エレナ編 第三十五章 エレナの転機① 吐き捨てられた言葉
あの日から、数日が過ぎていた。
エレナの急成長は、家の中でも、稽古場でも、もはや疑いようのない事実として受け止められていた。剣の踏み込みは迷いなく、魔術の発動も安定し、以前のような焦りや空回りは見られない。
それは確かに「乗り越えた」姿だった。
けれど、成長が完全に祝福へと変わったかといえば、そうではなかった。
稽古場に流れる空気が、微妙に変わっていた。
誰かが声に出して指摘するほどではない。剣を振る音も、魔力の波も、すべては整っている。だが、その「整いすぎた」感じが、逆に周囲の感覚を鈍く刺激していた。
セリナは、エレナの背中を見つめながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
以前のエレナは、勝っても負けても、感情が素直に表に出ていた。悔しさも、喜びも、すぐに顔に浮かび、それをどう受け止めるかで成長してきた妹だった。
今のエレナは違う。勝っても、淡々としている。うまくいっても、それを噛みしめる様子がない。
「……落ち着いた、って言えばいいのかしら」
自分に言い聞かせるように、セリナはそう思った。
妹が成長した証だ。焦らず、騒がず、冷静に自分の力を扱えるようになった。それは、剣を学ぶ者として正しい姿でもある。
それでも、胸の奥で、何かが引っかかる。
ルーメンもまた、同じ違和感を抱いていた。
魔術の指導をしながら、エレナの問いかけを聞き、発動の様子を見て、理屈では何も問題がないことを理解している。むしろ、理想的ですらある。
だが、発動のあとに残る静けさが、どこか冷たい。
以前は、魔術を放ったあとのエレナは、必ず兄の方を見ていた。うまくできたか、間違っていなかったか、確かめるように。今は、それがない。
「……自立、なのかな」
そう考えながらも、ルーメンは首を傾げる。
自立にしては、視線が鋭すぎる。目標を見る目が、少しだけ、強すぎる。
サージュは、その変化を言葉にできずにいた。
エレナは変わらず隣にいる。声をかければ答えるし、一緒に剣を交えることも、魔術を放つこともできる。
けれど、稽古の合間に感じる距離が、ほんのわずかに広がっている。
理由は分からない。
ただ、「前と同じ」ではなくなっている。
誰もが、それぞれの立場で、同じ違和感を抱えていた。
しかし、その違和感はまだ小さく、名付けるには早すぎた。
だからこの時点では、誰も止めなかった。
誰も問いたださなかった。
成長の途中で生じる揺らぎだと、そう信じたかった。
その日の稽古は、いつも通り剣術から始まった。
木剣が打ち合わされる乾いた音が、規則正しく庭に響く。
相手はサージュだった。
これまでは互角、あるいはややエレナが劣ることも多かった相手だ。だが最近は違う。動きの速さ、踏み込みの鋭さ、間合いの取り方――すべてにおいて、エレナが一段上にいる。
数合も交えないうちに、それは明確になった。
サージュの剣は、防ぐので精一杯だった。
一歩下がり、受け、体勢を立て直そうとするが、その隙にもう一太刀が来る。
「……っ」
息が上がり、足が遅れる。
最後は、剣先を喉元に突きつけられる形で、勝負は終わった。
「そこまで」
セリナの声がかかり、剣を下ろす。
サージュは肩で息をしながら、その場に膝をついた。
沈黙が落ちる。
いつもなら、ここでエレナは一歩引き、相手を気遣う言葉をかけていた。あるいは、勝てたことにほっとしたような笑みを見せていた。
だが、この日は違った。
エレナは剣を下げたまま、サージュを見下ろした。
その目には、達成感も、喜びもない。あるのは、苛立ちに近い感情だった。
「……ねぇ」
低く、はっきりした声。
「サージュ、練習が足りないのよ」
その言葉に、空気が一瞬凍る。
サージュは顔を上げることができなかった。
何か言おうとして、言葉を探し、でも見つからない。
エレナは続ける。
「全然、相手にならないじゃない。これじゃ練習にならないわ」
それは、無意識に出た言葉ではなかった。
思ったことを、そのまま口にした声だった。
「……もういいわ」
エレナは剣を下ろし、背を向ける。
「今日は帰っていいわよ、サージュ」
吐き捨てるような言い方だった。
