エレナ編 第三十四章 挽回のエレナ① 違和感
第三十四章・挽回のエレナ
朝の食卓には、まだ柔らかい陽の光が差し込んでいた。いつもと変わらないはずの時間、いつもと変わらないはずの朝。
けれど、セリナは何となく箸を進める手を止め、ルーメンの方をちらりと見た。
「ねぇ、ルーメン。最近のエレナの魔術、どう?」
唐突とも言える問いかけだったが、その声色には、姉としての気遣いが滲んでいた。
ルーメンは少し考えるように視線を落とし、慎重に言葉を選ぶ。
「教えてはいるよ。でも……なかなか上手くいかないことも多いかな。あんなに一人でも練習してるのにさ」
言葉の最後に、かすかなため息が混じる。努力している姿を知っているからこそ、歯がゆさがあった。
「剣術は?」
ルーメンの問いに、セリナは首を横に振った。
「剣術も同じだわ。基礎はちゃんとしてる。でも……サージュちゃんと比べると、どうしても差が目についてしまうわ」
セリナは小さく唇を噛みしめた。
「妹だから、余計にね。友達にあそこまで先を行かれると……私も悔しいわ」
二人の視線は、まだ姿を見せていない妹の方へと自然に向いた。責める気持ちはない。ただ、心配が先に立つ。
そのとき、廊下の奥から足音が聞こえた。いつもより遅れて、エレナが姿を現す。
その瞬間、セリナとルーメンは同時に、ほんのわずかな違和感を覚えた。
いつもより遅く起きてきたエレナは足音はいつもよりゆっくりで、焦って起きたように服装がやや乱れている。髪も寝起きのままボサボサだ。
視線が落ち着かず、無意識に周囲を見渡す仕草が目についた。
「エレナ、今日は遅かったじゃない」
セリナがそう声をかけると、エレナはぴくりと肩を揺らした。
ほんの一瞬の反応だったが、そのあとすぐに、慣れた笑顔を浮かべる。
「べ、別に何でもないよ。昨日、ちょっと遅くまで練習してたからさ。疲れて寝坊しちゃっただけ」
言葉は途切れず、少し早口で話している。
まるで、それ以上踏み込まれないよう、先回りして説明するかのようだった。
「大丈夫? 無理しなくていいのよ」
セリナは椅子から立ち上がり、エレナの方を見た。叱るでもなく、責めるでもない、いつも通りの優しい声だ。
「うん、大丈夫。ちゃんと気をつけるから」
エレナは何度も頷き、話題を終わらせるように席に着く。
その動きは素早く、迷いがない。
それ以上、何かを言われる前に、この話を終わらせたい。そんな印象を残した。
ルーメンは黙ってその様子を見ていた。
言葉遣いも、態度も、確かにいつものエレナだ。けれど、どこか余裕がなく、会話の隙間を作らない。
食卓には、再び穏やかな朝の空気が戻る。皿の音、会話の切れ端、朝の支度の気配。
それでも、セリナとルーメンの胸の奥には、「何かが少し違う」という感覚だけが、静かに残り続けていた。
エレナはそれ以上、何も語らなかった。そして誰も、それ以上を問いただすことはしなかった。
放課後、いつも通りの場所で剣術の稽古が始まった。土の匂い、踏み固められた地面、木剣が触れ合う乾いた音。何度も繰り返してきた光景だ。
最初は型の確認からだった。厳流型、陣越型、背散型。セリナが一つずつ構えを見せ、エレナとサージュがそれに続く。
「じゃあ、順番に打ち込みね」
エレナが一歩前に出る。構えは安定している。
いつもと同じはずの姿勢だが、セリナはすぐに違いに気づいた。
踏み込みが、迷わない。
今までのエレナは、どこか一瞬だけ躊躇してから足を出していた。
だが今日は違った。合図と同時に、身体が前に出る。
木剣が振り下ろされる。速度はまだ速くない。だが、軸がぶれない。
「……そう、そのまま!」
セリナの声が少しだけ強くなる。
「腰が落ちてない。いいわ、その踏み込み」
エレナは言われた通り、次の動きへ繋げる。剣を振り抜いた後の体勢も崩れない。
「もう一度」
繰り返す。一度、二度、三度。動きが安定していく。
「エレナ、今日はいいわね」
セリナはそう言いながら、位置を変える。
「次は間合いを意識して。相手をよく見て」
エレナは頷くと、セリナの動きをじっと見つめた。
目線が逸れない。剣先だけでなく、肩や足の動きまで追っている。
踏み込み。打ち込み。わずかな修正。
「……できてるじゃない」
セリナの声には、はっきりとした驚きが混じっていた。
サージュも横で目を見張っている。
今まで五分だった打ち合いが、少しずつ変わり始めていた。
「エレナ、さっきより良くなってるよ」
サージュがそう言うと、エレナは短く答えた。
「うん、分かる」
自信満々というわけではない。ただ、手応えを確認するような口調だった。
何度か打ち合いを繰り返した後、セリナは一度稽古を止める。
「今日はここまでにしましょう」
そう言いながら、エレナを見る。
「無理はしてないわよね?」
「うん、大丈夫」
エレナはそう言って、額の汗を拭った。息は乱れているが、表情は落ち着いている。
セリナは何も言わず、ただ頷いた。今日のエレナは、確かに一段階、前に進んでいた。
理由は分からない。だが、その変化だけははっきりと感じられた。
剣術の稽古が終わると、場所を少し移して魔術の練習に入った。
地面にはすでに何度も魔術を放った痕跡が残っている。焦げ跡、砕けた土、踏み固められた足跡。いつもと変わらないはずの光景だった。
