつも通り準備をする。
サージュの立っていた場所が空いていても、
そこを見ることはない。
練習は続いた。
セリナの指導は変わらず厳しく、
ルーメンの魔術の確認も、淡々と進む。
ただ、二人分の足音が、一人分になった。
木剣が打ち合わさる音も、掛け声も、半分になったように感じる。
「……今日はここまでにしましょう」
セリナがそう言うと、エレナは静かに頷いた。
「はい」
短い返事。
余計な感情は乗っていない。
帰り支度をしながら、
ルーメンは何度か、エレナの横顔を盗み見た。
いつもより、無表情だ。
集中している、と言えばそれまでだが、どこか、閉じている。
三日目。四日目。
サージュは、やはり来なかった。
「サージュちゃん、今日は来ないの?」
セリナが、何気ない口調で尋ねる。
エレナは、少し間を置いて答えた。
「……知らない」
それだけだった。
声は平坦で、本当に知らない、という響きだった。
「学校では?」
「最近は、あんまり喋ってない」
それ以上の説明はない。
セリナはそれ以上追及しなかった。
ルーメンも、あえて話題を変えた。
空気が、静かに固まる。
それは、衝突の後の重苦しさではない。
時間が流れていく中で、自然に距離が広がっていく感覚だった。
サージュのいない練習は、エレナにとっては、むしろ効率が良かった。
誰かを待つ必要もない。誰かに合わせる必要もない。
剣も、魔術も。自分のペースで、ひたすら積み重ねられる。
「……問題ないわ」
エレナは、そう言うようになった。
誰に聞かれたわけでもないのに。まるで、自分自身に言い聞かせるように。
けれど、練習場の端に残る、空いた場所だけが、
何も言わずに、その言葉を否定していた。
サージュが来なくなった。それは事実だった。
そしてそれは、誰も止めず、誰も引き戻さず、ただ日常として受け入れられていった。
この時点で、関係は「冷えた」のではない。終わったのだ。
音もなく、痛みも表に出さないまま。




