エレナ編 第三十四章 挽回のエレナ③ エレナの急成長
魔術の練習に入ったとき、最初に異変を感じ取ったのは、誰かの言葉ではなかった。音でも、光でもない。空気の密度が、ほんのわずかに変わった。
エレナが詠唱を始めた瞬間、足元の地面に溜まっていた魔力が、以前よりも滑らかに持ち上がる。
引っかかりがない。途中で途切れもしない。
「……」
ルーメンは何も言わず、視線だけで流れを追った。
魔力は足元から身体へ、胸の奥で一度まとまり、そこから腕へと自然に導かれていく。無理に押し出す様子はなく、溢れもしない。
まず、風魔術の初位、ウインドブリーズ。
これまでなら、詠唱が終わっても空気がざわつくだけで終わっていた魔術が、はっきりとした“流れ”として形を成した。
狙った方向へ、狙った強さで、空気が切り分けられる。
次に、癒し魔術、ヒーリング。
淡い光は以前のように散らず、対象の周囲に留まり続ける。
光が薄れるまでの時間も、明らかに伸びていた。
セリナは思わず、息を吸う。
「……安定してる」
声に出す前に、そう感じていた。魔術そのものが、無理なくそこに在る。
ルーメンが短く言う。
「できてるね」
褒める調子でも、驚く調子でもない。事実を確認しただけの声だった。
続いて土魔術の中位、ストーンランチャー。
以前は、出力にばらつきが出ていた魔術だ。だが今は、魔力の量も流れも一定で、過不足がない。地面から立ち上がる土の塊は、形を保ったまま制御されている。
サージュが、その様子を見つめながら小さく声を漏らした。
「エレナちゃん……」
言葉が続かない。驚いているのは確かだが、羨望とも違う。
エレナは振り返り、少し首を傾げた。
「どうしたの?」
問いかけは自然で、取り繕いもない。
できるようになったことを誇る様子も、戸惑う様子も見せない。
「すごいねって、思って」
サージュがそう言うと、エレナは少し考え、曖昧に笑った。
「そうかな」
その反応に、セリナは違和感を覚えた。これまでなら、喜ぶか、照れるか、どちらかは見せていたはずだ。
だが今日は違う。できたことを、ただ「そうなったもの」として受け取っている。
ルーメンは黙ったまま、次の魔術を指示した。
問いはしない。理由を探るのは、今ではない。
確かなのは一つだけだった。
できなかった属性が、確実に埋まり始めている。それも、焦りや力押しではなく、整った形で。
この変化がどこから来たのか。それは、まだ誰にも分からない。
だからこそ、二人は視線を交わさず、静かに次の練習へと進ませた。
剣術の稽古に戻ると、場の空気は少し引き締まった。木剣を手に取ったエレナの構えが、以前よりも低く、安定している。
「次、いくよ」
声は淡々としているが、踏み込みは迷いがない。セリナは自然と距離を取り、受けの姿勢に入った。
剣が打ち合わされる乾いた音が、一定の間隔で続く。一振り一振りに無駄がなく、体重移動も素直だ。
「……そう、そのまま」
セリナは思わず口に出していた。
指示を出す前に、エレナ自身が修正している。
踏み込みが浅ければ、次の一歩で間合いを詰める。
剣筋がわずかにずれれば、手首ではなく体の向きで整える。
「姉ちゃん」
エレナが打ち込みを止めずに言う。
「次は、どの型を意識した方がいい?」
その問いに、セリナは一瞬だけ言葉を失った。
“どれをやるか”ではなく、“どう高めるか”を聞いてきている。
「……じゃあ、陣越型を基準に、流れを切らさないこと」
「わかった」
打ち込みは続き、回数を重ねるごとに動きが鋭くなる。
セリナは受けながら、内心で舌を巻いた。
一方、少し離れた場所で対戦形式に入っていたサージュは、次第に動きが鈍くなっていた。
最初は互角だった間合いが、じわじわと詰められていく。
「……っ」
息が上がる。剣を受ける腕に、重さが残る。
エレナは攻めを緩めない。無理に速くしているわけではないが、リズムが一定で崩れない。
「ごめん、ちょっと……」
サージュは一度剣を下ろし、地面に腰を下ろした。額に汗が滲み、呼吸を整えている。
ルーメンがすぐに声をかける。
「サージュちゃん、大丈夫?」
「あ、はい……大丈夫です。でも、少し疲れました」
その言葉は正直で、無理に取り繕ってはいない。
ルーメンは水を差し出しながら、さりげなく尋ねた。
「最近のエレナ、どう見える?」
サージュは水を飲み、一息ついてから答えた。
「……急に強くなったなって思います。剣術の対戦でも、守るので精一杯で」
