ミリィ編 第二十八章 ミリィとルーメン⑤ 三人で丘へ
放課後の鐘が鳴り、教室が一斉にざわめき出す。椅子が引かれる音、笑い声、廊下へ流れていく足音。その中で、俺は一度、深く息を吐いた。
(……ここからだ)
昼食は、三人で簡単に済ませた。特別な会話はしない。必要以上に踏み込まず、けれど距離を取りすぎない。
エアリスが、意識的にその空気を作ってくれているのが分かる。
「じゃあ、行こっか」
そう言って立ち上がったエアリスの声は、いつも通り明るくて、自然だった。
丘へ向かう道。学校を離れるにつれて、音が変わっていく。子どもたちの声が遠ざかり、代わりに、風が草を揺らす音が聞こえてくる。
足元の土は柔らかく、三人分の足音が、ゆっくりと重なっていた。ミリィは、少しだけ前を歩く。振り返りながら、時々こちらを確認するように。エアリスは、俺の隣。歩調を合わせ、何も言わずに。
空は高く、雲はゆっくり流れている。昨日までと同じ景色のはずなのに、胸の奥では、別の時間が進んでいるような感覚があった。
(……普段通りに、話せるだろうか)
丘に近づくにつれて、風が少し強くなる。草の匂いが濃くなり、視界が開けていく。いつも三人で来ていた場所。特別でも、危険でもない、ただの丘。
だからこそ、ここで、いつものように過ごせるかどうかが、大事だった。
「ここで、いいよね」
エアリスが立ち止まり、そう言った。
「うん」
ミリィも頷く。三人で、丘の中央へ向かう。足音が止まり、風だけが、三人の間を通り抜けていった。
(……まずは、普段通り)
俺は、そう自分に言い聞かせた。
ここから先は、焦らず、急がず、でも、目を逸らさずに進まなければならない。
丘の上は、いつもより静かだった。遠くで鳥の鳴き声がして、風が草を撫でていく。
三人で腰を下ろす。並びは、自然といつも通りになった。
ミリィが少し弾んだ声で言う。
「今日はね、授業、ちょっと眠かったの」
「珍しいね」
エアリスが笑う。
「うん、昨日あんまり眠れなくて」
その言葉に、俺の胸が小さく揺れた。けれど、ミリィはすぐに話題を変える。
「でも、算数はちゃんとできたよ。先生にも褒められたし」
「それはすごいね」
「でしょ?」
得意げに笑うその顔は、少し前までと変わらない、いつものミリィだった。
エアリスが、わざと軽い調子で続ける。
「私はね、今日の剣術の型、ちょっとだけ上手くいったんだ」
「ほんと?」
「ほんと。セリナさんみたいには、まだまだだけどね」
三人で、小さく笑う。
他愛もない話。学校のこと、授業のこと、昨日の出来事。
意識して、“普通”を積み重ねていく。今は、それでいい。俺はそう思った。
ミリィも、無理に距離を詰めてくることはなかった。エアリスも、間に入りすぎず、離れすぎず。
丘の上の空気は、穏やかだった。それでも、ミリィの視線が、時折、俺に向けられる。
長くは続かない。けれど、確かに、そこに“重さ”がある。
(……気づかないふりは、できないな)
エアリスも、それを感じ取っているのだろう。何気ない話の合間に、さりげなくミリィへ話題を振る。
「ミリィ、最近、水魔術はどう?」
その一言で、ミリィの表情が、少しだけ変わった。期待と、迷いと、それから、どこか切実なもの。
「……うん。頑張ってるよ」
その声は、明るさを装っていた。
丘を渡る風が、一段強くなる。草が揺れ、三人の影が重なって、また離れた。
(……そろそろ、だな)
雑談の時間は、終わりに近づいている。
少しの沈黙のあと、ミリィが草の先を指でいじりながら、ぽつりと言った。
「ねえ……ルーメン」
「なに?」
「他の魔術も、できるようになりたいなって思って」
その声は、控えめで、慎重だった。さっきまでの弾む調子とは、明らかに違う。
エアリスが何も言わずに、ミリィの方を見る。ミリィは一度だけ息を吸い、続けた。
「水魔術も楽しいけど……それだけじゃ、足りない気がして」
足りない。その言葉が、胸に引っかかる。
「足りないって?」
俺が聞くと、ミリィは少し考えるように視線を落とした。
「うまく言えないけど……誰かの役に立ってる、って実感が欲しいの」
その瞬間、ただの“向上心”じゃない、と分かった。
「水ってね、すごい力だと思うの。でも……誰かが泣いてる時に、私は水を出すことしかできない」
ミリィの声は、静かだった。
「痛いって言ってる人に、“大丈夫だよ”って言ってあげられる力が、欲しいの」
エアリスが、ゆっくりと頷く。
「……癒し、だね」
「うん」
ミリィは、はっきりと頷いた。
「今は……癒しが、欲しい」
その言葉には、誰かを救いたい、という気持ちと同時に、自分自身が“癒されたい”という響きが混じっていた。
(……やっぱり)
俺は胸の奥で、そう思う。魔術の話をしているようで、これは、ミリィの心の話だ。
「癒し魔術はね」
エアリスが、優しい声で言った。
「自分だけの力じゃないんだよ。相手の傷や痛みを、ちゃんと感じ取らないといけない」
ミリィは、その言葉を逃さないように聞いている。
「だから……少し、難しい」