その瞬間、誰も動けなかった。
サージュの呼吸が、はっきりと震える。指先が小さく震え、剣を握る力が抜けていく。
セリナは、思わず一歩踏み出していた。
ルーメンもまた、胸の奥で何かが音を立てて崩れるのを感じていた。
これは、勝負の結果ではない。
剣の技量の問題でもない。
言ってはいけない言葉だった。
エレナ自身は、その重さに気づいていないようだった。
ただ、「事実」を述べたつもりでいた。
だがその一言は、確実に均衡を壊した。
これまで積み重ねてきた時間、並んで流した汗、共に笑った日々を、一瞬で切り裂く刃になってしまったことを、エレナはまだ知らない。
その刃が、次に誰に向けられるのか。そして、誰が止めるのか。
それを告げるように、セリナが一歩前へ出た。
エレナの吐き捨てるような言葉が、まだ空気に残っていた。
サージュは俯いたまま、何も言えずにその場に立ち尽くしている。
その様子を見た瞬間、セリナの表情がはっきりと変わった。
怒りというより、もっと深い、失望に近いものだった。
「……エレナ」
低く、鋭い声だった。
剣を振る時と同じ、迷いのない声。
「今、あなたが何を言ったのか、分かっている?」
エレナは腕を組んだまま、視線を逸らさない。
「事実を言っただけよ。勝負なんだから」
その答えに、セリナは一歩前に出た。
「違うわ」
きっぱりと否定する。
「剣術は、相手を打ち負かすためだけのものじゃない。相手を敬い、向き合い、自分を律するためのものよ」
エレナは鼻で笑った。
「敬意? 負けてる相手に?」
その瞬間、セリナの拳が強く握られた。
「……だからこそ、よ」
静かだが、強い声だった。
「相手が弱いと感じた時に、どう振る舞うかで、剣を学ぶ者の本質が出るの。
あなたは今、その一番大切なところを踏み外している」
サージュの肩が小さく震える。
それに気づいても、エレナは目を向けなかった。
「勝てばいい。それが剣でしょ?」
セリナは深く息を吸い、吐いた。
「その考え方のままなら……」
「私は、あなたに剣を教えていいのか、分からなくなる」
その言葉は、宣告ではない。
だが、はっきりとした警告だった。
エレナは一瞬だけ言葉を失い、すぐに強がるように口を開く。
「……何よ、それ」
しかし、セリナの視線は逸れなかった。
剣を学ぶ者として、越えてはいけない線を、今まさに示していた。
セリナの言葉が終わっても、エレナはすぐには何も言わなかった。
けれど、それは反省ではない。
胸の奥で、別の感情が静かに、しかし確実に渦巻いていた。
分からない。どうして、そんなことを言われなきゃいけないの。
エレナは視線を逸らし、唇を噛む。
(私は、ちゃんと強くなった)
(誰よりも練習して、誰よりもできるようになった)
それなのに。
「……剣って、勝つために振るんじゃないの?」
小さく、だがはっきりとした声だった。
セリナは答えない。
それが、余計にエレナの感情を刺激した。
「サージュは、私より弱い。だったら、勝負で負けるのは当たり前じゃない」
言葉が、次第に鋭くなる。
「弱い相手に合わせてたら、強くなれないでしょ。私は、本気でやってるだけよ」
その言い分の中に、悪意はなかった。
だが同時に、思いやりもなかった。
エレナの中では、世界が単純な線で区切られていた。勝つか、負けるか。上か、下か。
そこに「一緒に歩く」という発想は、いつの間にか消えていた。
「私は……」
言いかけて、言葉を止める。
(私は、置いていかれたくない)
(もう、弱いままの自分には戻りたくない)
その恐れが、いつの間にか形を変え、“勝たなければならない”という強迫に変わっていた。
サージュが、震える声で口を開く。
「……エレナちゃん、そんなつもりじゃ……」
だが、その声はエレナには届かなかった。いや、届かないようにしていた。
「本気でやってるだけなのに、どうして責められるの?」
そう言った瞬間、エレナは気づいていなかった。
自分の中で、剣が“証明の道具”に変わってしまっていることに。
セリナは、そんな妹の姿を、黙って見ていた。
怒りよりも先に、確かな危機感を覚えながら。
このままではいけない。剣以前に、何かを失ってしまう。
その思いが、次の行動を決定づけることになる。




