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ミリィ編 第三十章 ミリィの気持ち

第三十章 ミリィの気持ち


私、ミリィは今、桶に水を張って、誰もいない家で一人ぼーっとしている。家の中は静かで、息をする音まで大きく聞こえる気がする。

窓の外では風が畑を撫でて、遠くで鳥の声がしているのに、この家の中だけ、私だけが取り残されたみたい。


桶の水面は、薄い光を受けて揺れている。昨日までなら、ここに、ルーメンの顔が映っていた。あの優しい笑顔。こっちを見てくれているみたいに、いつも同じ穏やかな目。私はそれを見ているだけで、胸の奥がふわっと温かくなって、ひとりでも大丈夫だって思えていたのに。


なのに、今日は……水面がただの水面のまま。映らない。私の顔がぼんやり映るだけで、ルーメンの輪郭はどこにも浮かばない。私は水面をじっと見つめる。見つめれば見つめるほど、何かが滲んでいって、胸がきゅっと苦しくなる。


ああ、昨日まで、当たり前みたいにそこにいたのに。私は、手を膝の上で握りしめる。指先が少し冷たい。桶の水に指を近づけてみる。水がわずかに波紋を作る。その波紋の中に、もしかしたら、って思ってしまう。


だって、昨日までは、見えたんだから。見えて、私は何度も話しかけて――何度も、何度も、声をかけて。私は小さく息を吸って、言ってしまう。「ねぇ、ルーメン」返事なんてないのに。水面は揺れるだけなのに。それでも口から出てしまう。言わないと、胸の中の寂しさが溢れてしまいそうだから。

私は水面に映らないルーメンに、昨日までみたいに話しかけようとしてしまう。昨日までの癖が、私の心から消えてくれない。昨日までの私は、確かにここで、ひとりじゃなかったのに。


「ねぇ、ルーメン……」もう一度、小さな声で呼んでみる。誰もいない家の中で、自分の声だけが少し遅れて返ってくるみたいで、胸が余計に痛くなる。


前は、呼びかけると、すぐそこにいるみたいな感覚があった。水面越しに、ちゃんと聞いてくれているって、勝手に信じられる安心感があったのに。今は、どんなに見つめても、どんなに呼んでも、ただの水。

私は桶の縁に額がつくくらい近づいて、水面を覗き込む。映るのは、少し困った顔をした私だけ。……変だな。昨日まで、私はこんな顔じゃなかった。もっと、嬉しくて、もっと、浮かれていて、ひとりで笑っていたはずなのに。私は水面に向かって、独り言みたいに話し始めてしまう。


「今日ね、何もなかったよ。畑の手伝いも終わって、今はこうして、ただ座ってるだけ」言葉は水に吸い込まれて、どこにも届かない。それでも止められない。


「学校では、ちゃんと普通に話せたよ。エアリスも一緒で、ルーメンも……いつも通りだった」いつも通り。そう、私はちゃんと、いつも通りのミリィを演じた。笑って、頷いて、友達として距離を保って。


だって、ルーメンが困らないようにしなきゃ、って思ったから。私が前みたいに、泣いたり、すがったりしたら、きっと迷惑をかけてしまう。だから、昨日で終わらせた。終わらせたつもりだった。でも、こうして一人になると、心の中までは、何も終わっていなかったことが、はっきり分かってしまう。「……ねぇ、ルーメン」声が少し震える。水面は何も答えない。ただ、私の声を静かに飲み込むだけ。それが、こんなにも寂しいなんて、昨日までは思いもしなかった。


桶の水に指先をそっと浸す。ひやりとした感触が、思っていたよりも現実的で、胸の奥がきゅっと縮んだ。前は、この冷たさの向こう側に、あたたかいものがあった気がする。


ルーメンの魔力、とか、声、とか、そういう言葉にしてしまうと少し恥ずかしいもの。でも確かに、あの水は、ただの水じゃなかった。「前はね……」と、私は小さく呟く。「前は、ここにルーメンがいたんだよ」水面を指でなぞると、波紋が広がって、すぐに消えてしまう。まるで、私の気持ちそのものみたいだ。広がって、揺れて、でも、何も残らない。