言葉を選びながらも、視線はエレナに向けられていた。
「でも、不思議です。前みたいに、力任せじゃないし……ちゃんと考えて動いてる感じがします」
「そうか」
ルーメンはそれ以上、深くは聞かなかった。
セリナの方でも、稽古が一段落していた。
エレナは剣を下ろし、軽く息を整えている。
「姉ちゃん」
呼びかけは、以前よりもはっきりしている。
「どの型も、中位くらいまでできるようになりたい。だから、もっと厳しく教えて」
セリナは一瞬だけ目を見開いた。
呼び方も、言葉の選び方も、少しだけ変わっている。
「……今のままでも、十分きつくなるわよ」
「大丈夫」
短い返事。それ以上の説明はない。
セリナは小さく笑い、剣を構え直した。
「分かったわ。じゃあ、次からは甘くしないから覚悟しなさい」
「うん」
エレナはそれだけ答え、再び構えに入った。
その背中を見ながら、ルーメンは思う。剣術でも、差ははっきりと現れ始めている。
追いついた、というより、追い越し始めた、その途中。
それを自覚しているのかどうかは、まだ分からない。ただ一つ確かなのは、練習の重みが、確実に変わり始めているということだった。
剣術の稽古を終えると、次は魔術の時間だった。場所を少し移し、地面が固く、魔術の衝撃が分かりやすい場所に立つ。
ルーメンは二人を正面に見て言った。
「じゃあ、次は魔術だ。今日は質より量でいこう」
その言葉に、サージュは少しだけ肩をすくめる。
「……量、ですか?」
「うん。中位を安定させるには、まず魔力量を底上げしないといけない。出せるかどうかじゃなく、何回出せるかを見たい」
エレナは迷わず頷いた。
「分かった。どれからやる?」
即座に返ってくる問いに、ルーメンは内心わずかに驚いたが、表情には出さない。
「エレナは土魔術の中位、サージュちゃんは火魔術の中位。
同じ魔術を、繰り返し放つ。限界が来るまで」
「はい」
二人はそれぞれ間合いを取り、詠唱に入る。
地面がわずかに震え、土の塊が形を成す。
続けて、炎が弾けるように放たれた。
一発、二発、三発。
最初の数回は、どちらも安定していた。
だが、五発を超えたあたりから差が見え始める。
サージュの詠唱が、ほんのわずかに遅れる。魔術そのものは出ているが、威力が均一でなくなってきた。
一方、エレナの魔術は、威力そのものは変わらない。しかし、放つたびに呼吸が深くなり、間が短い。
「……まだいける」
ルーメンが止める前に、エレナは次の詠唱に入っていた。
「エレナ、無理は……」
「大丈夫」
短く遮られる。
十発目を超えたところで、サージュの足元が揺れた。
「……っ」
火球が消え、サージュは膝に手をつく。
「ここまで、です……」
息が荒い。魔力切れの兆候だった。
ルーメンはすぐに合図を出す。
「サージュちゃんは休憩。よく頑張った」
「すみません……」
「謝る必要はないよ。普通は、ここまでで十分だから」
そう言ってから、視線をエレナに向ける。
「エレナは、どうする?」
返事は一瞬も迷わなかった。
「まだ、いける」
「……じゃあ、あと三発だけだ」
エレナは頷き、詠唱を続ける。
十一発目、十二発目。
最後の一発は、明らかに重かった。
土の塊が地面に突き刺さり、わずかに土煙が上がる。
詠唱が終わると同時に、エレナは大きく息を吐いた。その場に座り込むことはなく、ただ呼吸を整えている。
「……ここまで」
ルーメンが言う。
エレナは頷き、水を受け取った。
セリナは少し離れた位置で、その様子を見ていた。以前なら、途中で集中が切れていたはずの魔術練習。
今日は、最後まで形が崩れていない。
「魔力量、かなり上がってるわね」
セリナの言葉に、ルーメンも同意する。
「そうだね。無理に引き出してる感じじゃない。自然に底が広がってる」
サージュは水を飲みながら、エレナを見上げた。
「……すごいね、エレナちゃん」
「そう?」
「うん。さっきの、最後のやつ。私なら途中で止まってた」
エレナは少しだけ首を傾げた。
「でも、サージュもちゃんと中位、出せてたよ」
その返しは、特別な意味を持たせない、ごく自然なものだった。
ルーメンはそのやり取りを見て、静かに思う。魔力量も、持久力も、明確に差が出始めている。
それでも、エレナは誇らない。勝った、という態度も見せない。
ただ、次を見据えているだけだ。
この成長が、どこまで続くのか。そして、その先に何が待っているのか。
まだ誰にも、分からなかった。




