ミリィ編 第二十八章 ミリィとルーメン① 夕暮れの帰り道
第二十八章 ミリィとルーメン
夕暮れの道は、昼間の熱をようやく手放し始めていた。土の匂いが少し濃くなって、遠くの畑からは草を刈ったあとの青い香りが漂ってくる。歩くたびに靴底が小石を弾き、規則正しい音が二つ分、並んで続いた。
エアリスはいつも通りの速度で隣を歩いている。けれど俺の方は、足が地面を踏む感覚がどこか薄い。頭の中が、まだ整理できていないものだらけだったからだ。
水に、声が混ざる。ミリィの声が、俺の名前を呼ぶ。
考えるだけで胸の奥がひやりとして、同時に、あの時の自分の判断が痛いほど思い出される。やってはいけないことを、やった。助けたい気持ちがあったのは本当だ。でも、結果がこれだ。
「……ルーメン?」
エアリスが小さく呼ぶ。
心配そうな目。今日の丘でのやり取りを、まだそのまま抱えている目。
「ごめん。考え事してた」
「うん。……そりゃ、するよね」
短い会話が、妙に現実的で、逆に胸を締めつけた。
家の近くまで来ると、見慣れた道が視界に増えていく。家々の屋根、庭の木々、井戸のある広場。いつもなら安心できる景色なのに、今日は「いつも通り」に見えなかった。
明日はミリィと約束している。
明日も、声が聞こえたら?明日、ミリィがもっと強くなっていたら?俺は、どこまで責任を背負うべきなんだ?
家の角を曲がったところで、俺は足を止め、息を一つ飲み込んだ。言うなら今しかない。
「エアリス」
「なに?」
彼女は立ち止まり、俺の顔をまっすぐ見た。その目は、逃げ道を与えないというより、逃げなくていいよ、と言っているみたいだった。
「……明日さ。ミリィと過ごさないといけないんだけど」
言い出した瞬間、喉の奥が少しだけ渇く。言葉にすると、責任の形がはっきりしてしまうから。
「うん」
「エアリス、ついてきてもらえる?」
頼む声が、思ったより弱く聞こえて、自分で情けなくなる。俺は一人で何とかできる。そんな風に振る舞いたいのに、今の俺には、誰かの“そば”が必要だった。
エアリスは一瞬だけ、まばたきをして。それから、すぐに頷いた。
「そうだね。私もルーメンもミリィも心配だから、ついて行くよ」
言い切る声が、迷いのない強さを持っていた。その強さに、胸の奥がふっと軽くなる。……なのに、同時に罪悪感が沈む。
俺がやったことの後始末に、エアリスまで巻き込む。それでも、彼女は隣に立ってくれる。
エアリスは続けて、少しだけ表情を引き締めた。
「何かあったら、すぐにミリィを止めに入るから。ルーメン、安心して」
その言葉が、俺の心に“杭”みたいに打ち込まれる。崩れそうなところを、支えてくれる一本の杭。
「……ありがとう、エアリス」
「ううん。友達でしょ」
たったそれだけ。でも、今日の俺には、それが何よりの救いだった。
それでも、胸の奥のどこかで、別の声が囁く。安心していいのか?明日は“止める”だけで足りるのか?
俺は、家の門が見える距離まで来たところで、もう一度だけ夕空を見上げた。淡い色の空の下で、明日という一日が、静かに待っている気がした。
家の門がすぐそこに見えてきて、二人の歩幅が自然とゆっくりになる。一緒に歩く時間が終わりに近づくと、空気が少しだけ張りつめた。
エアリスは立ち止まり、俺の方を向いた。夕暮れの光が彼女の髪を柔らかく縁取り、いつもより大人びて見える。
「ミリィが何かおかしかったら、私が止める。ちゃんと。だから、ルーメンは一人で抱え込まないで」
念を押すような言い方だった。それは確認であり、約束であり、同時に彼女自身の覚悟でもあるように聞こえる。
「……うん」
短く返事をしながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。誰かが“止め役”を引き受けてくれるという事実が、どれほど心を軽くするか、今になってよく分かる。
助かる。本当に、助かる。でも、その安堵のすぐ裏側に、別の感情が顔を出す。
(……俺がやらなきゃいけないことなのに)
ミリィをこんな状態にしたのは、他でもない俺だ。水魔術上位の練習で、境界を越えてしまった俺自身の選択だ。
エアリスは俺の表情を見て、少しだけ眉を下げた。
「ルーメン、そんな顔しないで。これは“ルーメンだけの問題”じゃないよ」
「……でも」
言いかけた言葉は、喉の奥で止まる。言い訳に聞こえてしまいそうだったから。
エアリスは一歩近づき、声を落とした。
「友達でしょ。三人とも」
その一言で、胸の奥に溜まっていた重たいものが、少しだけ崩れる。全部を一人で背負わなくていい。そう思っていいのだと、許された気がした。
「ありがとう……エアリス」
「どういたしまして」
いつもの軽い調子で言いながらも、彼女の目は真剣だった。
「
じゃあ、明日。丘で」
「うん。明日」
短い別れの言葉。エアリスは手を振り、来た道を引き返していく。その背中を見送りながら、俺は門の前でしばらく立ち尽くしていた。
安堵と、罪悪感。救われた気持ちと、逃げられない責任。二つの感情が、胸の中で静かに重なり合う。
(……早く、何とかしないと)
エアリスの足音が完全に消えたあと、俺は深く息を吸い、家の門を押した。
いつもの帰宅。いつものはずの夜。
けれど、これから始まる“静かじゃない時間”を、俺はもう予感していた。




