エアリス編 第一章⑤ 五歳の祝祭
剣術の稽古でボロボロになった身体を癒やしてくれるのは、母リオラの優しい手と、目に見えない「魔術」の残り香だった。
夕暮れ時、台所で薪を燃やす母の背中には、父とは対照的な、静謐で深い「知」の気配があった。
「ルーメン、お疲れ様。今日も頑張ったわね」
母が俺の額に手をかざす。その瞬間、身体の芯に残っていた重い疲労が、温かな微風にさらわれるように消えていく。癒やしの魔術。
「お母さん……魔術って、どうして使えるの?」
俺の問いに、母は不思議そうに小首を傾げ、それから聖母のような微笑みを浮かべた。
「そうね……。言葉で説明するのは難しいけれど。この世界に満ちている、小さな精霊たちの声を聞くようなものかしら。それとも、自分の中にある温かな泉を、外側に溢れさせるような……」
母は俺の手を取り、そっと胸に当てさせた。
トクン、トクン。
規則正しい鼓動の合間に、何かが流れている。血液よりも速く、神経よりも繊細な、熱い光の奔流。
「誰の心にも、魔力の種はあるのよ。特にルーメン、あなたの中には……お母さんにも見えないくらい、大きくて、綺麗な種が眠っている気がするわ」
母の言葉を聞いた瞬間、脳裏にあの日、白い霧の中で出会った「梅の木」の映像が鮮明に浮かび上がった。
《光花輪廻》。
調律し、再構成する力。
まだ具体的な術の発動方法は分からない。けれど、母の手を通して伝わってくる魔力の感覚を頼りに、俺は自分の中にある「深淵」へと意識を沈めていった。
(……ここにある。僕の、新しい人生の武器が)
掌に意識を集中させると、空気中の魔粒子が吸い寄せられ、指先が微かに白く発光したような気がした。
「あら……」
母が驚いたように目を丸くする。
「ルーメン、あなた、もう魔力を感じ始めているのね。……ふふ、やっぱり、リリィ先生に診てもらうのが楽しみだわ」
リリィ先生。父たちが時折口にする、イーストレイクからやってくるという特級魔術師の名。
その未知の師との出会いを予感し、俺の胸は期待に高鳴った。
そして、ついに待ち望んでいた五歳の誕生日がやってきた。
前世での俺にとって、誕生日は決して幸福な記憶に直結するものではなかった。外の世界の荒波に揉まれ、心身ともに疲れ果てていた俺にとって、それはただ一つ歳を重ね、失われていく時間を数えるだけの日だった。
けれど、ルゼリアで迎えるこの日は、そんな過去の暗い影を根底から粉砕するほどの温もりに満ちていた。
「ルーメン! おめでとう!」
朝、目を覚ました俺を待っていたのは、家族全員の割れんばかりの歓声だった。
食卓には、母が三日前から準備していたという、ルゼリアの山菜と鴨肉の煮込み、焼き立ての芳醇なパン、そして父が特別にイーストレイクから取り寄せたという、甘い蜜を煮詰めたお菓子が並んでいた。
「ほら、ルーメン。これ、俺からのプレゼントだ」
父ランダルが差し出したのは、小ぶりながらも本物の鉄で作られた、鈍い銀光を放つ短剣だった。
「まだ振り回すなよ。これは自分を守るための、お守りだ。お前の成長を、父さんは誇りに思っている」
「父さん……ありがとう」
ずっしりとした金属の重みが、手のひらを通して俺の「覚悟」を定着させる。
「私からは、これ! 頑張って作ったんだからね!」
セリナ姉が手渡してくれたのは、不格好ながらも丁寧に編み込まれた、青い糸のミサンガだった。
「ルーメンが学校で困らないように、私が願いを込めておいたの。最強の守りだよ!」
姉の真っ直ぐな瞳。緋色の髪を揺らして笑うその純粋な祈りが、かつて外の世界で傷ついた俺の心を、優しく包み込んでいく。
「あぅー、うー!」
揺りかごの中でエレナが元気よく手を伸ばし、俺の指をぎゅっと握りしめる。
その小さな手の、命の熱。
(……ああ、幸せだ。本当に、こんなに幸せでいいのか)
視界が不意に潤む。かつての冷たい孤独が、嘘のように遠のいていく。
俺は今、確かにここにいて、誰よりも愛されている。
この光景を守るためなら、俺はどんな過酷な運命とも戦える。そう確信した、一生に一度の夜だった。
11. 未知の門、学校への序章
誕生日が過ぎ、いよいよ翌日から学校が始まるという日の夜。
俺は父と母の会話を、寝室の扉越しに聞いていた。
「ランダル、本当に大丈夫かしら。ルーメン、あんなに大人しい子なのに。上級生たちに目をつけられないか心配で……」
母の不安そうな声。
「案ずるな、リオラ。あいつの根性は俺が鍛えた。それに、あの学校にはセリナもいる。……そういえば、校長からも話があったが、王都の新しい方針で、これからは三歳からの入学が検討されているらしい。エレナの代には、もっと幼い子供たちが入り乱れることになるだろうな」
「三歳……。ますます目が離せなくなるわね。でも、まずは明日のルーメンよ。あの子が、自分の『光』を見つけてくれるといいのだけれど」
(三歳入学……。エレナはそんなに早く親元を離れることになるのか)
この世界の過酷な現実に対応するための早期教育なのだろう。
俺は布団の中で、自分の右手をじっと見つめた。
梅の花が言っていた、世界の歪み。
そして、明日出会うであろう、多くの他者たち。
かつての俺を追い詰めたのは、外の世界の冷酷な関係性だった。
けれど、この世界での俺を支えてくれるのもまた、家族や仲間といった温かな繋がりなのだ。
いじめ、嫉妬、衝突。それらはきっと、この世界にも形を変えて存在するだろう。だが、今の俺には、それらに抗うための「剣」と、癒すための「光」、そして何より、帰るべき「家」がある。
窓の外、ルゼリアの春の夜空には、あの夢の中と同じ、白く輝く梅の花の幻影が揺れているような気がした。
「ルーメン・プラム・ブロッサム。明日から、僕の本当の物語が始まるんだ」
僕は静かに瞳を閉じ、新しい世界への第一歩を、力強く踏み出すための深い眠りへとついた。
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