ミリィ編 第二十八章 ミリィとルーメン⑥ ミリィの癒し魔術
ミリィは、エアリスがさっき立っていた位置に、そっと足を運んだ。
「……えっと」
一度、手を胸の前で組みかけて、やめる。深呼吸をひとつ。指先が、ほんの少し震えている。
「大いなる御霊により、このものに、癒しの力と聖なる加護を与えたまえ……」
詠唱の声は、真面目で、少し硬い。
「……キュアヒーリング」
淡い光が、確かに生まれた。けれど、それはすぐに揺らぎ、空気に溶けるように消えてしまう。
「……あれ?」
ミリィは、自分の手を見つめた。
エアリスは首を横に振らない。責める様子もない。
「今のはね、魔力はちゃんと集まってたよ」
そう言ってから、少しだけ言葉を選ぶ。
「でも……誰を癒したいか、が、まだ曖昧だったかな」
ミリィは、はっとして目を伏せた。
「もう一回、やってみます」
今度は、目を閉じる。傷ついてる人。痛くて、不安で。誰かに、大丈夫だよって言ってほしい人。ミリィの胸の奥に、そんな像が、ぼんやりと浮かぶ。
「大いなる御霊により、このものに、癒しの力と聖なる加護を与えたまえ……キュアヒーリング」
光が、さっきよりも少しだけ強く灯った。けれど、まだ足りない。温度が、浅い。
「……どう、ですか?」
不安そうに振り返るミリィに、エアリスは優しく答える。
「前より、ずっといいよ」
その言葉に、ミリィの肩が少しだけ緩む。
「でもね、“治したい”って気持ちが、まだ自分の中で絡まってる」
「絡まってる……?」
俺が、静かに口を挟んだ。
「ミリィ、今は“上手くやらなきゃ”って思ってない?」
ミリィは、図星を突かれたように目を見開いた。
「……思って、ます」
小さな声だった。
「失敗したくないし、エアリスみたいに、ちゃんとしたいし……」
エアリスは、くすっと笑った。
「それ、私も最初は同じだったよ」
そして、ミリィの正面に立つ。
「だからね、今は“成功”を考えなくていい」
「え……?」
「ただ、“その人が楽になりますように”って思うだけでいいの」
ミリィは、ゆっくり頷いた。
三度目の詠唱。
「大いなる御霊により、このものに、癒しの力と聖なる加護を与えたまえ……」
声が、柔らかい。
「……キュアヒーリング」
今度は、光が消えなかった。淡く、しかし確かに、そこに留まり続ける光。
「……っ」
ミリィの目が、大きく見開かれる。
「今の……」
「うん」
エアリスは、はっきりと頷いた。
「今のは、ちゃんと“届いてた”よ」
ミリィは、信じられないものを見るように、自分の手を見つめる。
「……できた?」
「まだ完成形じゃないけど」
エアリスは、にっこり笑った。
「でも、“掴んだ”のは、間違いない」
その言葉を聞いた瞬間、ミリィの胸の奥で、何かがほどけたように見えた。
しばらくの沈黙のあと、ミリィが、ゆっくりと息を吐いた。
「……できたんだ」
呟きは、誰に向けたものでもない。自分自身に確かめるような声だった。
「ミリィ」
エアリスが、少しだけ距離を詰める。
「もう一回、同じ気持ちでやってみよう」
「……はい」
今度は、慌てない。構えも、詠唱の間も、どこか落ち着いている。
「大いなる御霊により、このものに、癒しの力と聖なる加護を与えたまえ……キュアヒーリング」
光は、さっきよりも迷いがなかった。揺れは小さく、まるで呼吸をするみたいに、静かに脈打っている。
「……!」
ミリィの唇が、震えた。
「今度は……ちゃんと、出てます」
エアリスは頷く。
「うん。もう“ヒーリングの延長”じゃない」
その言葉に、ミリィの目が潤む。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「エアリスも……ルーメンも」
俺は、少しだけ照れながら言った。
「ミリィは、魔力の扱いがすごく丁寧だよ」
「え……?」
「力任せに押さないし、ちゃんと流れを感じてる」
ミリィは、きょとんとした顔をしてから、少し照れたように笑った。
「……ルーメン先生に、そう言ってもらえると、嬉しいです」
その言い方に、胸の奥が、わずかにざわつく。
エアリスも、それに気づいたのか、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「でもね」
エアリスが、場の空気を戻すように続ける。
「今日は、ここまでにしよう」
「え?」
「キュアヒーリングを掴めただけでも、十分すぎる成果だよ」
ミリィは名残惜しそうに、自分の手を見下ろした。
「……はい」
それでも、顔は晴れている。
「私、ちゃんと前に進めてますよね」
「うん」
「ちゃんと、進んでる」
俺も頷く。
「それも、自分の力で」
