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ミリィ編 第二十八章 ミリィとルーメン② 前日の夜

家に入ると、いつもと変わらない匂いと空気が広がっていた。母さんの足音、奥の部屋から聞こえるエレナの笑い声。それらが、今日も世界は正常だと主張しているみたいで、少しだけ胸が痛む。

靴を脱ぎ、手を洗い、台所へ向かう。喉が渇いていたわけじゃない。


ただ、無意識に、そこにあったコップに手が伸びただけだった。水を注ぎ、光に透かすように一瞬だけ眺める。

何も、起きない。そう思った瞬間、コップを口に運んだ。

――ルーメンおかえり

ごく短い、囁くような声。耳ではなく、頭の内側に直接触れてくる感覚。思わず手が止まり、水面が小さく揺れた。

(……また、だ)


昨日までは、この声はただ名前を呼ぶだけだった。単語一つ、呼びかけ一つ。それだけなら、まだ「錯覚だ」と言い聞かせる余地もあった。だが

――ルーメン会いたいな

今度は、ほんの少しだけ、長い。呼ぶ音に、間があり、余韻がある。

水を飲み込むと、喉を通る冷たさと同時に、胸の奥がざわついた。

(家の中だぞ……)

周囲を見回す。誰もこちらを見ていない。誰にも、聞こえていない。


コップの底に残った水面が、微かに揺れている。

――ルーメン……早く……会いたい

今度は、はっきりと“言葉”になりかけていた。名前のあとに、気配のような感情がまとわりつく。

焦り。寂しさ。そして、強い“会いたい”という想い。

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

(短く……ない)

昨日は、ここまでじゃなかった。確実に、何かが進んでいる。

コップを置こうとして、手がわずかに震える。水面に映った自分の顔が、歪んで見えた。

「……っ」


慌てて視線を逸らし、コップを流しに置く。水を捨てる気にはなれなかった。捨ててしまえば、何か取り返しのつかないことが起きる気がしたから。

(悪化してる……)

はっきりと、そう理解する。

声はまだ続いていた。今は、もう単なる呼び声じゃない。言葉になろうとする“途中”の、感情そのものだ。

家族の声がすぐそばにあるこの場所で、誰にも気づかれず、確実に進行していく異変。

俺は静かに息を整えながら、心の中で繰り返した。

(……明日だ)

明日、必ず向き合う。エアリスと一緒に、三人で。

そう決めていないと、この水の中から聞こえてくる声に、今にも引きずられてしまいそうだった。


夕食の時間になると、家の中は一気に賑やかになった。父さんの低い声、母さんの穏やかな呼びかけ、エレナの楽しそうな笑い声。いつもと何一つ変わらない、ありふれた家族の光景。食卓に並ぶ料理の湯気が立ち上り、木の皿がかすかに触れ合う音がする。

それだけで、心が少し落ち着くはずだった。

「ルーメン、ちゃんと手洗った?」

「うん」

短く答えながら席につく。声が震えていないか、無意識に気をつけていた。

水差しが目に入る。透明なガラス越しに、揺れない水面。

(……大丈夫だ)

そう思って、何気なくコップに水を注ぐ。音を立てて満ちていく水を見ている間、胸の奥がひやりとした。

誰かに見られているわけでもないのに、家族の前で“普通”でいなければならないことが、急に重くのしかかる。

「いただきます」

皆の声に合わせて手を合わせる。その仕草一つ一つが、演技みたいに感じられた。


料理を口に運び、水を一口。

――ルーメン、美味しい?

やっぱりきた。俺は水が気管に入ってしまい、むせる。

――ルーメン、大丈夫?

どこか申し訳なさの残る声、はっきりとした声だった

監視されているかのような言葉。胸の奥に直接触れてくる、温度のある気配。

(……くるな)

思わず、コップを置く音が少しだけ大きくなった。

「どうしたの?」

母さんが、首を傾げる。

「……なんでもない」


そう答えるとき、笑顔を作るのに、いつもより力が必要だった。家族は、何も気づいていない。気づくはずもない。水面は、静かだ。揺れてすらいない。

それなのにまた内側で響く

――ルーメン、寂しいな

名前を呼ぶだけだったはずの“それ”は、今や確実に、感情を伴っていた。

(このままじゃ……)

食卓に広がる温かな空気の中で、自分だけが異質な場所に立たされている感覚。

いつもの日常を壊したくない。家族には、何も悟らせたくない。だから、俺は黙って食事を続けた。胸の奥で広がるざわめきを、必死に押し殺しながら。

平穏な時間は、こうして何事もなく流れていく。ただし、表面上は。

だが、水を介して伝わってくる“想い”は、確実に、静かに、深く、俺の中に染み込んでいっていた。


夜になり、家の灯りが一つ、また一つと消えていった。エレナの寝息が聞こえ、廊下を歩く足音も遠ざかる。俺は布団に横になり、天井を見つめていた。


静かだ。あまりにも、静かすぎる。

(……今日は、もう大丈夫か)

そう思った瞬間だった。

――ルーメン、もう寝た?

今度は、はっきりと“声”だった。耳ではなく、頭の奥で響く。布団の中で、思わず体が強張る。

――ルーメン、お話したいな

間隔が短い。呼び方も、さっきより近い。

(まずい……)

目を閉じても、消えない。むしろ、閉じた方が強くなる。水を介している、という理屈は分かっている。けれど、今この瞬間は理屈なんて役に立たなかった。

喉が渇いた、と感じる前に、“水”の存在そのものが、頭から離れない。


洗面所の水。風呂場の水。台所の水差し。家の中の、あらゆる場所に水がある。

――ルーメン……早く……会いたい

言葉はまだ、短い。けれど、そこに滲む感情は、はっきりと伝わってくる。

寂しさ。不安。そして、強すぎるほどの求める気持ち。

(これは……)

布団の中で、拳を握る。


俺がやったことだ。ミリィの体に、俺の魔力を流し込んだ。あの時は、助けるためだった。でも、その“代わり”に、こんな形で繋がってしまうなんて。

――ルーメン、明日だよね

声は、さっきよりも長く、さっきよりも、話しかけるようになっていた。

(止まらない……)

胸の奥が、じわじわと締めつけられる。眠ろうとしても、意識が引き戻される。逃げ場がない。水のない場所なんて、この家にはない。

(早く……どうにかしないと)


エアリスの顔が、自然と浮かぶ。明日、必ず一緒に来てもらう。

このままじゃ、ミリィも、俺も、どこか壊れてしまう。

――ルーメン、明日会えるよね

声は、今も続いている。静かな夜の中で、確実に、増幅しながら。俺は目を閉じたまま、朝が来るのを、ただ待つしかなかった。


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