「じゃあ、次は魔術ね」
ルーメンがそう言って、エレナとサージュの前に立つ。
声の調子も、説明の内容も、昨日までと同じだ。
「まずは、自分の属性からいこう。ゆっくりでいいよ」
エレナは頷き、小さく息を整えた。詠唱を始める。
「大いなる大地よ、我が呼び声に応え——」
言葉を紡ぎながら、両手を前に出す。その動きが、ルーメンの目に留まった。
以前より、無駄がない。詠唱に合わせて、身体が自然に動いている。
サンドストーンが発動する。土の塊が地面からせり上がり、前方へと放たれた。
「……」
ルーメンはすぐに言葉を挟まなかった。威力が急に上がったわけではない。形も極端に変わったわけではない。
だが、発動の安定感が違う。
「今の、どうだった?」
少し間を置いてから、ルーメンが尋ねる。
エレナは首を傾げる。
「いつもと、同じだと思う」
その答えに、サージュが口を挟む。
「でも、さっきより失敗しなかったよね」
エレナは一瞬考え、ゆっくり頷いた。
「……そうかも」
次はサージュが火魔術を放つ。
こちらも問題なく発動するが、ルーメンの視線は再びエレナに戻っていた。
「エレナ、もう一回やってみよう」
言われた通り、エレナは再度詠唱する。
今度は少し間を置き、言葉一つ一つを確かめるように唱えた。
サンドストーンが発動する。今度も失敗はない。
「今、何か感じた?」
ルーメンの問いに、エレナは少しだけ考え込む。
「……分からない」
正直な答えだった。特別な感覚があったわけではない。
「でも、出しやすかった気はする」
その言葉に、ルーメンは小さく息を吐いた。
「そっか。じゃあ、それでいい」
無理に説明させることはしない。ただ、確実に何かが違っている。
ルーメンはエレナを見ながら、心の中で首を傾げた。昨日まで、同じ説明を何度も繰り返していた。なのに今日は、修正点がほとんど浮かばない。
「今日は、無理に新しいことはやらないでおこう」
そう告げると、エレナとサージュは素直に頷いた。
「基礎を丁寧に続けよう。それで十分だ」
その言葉に、エレナは小さく「うん」と答えた。
表情は落ち着いている。だが、どこか昨日までとは違う静けさがあった。
セリナとルーメンは、互いに視線を交わす。
何が起きているのかは分からない。
ただ一つだけ確かなのは、今日のエレナは、確実に昨日までのエレナとは違う、ということだった。
魔術の練習を一通り終えたあと、四人は自然と小休止に入った。剣を置き、水を飲み、呼吸を整える。
いつもなら、ここで軽い反省や冗談が交わされるのだが、この日は妙に静かだった。
セリナは腕を組み、少し離れた位置からエレナを見ていた。
木陰で水を飲んでいる妹の姿は、いつもと変わらない。けれど、どうしても視線が離れない。
「……ねぇ、ルーメン」
低い声で、セリナが話しかける。エレナとサージュには聞こえない距離だ。
「今日のエレナ、何か変じゃない?」
ルーメンは一瞬だけ考え、首を傾げた。
「変、というより……違和感かな」
「やっぱり?」
セリナは小さく息を吐く。
「剣も魔術も、急に上手くなったって感じじゃないのよ。でもね、動きが整ってる。注意する前に修正できてる」
ルーメンも同意するように頷いた。
「魔術も同じだよ。理解したって顔はしてないのに、感覚が合ってきてる。説明する側としては、正直やりにくい」
「それ、褒めてる?」
「半分はね」
苦笑しながらも、視線は自然とエレナに戻る。
サージュはエレナの隣で座り込み、草を指で弄びながら話しかけていた。
「エレナちゃん、今日は調子いいね」
「そう?」
「うん。なんか、安心して見てられる感じ」
エレナは少し考え、曖昧に笑った。
「……そうかな」
その返事も、どこか落ち着いている。焦りも、落ち込みも見せない。
セリナはその様子を見て、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
これまでのエレナは、もっと分かりやすかった。悔しさも、不安も、全部顔に出ていた。
「ねぇ、エレナ」
セリナが声をかける。
「今日は、無理してない?」
エレナはすぐに首を横に振った。
「してないよ。ちゃんと寝たし、ご飯も食べた」
その答えは、あまりにも整っていた。言葉の選び方も、間も。
ルーメンが補足するように言う。
「体調も問題なさそうだよ。少なくとも、今見える範囲では気になるところはない」
「……そう」
セリナはそれ以上踏み込まなかった。理由を聞いても、答えは返ってこない気がしたからだ。
「じゃあ、今日はこの辺で切り上げましょう」
セリナがそう言うと、エレナとサージュは素直に頷いた。
「明日もあるしね」
その一言に、エレナは一瞬だけ視線を落とし、すぐに顔を上げた。
「うん」
短い返事。それ以上の感情は見せない。
帰り支度をしながら、ルーメンは心の中で呟いた。急成長という言葉では、説明が足りない。停滞を越えた、という感覚とも違う。何かを掴んだ、というより、何かが切り替わった。
その正体は分からない。
ただ、今日のエレナは、確かに一線を越えていた。それが良いことなのか、まだ判断はつかない。だからこそ、二人は黙って見守ることを選んだ。




