エレナ編 第三十二章 エレナのお願い
第三十二章 エレナのお願い
家に帰る道すがら、エレナの胸はずっと落ち着かなかった。
サージュと話して決めた「お願い」を、今日こそ言わなければならない。そう思うだけで、心臓が少し早くなる。
家に着くと、いつも通りの光景が広がっていた。
セリナ姉ちゃんは家事をしていて、ルーメン兄ちゃんは本を読んでいる。変わらない日常。その中に、自分の大切な一言を差し込もうとすることが、エレナにはとても勇気のいることだった。
「……セリナお姉ちゃん、ルーメン兄ちゃん」
声をかけると、二人は同時にこちらを見る。
その視線が優しいことは分かっている。それでも、言葉が喉につかえた。
「えっとね……サージュっていう、エレナのお友達がいるでしょ?」
「この前話してた子ね」とセリナが微笑んで言う。
エレナは小さく頷いた。
本当は、最初から全部言ってしまいたかった。でも、いきなり剣術や魔術の話をする勇気は、まだなかった。
「その子とね……一緒に、遊んでほしいなって思って」
それは表向きのお願い。
でもエレナの胸の奥には、もっと大きな想いが、ぎゅっと詰まっていた。
セリナは少しも迷うことなく、ぱっと表情を明るくした。
「エレナのお友達なら大歓迎よ。いつでもうちに連れてらっしゃい」
その言葉を聞いた瞬間、エレナの胸に張りつめていた緊張が、ふっと緩んだ。
拒まれなかった。それだけで、心の中の重たい石が一つ落ちた気がした。
「その子は、いつがいいって言ってるの?」
セリナの問いかけに、エレナはすぐに答える。
「いつでもいいって言ってるよ」
すると今度は、セリナがルーメンの方を向いた。
「ルーメン、どう?」
突然話を振られたルーメンは、一瞬考える仕草をしてから言った。
「明日はエアリスとミリィと約束してるから……明後日かな」
「じゃあ明後日ね」
セリナはすぐに決めると、エレナに向き直って言った。
「その子に、明後日来てもらうようにしておいて」
「……うん、わかった」
エレナはそう答えながら、胸の奥で小さく息を吸った。
第一段階は、うまくいった。でも、本当のお願いは、まだ先だ。サージュと一緒じゃなきゃ、言えない。二人で並ばなきゃ、きっと声が震えてしまう。エレナはそう思いながら、決意を静かに固めていた。
翌日、学校に着くと、エレナはいつもより少し早足で教室に入った。
サージュの姿を見つけると、席に荷物を置くのもそこそこに、すぐ隣へ向かう。
「サージュ、約束、取れたよ」
声を潜めながらそう言うと、サージュはぱっと顔を輝かせた。
「ほんと?いつ?」
「明後日。お姉ちゃんもお兄ちゃんも、いいって」
その言葉に、サージュは小さく拳を握って頷いた。
「やっぱり優しいんだね、エレナのお姉さんとお兄さん」
少し安心したように笑ってから、サージュはふと真顔になる。
「それで……お願い、どうする?」
その一言で、エレナの胸がきゅっと縮んだ。そこが一番大事で、一番怖いところだった。
「どんなふうに言えばいいかな……」
自分でも弱気だと分かる声で、エレナは尋ねた。
サージュは少し考えてから、はっきりと言った。
「ストレートが一番よ。エレナのお姉さんやお兄さん、優しいんでしょ?だったら、変に隠さないで、ちゃんとお願いした方がいい」
「……ストレート」
「そう。それに、二人揃ってお願いすれば大丈夫。私も一緒に言うから」
その言葉は、不思議と心にすっと染み込んだ。一人じゃない。二人なら、言えるかもしれない。
「……うん。ありがとう、サージュ」
エレナは小さく頷き、胸の奥にあった不安が、少しだけ軽くなるのを感じていた。
約束の日は、思っていたよりも早くやってきた。
授業が終わり、校舎を出た瞬間から、エレナの胸はそわそわと落ち着かなかった。
「緊張してる?」
隣を歩くサージュが、少しだけからかうように聞いてくる。
「……ちょっとだけ」
正直に答えると、サージュは小さく笑った。
「大丈夫よ。私も同じだから」
家に近づくにつれて、エレナの歩幅は無意識のうちに小さくなる。見慣れた家の屋根が見えた瞬間、心臓がどくんと強く鳴った。
「うちは、ここ」
エレナが指さすと、サージュは「立派なお家だね」と小さく声を上げる。
扉を開けると、ちょうど中からセリナが顔を出した。
「おかえり、エレナ。あら、その子がサージュちゃん?」
穏やかな笑顔と柔らかな声。
それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
「こんにちは。エレナと仲良くしてくれてありがとう」
セリナは自然にそう言ってから、二人を家の中へ招き入れる。
「今日は何して遊ぼうか?」
その問いかけに、エレナとサージュは一瞬だけ顔を見合わせた。
ここだ、とエレナは思う。
決めてきた通りに、言わなきゃ。
二人は同時に、きゅっと手を握り合った。
そして、揃って一歩前に出る。
「剣術と魔術を、教えてください」
「お願いします。もっとちゃんとできるようになりたいんです」
声は震えていたけれど、目だけは逸らさなかった。
セリナとルーメンが一瞬だけ顔を見合わせ、ルーメンが静かに頷く。
その仕草を見た瞬間、エレナの胸に、期待と不安が一緒に押し寄せた。
少しの沈黙のあと、セリナはふっと息を吐くように微笑んだ。
叱られるかもしれない、断られるかもしれない――そんな覚悟をしていたエレナにとって、その表情は拍子抜けするほど優しかった。
「……わかったわ」
その一言に、エレナの胸がきゅっと締めつけられる。
「エレナ、サージュちゃん。二人とも、ちゃんと考えてここまで来たのよね」
そう前置きしてから、セリナは少しだけ真剣な声になる。
「だったら、教えてあげる。剣術も、魔術も」
エレナは思わず息を呑み、サージュの手を強く握った。
でも、次に続いた言葉は、浮かれそうになる気持ちを静かに抑え込む。
「ただし、まずは学校で習っている基礎からよ」
セリナは指を立てて言う。
「基礎は地味だし、つまらなく感じるかもしれない。でも、そこができていないと、どんな剣も、どんな魔術も、ちゃんと使えるようにはならないの」
横で聞いていたルーメンも、小さく頷いた。
「魔術も同じだよ。魔力の流れを感じ取ること、姿勢、呼吸、集中。それができて初めて、次に進める」
その言葉は厳しかったけれど、拒絶ではなかった。
むしろ、ちゃんと向き合おうとしてくれているのが伝わってくる。
エレナは一瞬だけサージュを見る。
サージュも、真剣な顔で頷き返してくれた。
「……分かりました」エレナは、はっきりと答える。
「基礎から、ちゃんとやります」
「よろしくお願いします!」
二人の声が重なった瞬間、緊張が弾けるようにほどけた。
セリナはくすっと笑い、
「そんなに改まらなくてもいいのよ。でも、その気持ちは忘れないでね」と言った。
その言葉を聞いたとき、エレナの胸の奥に、温かいものが広がった。やっと、始まるんだ。剣術も、魔術も。そして、自分で前に進むということも。