「それでも、やってみたい」
ミリィは顔を上げ、真っ直ぐに俺を見る。
「ルーメンに教えてもらった水魔術みたいに、ちゃんと向き合って、できるようになりたい」
その瞳には、焦りと、期待と、そして強い渇きがあった。
(……この“欲しさ”が、今のミリィを突き動かしてる)
癒しを求める気持ちは、誰かを救いたい心と、自分が救われたい心が、重なったものだ。俺は、エアリスの方を見る。エアリスは、小さく頷いた。
「……じゃあ」
ここから先は、“魔術の練習”という形を取りながら、ミリィの心に触れる時間になる。そう、はっきり分かっていた。
ミリィの言葉を受けて、俺は一瞬だけ考え、そして静かに口を開いた。
「じゃあ、癒し魔術は……エアリスに教えてもらおう」
ミリィは、少し意外そうに目を瞬かせた。
「え……? ルーメンが……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
その反応を見て、俺はすぐに続けた。
「ミリィ、誤解しないで。僕が教えたくないわけじゃないんだ」
エアリスも、自然に会話に加わる。
「癒し魔術ってね、ただ魔力を流して、傷を消す魔術じゃないの」
ミリィは、真剣な表情でエアリスを見る。
「相手がどこを痛がってるのか、どんなふうに怖がってるのか、それをちゃんと想像できないと、力が乗らない」
エアリスの声は、穏やかで、でも確信に満ちていた。
「私はね、ルーメンみたいに魔力量が多いわけじゃないし、上位の癒し魔術も、まだ完璧じゃない、でも、その分、“相手の気持ちに寄り添う”ことだけは、ずっと考えてきたつもり」
その言葉に、ミリィは小さく頷いた。
「……そう、なんですね」
「うん」
エアリスは、柔らかく微笑む。
「だから最初は、私のやり方を見てほしいなって思う」
俺も続ける。
「ミリィ、癒し魔術はね、“誰かを治したい”って気持ちが、そのまま魔術の形になるんだ」
ミリィは、ぎゅっと手を握りしめた。
「……私、ちゃんとできるかな」
その不安は、技術の問題じゃない。自分が、誰かの痛みに触れていいのか、という迷いだ。
エアリスは、そっと一歩近づいた。
「大丈夫。できるかどうかじゃなくて、“向き合おうとするかどうか”だから」
その一言で、ミリィの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「じゃあ……まずは中位の癒し魔術、キュアヒーリングからだね」
俺がそう告げると、丘を吹き抜ける風が、三人の間を静かに通り抜けていった。
エアリスは、ゆっくりと深呼吸をした。丘の上は静かで、風が草を撫でる音だけが、微かに耳に届く。
「……じゃあ、見ててね、ミリィ」
そう言って、エアリスは自分の両手を胸の前で重ねた。その仕草は、戦闘用の魔術を構える時とはまるで違う。力を集めるというより、何かを“抱きしめる”ような動きだった。
「癒し魔術はね、まず相手を“治す対象”として見ないことから始まるんだよ」
ミリィは、息を呑んで見つめている。
「痛いところがある人、怖がっている人、不安で泣きたくなってる人……」
エアリスの声は、まるで昔話を語るように静かだった。
「その人が、今どんな気持ちなのかを、自分の中にそっと入れてあげる」
俺は、その言葉を聞きながら、これまでエアリスが施してきた癒し魔術の光景を思い出していた。派手さはない。けれど、いつも確実に、相手の心まで落ち着かせていた。
エアリスは目を閉じる。
「大いなる御霊により、このものに、癒しの力と聖なる加護を与えたまえ……」
詠唱は、丁寧で、急がない。
「……キュアヒーリング」
淡い光が、エアリスの手のひらから広がった。眩しすぎない、温度のある光。それは、傷を“消す”というより、痛みを「もう大丈夫だよ」と包み込むような光だった。
ミリィの喉が、小さく鳴る。
「……すごい」
その声には、驚きだけじゃない。胸を打たれたような、かすかな震えが混じっていた。
「ヒーリングより……ずっと、深い感じがします」
エアリスは、ゆっくり目を開けて頷いた。
「うん。キュアヒーリングは、体だけじゃなくて、心にも触れる魔術だから」
そして、ミリィの方を見て、優しく続ける。
「だからね、“上手くやろう”って思わなくていい」
ミリィは、思わず背筋を伸ばした。
「“治してあげたい”って気持ちを、ちゃんとそのまま魔力に乗せてあげて」
一瞬、ミリィの表情が揺れた。
治したい。守りたい。役に立ちたい。
それらの感情が、胸の奥で絡まり合っているのが、見ているこちらにも分かるほどだった。
「……わかりました」
ミリィは、強く頷いた。
「エアリスのやり方、ちゃんと覚えます」
その声には、これまでの“教わる側”の遠慮が、ほとんど残っていなかった。
エアリスは、少し照れたように笑った。
「じゃあ次は、ミリィがやってみようか」
丘の空気が、ほんの少しだけ張り詰める。
ここからが、ミリィ自身が“誰かを想う力”を、魔術として形にできるかどうかの、最初の一歩だった。