どうして、あんなに安心してたんだろう。どうして、あんなに嬉しかったんだろう。ただ顔が映るだけ。それだけなのに、私は一人じゃないって思えた。誰もいない家で、夜になっても怖くなかった。ルーメンが、そこにいるって思えたから。「……馬鹿だよね、私」苦笑いしながら、水面に映る自分に話しかける。


だって、分かってた。あれは、ずっと続くものじゃないって。ルーメンが優しすぎただけで、私はその優しさに、甘えていただけ。「友達だよ」って言われた時、ちゃんと分かってたはずなのに。胸の奥が、じわっと熱くなる。「それでもさ……」声が少しだけ、強くなる。「それでも、嬉しかったんだよ」ルーメンが水面に映ると、思わず笑ってしまうくらい、私は浮かれていた。


今日の出来事も、明日の予定も、どうでもいいことまで話していた。返事なんてないのに、ちゃんと聞いてくれているって、信じていた。「もう、見えないんだね……」ぽつりと落とした言葉が、桶の中で小さく揺れる。水は、何も映さない。何も返さない。ただ静かに、そこにあるだけ。その静けさが、今は少しだけ、残酷だった。


私は桶の縁に両腕を乗せて、額を少しだけ近づける。水面との距離が、やけに遠く感じた。ほんの少し前までは、もっと近かったはずなのに。距離なんて、意識したこともなかったのに。

「ねぇ、ルーメン……」また、呼んでしまう。返事が来ないと分かっているのに、口が勝手に動く。「今日はね、すごく静かなんだよ。家の中も、外も。音がしないと、余計に寂しくなるんだね」誰に聞かせるでもない独り言が、部屋に落ちて、消える。


前は、その独り言が、水に吸い込まれていく感じがした。吸い込まれて、向こう側に届いているって、勝手に思っていた。「ルーメン、今、何してるんだろう」学校の帰り道かな。それとも、もう家に着いてるのかな。そんなことを考えるだけで、胸が少しだけあたたかくなる。でも、同時に、締め付けられる。

「私ね……」声が、自然と小さくなる。「ちゃんと、分かってるよ。ルーメンは優しいだけ。私のこと、特別だなんて思ってないって」言葉にすると、少しだけ楽になる気がした。認めてしまえば、期待しなくて済むから。でも、本当は、認めたくない。「でもさ……」


私は、水面に映る自分の目を見つめる。「少しくらい、特別だって思っても、よかったよね?」答えは返ってこない。水面は、揺れもせず、ただ私を映しているだけ。前は、その奥に、優しい笑顔があったのに。「欲張りだったのかな」友達でいいって、言ってくれたのに。一緒にいられるだけで、十分なはずだったのに。私は、いつの間にか、それ以上を望んでいた。


桶の水に、ぽたりと一滴、何かが落ちる。自分のものだと気づくまで、少し時間がかかった。「あ……」涙だ。驚くほど、静かに落ちたのに、水面に小さな波紋を作る。「やだな……」私は慌てて目元を拭く。「泣くほどのことじゃないでしょ」そう言い聞かせても、胸の奥の寂しさは、全然言うことを聞いてくれなかった。


私は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。涙のせいで曇った視界の向こうにあるのは、ただの水面。昨日まで、あんなにも当たり前に見えていた光景が、もう戻らない。「……戻らないんだよね」誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。


魔力がどうとか、難しいことは分からない。ただ、もう“見えない”という事実だけが、こんなにも重いなんて思わなかった。「ルーメンは、ちゃんと私のこと考えてくれたんだよね」だから、あの時、優しく手を離してくれた。


だから、みんなで仲良く、なんて言葉を選んでくれた。分かってる。分かってるのに、胸がちくりと痛む。「私が、変だっただけだよね」水に映る自分の顔に向かって、苦笑いを作る。前は、ここに別の顔があったから、自分の表情なんて気にしなかったのに。今は、嫌でも自分と向き合わされる。


「ねぇ、ルーメン」また呼んでしまう。「私さ、あの時間、すごく幸せだったよ」返事はない。でも、言わずにはいられなかった。「何を聞いても、笑ってるだけで答えてくれなかったけど……それでも、同じ時間を過ごしてる気がしてた」水面に向かって話すなんて、今思えばおかしい。でも、その“おかしさ”が、私を支えてくれていた。「もう、誰にも言えないね」この気持ちも、この寂しさも。


