ミリィ編 第二十八章 ミリィとルーメン③ 朝、学校で
朝の光が、いつもと同じように部屋に差し込んできた。目は覚めた。けれど、眠った気がしない。
体を起こすと、胸の奥に残ったままの重さが、そのまま付いてきた。声は、今は聞こえない。それが逆に、不安だった。
(……一時的に、静かになってるだけだ)
着替えを済ませて居間に行くと、母さんが朝食の準備をしていて、セリナ姉はもう剣の手入れをしていた。
「おはよう、ルーメン」
いつも通りの声。いつも通りの朝。
「……おはよう」
返事をしながら、自分の声が少し遅れたのが分かった。エレナは眠そうな目で椅子に座り、「今日は何するの?」なんて、無邪気に聞いてくる。
(何も知らない……)
この空気の中に、昨夜の“声”は、どこにも存在しない。それが、ひどく遠く感じた。
朝食を口に運ぶ。スープの湯気が立ち上る。一瞬、喉が渇く感覚が走り、反射的にコップへ視線が向いた。
(……だめだ)
何も映っていない。何も聞こえない。それでも、頭のどこかで、「水」に意識が引き寄せられてしまう。
「ルーメン、ぼーっとしてどうした?」
セリナ姉の声に、はっとする。
「あ、ううん……ちょっと眠くて」
嘘ではない。けれど、本当でもない。
エレナはそんなことお構いなしに、「早く学校行こ!」と元気に立ち上がった。
こうして、兄弟3人で並んで家を出る。毎日、何度も歩いてきた道。見慣れた景色。なのに。
(……昨日までの“いつも”が、もう遠い)
足を進めながら、俺は無意識に、川の方角を意識していた。まだ声は聞こえない。けれど、それは嵐の前の静けさのようで。
(今日は……)
今日こそ、向き合わなきゃいけない。そう思いながら、俺は学校へ向かって歩き続けた。
家から少し歩くと、道はゆるやかに川沿いへと近づいていく。朝の川は静かだった。水面は風もなく、淡い光を反射している。
そのはずだった。
(……来る)
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。喉の奥が乾き、耳の奥が微かに疼いた。
次の瞬間だった。
――ルーメン
最初は、遠い。水の底から、泡がひとつ浮かび上がるような、かすれた声。
(っ……)
足が、ほんの一瞬だけ止まりそうになる。
――ルーメン……寝坊しちゃった
さっきより、はっきりしている。声の輪郭が、水面に波紋を描くように広がっていく。セリナ姉とエレナは、何も気づかず前を歩いている。楽しそうに、学校の話をしていた。
(聞こえてるのは……俺だけ)
川を流れる水が、まるで意志を持ったかのように、こちらを見つめ返してくる。
――ルーメン、早く
声が、続こうとして俺はぐっと歯を噛みしめた。
(だめだ、今は……)
視線を川から逸らし、歩幅を無理やり合わせる。だが、声は止まらない。
――ルーメン、早く……会いたい……
水の揺らぎと一緒に、その言葉が胸の内側に直接染み込んでくる。ただの音じゃない。感情が、そのまま流れ込んでくる。
焦り。期待。寂しさ。そして強すぎるほどの、真っ直ぐな想い。
(……昨日より、はっきりしてる)
昨日は、ただ名前を呼ばれるだけだった。それが今は、言葉になり、気持ちになり、重さを持っている。
歩くたびに、川の流れと、俺の心拍が、妙に同期していく感覚があった。
(このままだと……)
声は、川沿いを抜けるまで続いた。距離が離れるにつれて、少しずつ薄れていく。
やがて、学校の門が見える頃には、ようやく完全に消えた。何事もなかったかのように。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
エレナが振り返って聞いてくる。
「……ううん、なんでもないよ」
そう答えながら、俺は胸の奥に残った重みを、そっと抱えたまま歩いた。
(想いが……強くなってる)
確実に、昨日よりも。早急に、向き合わないといけない。そう強く思いながら、俺は校舎の中へ足を踏み入れた。
教室に入ると、いつもと同じ朝の空気があった。机を引く音、誰かの笑い声、窓から差し込む柔らかな光。
席に着こうとした、その瞬間。
「おはよう、ルーメン!」
勢いよく声をかけられ、思わず肩が跳ねる。
振り向くと、そこにはミリィがいた。息を少し弾ませ、期待を隠しきれない笑顔で、こちらを見上げている。
「今日は遊べるよね?またルーメンに魔術、教えてほしいな」
その声は、明るく、無邪気で、周囲の誰が聞いても“普通の友達の会話”にしか聞こえない。
「……そうだね。約束したもんね。今日は大丈夫だよ」
そう答えると、ミリィはぱっと表情を輝かせた。
「やったー!」
小さく拳を握りしめる仕草が、あまりにも嬉しそうで、胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
(……頭の中に入ってくるの声と、同じ人とは思えない)
水を介して聞こえてきた、あの切実な声。川辺で感じた、あの重たい想い。
それらは、今目の前にいるミリィの笑顔の下に、綺麗に折り畳まれて隠されている。
「ねぇねぇ、ルーメン」
ミリィは、少し身を乗り出して、声を落とした。
「昨日ね……」
その言葉に、俺の心臓がわずかに強く打つ。
(来る……)
だが、その先を言う前に、教室の奥から別の声が聞こえた。
「ルーメン」
エアリスだった。
ちょうどこちらへ歩いてきていて、自然な流れで、ミリィと俺の間に立つ。
「おはよう、ミリィ」
「おはよう、エアリス」
二人は笑顔で挨拶を交わす。そのやり取りは、何もおかしくない。
それでも、エアリスの視線が、一瞬だけ俺に向けられた。問いかけるような、確かめるような眼差し。
(……気づいてる)
少なくとも、何かがおかしいことには。
「先生来るよ」
エアリスがそう言うと、ミリィは名残惜しそうに一歩下がった。
「また休み時間ね、ルーメン」
「うん、またあとで」
ミリィはそう言って、自分の席へ戻っていく。
その背中を見送りながら、俺は、胸の奥で静かに思った。
(普通の会話のままじゃ……もう、いられない)
ミリィの中で、何かが確実に膨らんでいる。
それを見ないふりは、もうできなかった。




