エアリス編 第一章③ 生命のゆりかご
それからの日々は、ある種の奇妙な試練の連続でもあった。
意識は以前の記憶を保ったままだ。けれど、肉体は己の首を支えることさえままならない、無力な赤子。
腹が減れば泣き、身体が汚れれば不快感に顔を歪める。自分の身体でありながら、その機能を何ひとつ制御できないもどかしさは、前世で理不尽な状況に置かれていた時とはまた別の、根源的な「不自由」を俺に突きつけた。
(……情けないな。大人の自意識を持ちながら、若い母親に全てを委ねているなんて)
俺の心の中に残る記憶が、ふと自嘲気味に呟く。
だが、母リオラはそんな俺の「不機嫌」さえも、深い慈しみをもって受け入れてくれた。
「よしよし、ルーメン。ちょっと気持ち悪かったわね。すぐに綺麗にしてあげるからね」
彼女の指先が俺の肌に触れるたび、そこから温かな魔力が流れ込み、不快感を霧消させていく。それは癒しの魔術の一端だったのだろう。
前世、外の厳しい現実に打ちのめされ、誰の手助けも素直に受け取れなくなっていた俺の心に、彼女の献身は少しずつ、けれど確実に染み込んでいった。
「……リオラ。ルーメンは、少し大人しすぎないか?」
仕事から戻ったランダルが、俺の寝顔を覗き込みながら、不器用なほど心配そうに呟く。
「そんなことないわよ、あなた。この子は、周りの音をよく聞いているの。まるで、私たちの言葉を全部理解しようとしているみたいに」
図星だった。俺は、この「ルシアーク」という世界の情報を一滴も漏らさぬよう、赤ん坊特有の鋭敏な感覚を研ぎ澄ませていた。
この屋敷を包む空気の匂い、ジャンヤ川の水の音、薪が爆ぜる音。
そして何より、この家族が放つ「色」を、俺は必死に感じ取ろうとしていた。
(……温かいな。本当に)
前世の家族も温かかった。彼らは最後まで、外の世界でボロボロになった俺を必死に支えようとしてくれた。
「もう頑張らなくていいよ」
そう言ってくれた優しい顔が、リオラの微笑みと重なる。
「三人でなら、どうにでも生きていけるから」
そう言ってくれた声が、ランダルの力強い鼓動と共鳴する。
あんなに愛されていたのに、外の世界の悪意に耐えきれず、彼女たちを残して独り逃げ出した後悔が、今の家族の愛情に触れるたび、鋭い痛みとなって俺を襲う。
けれど、その痛みこそが、俺が「人間」としての心を取り戻していくための、避けて通れない大切なプロセスでもあった。
時は淀みなく流れ、俺の肉体は少しずつ、精神が望む動きに応え始めた。
一歳で歩き、二歳で言葉を覚えた俺は、周囲からは「神童」や「落ち着いた子」として見られていた。
俺はこの世界の言葉を、ルシアークの理を学べば学ぶほど、自分に与えられた役割について考えずにはいられなかった。
(……梅の花が言っていた『世界の歪み』。それは一体、いつ、どこから現れるんだ?)
窓の外に広がるルゼリアの景色は、どこまでも平穏だった。
プラム・ブロッサム家の屋敷は、村の農村部の中でも小高い丘の上に位置している。そこからは、鏡のように澄んだジャンヤ川の流れと、季節ごとに色を変える豊かな田畑が一望できた。
父ランダルは、領地の治安維持を任される立場にあり、毎日熱心に剣を振るっている。
「ルーメン、男の身体ってのはな、鍛えれば鍛えるほど応えてくれる。裏切るのはいつだって心の方だ。覚えておけよ」
父の放つ鋭い気合。木剣が空を割る音。
それを見学しながら、俺は自分の右手をじっと見つめていた。
まだ、魔術というものを具体的に教わったわけではない。けれど、時折、身体の奥底が熱くなるのを感じていた。それは血液の循環とは違う、もっと根源的な、魂が発熱しているような感覚だった。
(魔力……。僕の中に、何かが眠っている)
五歳になった春、母リオラが再び新しい命を授かった。
「ルーメン、あなたもお兄ちゃんになるのよ。セリナお姉ちゃんがあなたにしてくれたみたいに、今度はあなたが守ってあげるの」
母の言葉に、俺は静かに頷いた。
守る。
前世で、外の世界の悪意に屈し、守りたかったはずの家族を残して独り逃げ出した俺に、二度目のチャンスが与えられたのだ。
今度は、どんな現実があろうとも、立ち止まるわけにはいかない。
俺の掌にある「光」が、いつか大切な誰かのための灯明となるように。
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