学校では、笑っていればいい。ルーメンの前でも、エアリスの前でも、前と同じミリィでいればいい。それが、一番“正しい”。「……正しいって、何だろう」正しいけど、苦しい。正しいけど、寂しい。桶の水を、指先でそっと撫でる。冷たい感触が、現実を突きつける。「触れても、何も起きない」前は、触れなくても、見えていたのに。「ほんとに、終わっちゃったんだね」私は、もう一度深く息を吸った。胸の奥に溜まった想いを、全部吐き出すみたいに。


指先を離すと、水面は小さく揺れて、すぐに静かになった。その様子を見ていると、胸の奥も同じみたいだと思った。ざわついて、期待して、それでも結局は何事もなかったみたいに落ち着いてしまう。「……ねぇ、ルーメン」また呼んでしまう。呼ばないって決めたのに。見えないって分かっているのに。


桶の縁に両腕を乗せて、そこに額を預ける。冷たい木の感触が、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。「前はね、何をしてても、ルーメンがそこにいる気がしてた」ご飯を作る時も、片付けをする時も、眠る前も。声が聞こえなくても、水を覗けば、あの優しい笑顔があった。「一方的だったけど……それでも、独りじゃなかった」


今は違う。家の中は静かで、水はただの水で、私の声は壁に吸い込まれて消えていく。「私、重かったのかな」ふと、そんな考えが浮かんで、慌てて首を振る。「違う、違うよね」ルーメンは、いつも優しかった。困った顔をしながらも、ちゃんと向き合ってくれていた。だからこそ、あの時間は終わったんだと思う。「私が、このままだったら……きっと、もっと困らせちゃってた」そう思うと、胸が締めつけられる。でも同時に、どうしようもなく寂しい。


「好きになっちゃいけなかったのかな」誰に聞いているわけでもないのに、声が震える。「友達でいよう、って……それが一番だって、頭では分かってる」でも、心はそんなに器用じゃない。「水面に映るだけで、あんなに嬉しかったのに」今は、何も映らない。ただ、自分の顔と、歪んだ天井だけ。「もう一度だけ、見えたらいいのに」願うように、そっと囁く。「一瞬でいいから……笑ってくれたら、それで……」言い終わる前に、喉が詰まった。答えが来ないと分かっている願いほど、苦しいものはない。「……ほんと、ばかだな、私」そう言って、苦笑いを作る。でも、その笑顔は、誰にも見せることができなかった。


しばらくそのまま、私は動けずにいた。桶の水はすっかり静まり返っていて、もう揺れることすらない。「……明日になれば、ちゃんと笑えるかな」独り言みたいに呟いて、自分に問いかける。学校に行けば、ルーメンもエアリスもいる。三人で並んで話して、いつも通りの時間が流れる。


それは、きっと幸せなことだ。「それなのに、こんなふうに泣きそうになるなんて」目の奥が熱くなって、慌てて瞬きを繰り返す。泣いたらだめだ。泣いたら、昨日までの“ちゃんとしたミリィ”が壊れてしまう気がした。「私、ちゃんと我慢できてるよね」誰もいない家で、誰に見せるわけでもないのに、背筋を伸ばす。「ルーメンに、迷惑かけてないよね」答えは返ってこない。それでも、聞かずにはいられなかった。


桶の中の水をそっとかき混ぜて、もう一度だけ覗き込む。やっぱり、何も映らない。「……そうだよね」小さく息を吐く。「もう、見えないんだ」その事実を、ゆっくり胸の中に落とし込む。昨日までの特別は終わって、今はただの水と、ただの私だけが残っている。「でも……好きになった気持ちまで、消えるわけじゃないよ」水面に向かって、最後にそう告げた。「だから、しばらくは……こうして話しかけちゃうかもしれない」誰にも聞こえない声で、そっと笑う。「ごめんね、ルーメン。でも、ありがとう」桶から離れて立ち上がると、家の中の静けさが一気に押し寄せてきた。それでも私は、少しだけ背中を伸ばして歩き出す。明日、また会える。その事実だけを、胸の奥に大事に抱えながら。


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