ミリィは、その言葉を噛みしめるように、静かに微笑んだ。この瞬間だけ見れば、本当に、ただの“成長の喜び”だ。
けれど、その喜びの奥に、俺は、かすかな“偏り”を感じていた。
ミリィの視線が、自然と俺に戻ってくる、その癖。それを、エアリスも、きっと感じている。同じ場所に立ちながら、同じ喜びを共有しながら。俺たち三人の温度は、ほんのわずかに、ずれ始めていた。
少しの休憩を挟み、丘の上を吹き抜ける風が、汗を冷ましていく。
空は高く、雲の流れもゆっくりだ。
「……じゃあ」
俺は、意識して声の調子を落とした。
「次は、上位の癒し魔術、ブライトヒーリングについて話そうか」
ミリィの表情が、引き締まる。エアリスも、自然と背筋を伸ばした。
「分かってると思うけど」
そう前置きしてから、言葉を選ぶ。
「上位は、中位とは別物だ。魔力の量も、集中も、それに、責任も」
「責任……?」
ミリィが小さく復唱する。
「癒しは、上にいけば行くほど、相手の体の深くまで触れる魔術だ、そして、そのタイミングを逃すと、取り返しのつかないことになる」
言葉にしながら、俺自身の胸にも重さが落ちる。
「だから、上位になるほど、使う側の覚悟が問われる」
エアリスが、静かに頷いた。
「キュアヒーリングまでは、“治してあげたい”って気持ちで届く」
「でも、ブライトヒーリングは違う」
「相手の痛みも、恐怖も、全部受け止めるつもりで踏み込まないと、魔力が拒絶される」
ミリィは、無意識に胸元に手を当てた。
「……怖いですね」
その一言が、正直だった。
「うん」
俺は否定しない。
「正直、怖い」
一瞬、沈黙が落ちる。
丘の草が、風に擦れる音だけが聞こえた。
ミリィが顔を上げる。
「それでも……知りたいです」
その瞳は、真っ直ぐだった。
「上位を使えるようになりたい、っていうより……」
少し言葉を探してから、続ける。
「ちゃんと、誰かを守れる癒しを使いたい」
エアリスが、驚いたように目を瞬かせる。
「ミリィ……」
俺は、息を整えた。
この先は、“教える”という言葉だけでは済まない。
「いいよ」
短く、でもはっきり言う。
「ただし、無理はしない。今日は“見る”ところまでだ」
ミリィは、少し残念そうにしながらも、頷いた。
「はい。ちゃんと、見ます」
俺は、ゆっくりと立ち上がる。
胸の奥で、魔力が静かに集まり始めるのを感じながら。
その重さを、二人に、そして俺自身に、きちんと伝えるために。俺は一歩、前に出た
「じゃあ、よく見てて」
二人にそう告げて、ゆっくりと目を閉じる。
呼吸を整え、魔力の流れを意識の奥で辿る。
キュアヒーリングの時よりも、さらに深く、さらに慎重に。
「大いなる神の力よ」
声を出した瞬間、
周囲の空気が、ふっと沈んだ。
「魂の癒しを与え、聖なる加護の力をこの御霊に授けたまえ……」
詠唱に合わせて、胸の内側から、柔らかく、しかし圧倒的な光が溢れ出す。
「ブライトヒーリング」
光は、爆発するようには広がらない。
代わりに、静かで、深く、包み込むように場を満たしていく。温かいのに、触れれば溶けてしまいそうなほど繊細で。
エアリスが、思わず息を呑む。
「……すごい……」
ミリィは、声も出せずに立ち尽くしていた。
光の中で、彼女の瞳が揺れているのが分かる。
憧れ。安心。そして、ほんのわずかな、不安と焦り。
「……ルーメン先生……」
小さく、呟くような声。
その声に、俺の胸が、きゅっと締め付けられる。
光が消え、丘は元の静けさを取り戻した。
「どう?」
俺は、振り返って二人を見る。
エアリスは、しばらく考え込むようにしてから言った。
「発動した瞬間、一気に癒しの魔力が放出されたのが分かった。キュアヒーリングとは、流れも、重さも、全然違うね……」
ミリィは、両手を胸の前で握りしめている。
「……圧倒されました」
その声は、震えていた。
「すごく、優しくて……でも、近づきすぎたら、全部持っていかれそうで……」
俺は、静かに頷く。
「それが、上位だ」
ミリィは、少し間を置いてから、顔を上げた。
その瞳には、尊敬と同時に、強い想いが、はっきりと浮かんでいた。
「ルーメン先生……ミリィ、水魔術の上位までは使えるようにしてもらいましたけど」
言葉を区切り、覚悟を込める。
「適性のない属性の上位は、こんなにも違うんですね……」
「でも、ルーメン先生のご指導なら……ミリィ、必ず期待に応えたいです」
その言葉に、俺は一瞬、視線を逸らした。胸の奥で、小さな違和感が揺れる。今の言葉は、“魔術”に向けられたものなのか。
それとも。上位の光は、ただ癒すだけじゃない。人の心を、強く引き寄せてしまう。そのことを、ミリィ自身が、どこまで自覚しているのか。俺は、ゆっくりと息を吐いた。




