ミリィ編 第二十六章 魔力コネクト② ミリィのおはよう
学校に着き、教室の扉をくぐった瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が、ほんのわずかに緩んだ。
水場から離れたことで、あの声は今のところ聞こえない。それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。席に向かい、椅子を引いて腰を下ろした、その直後だった。
足音が近づいてくる。ためらいのない、けれど少し弾むような足取り。
「ルーメン、おはよう!やっと本物に会えた」
顔を上げると、ミリィが目の前に立っていた。距離が近い。昨日までより、ほんの半歩分。
「……本物って?」
思わず聞き返すと、ミリィは少し照れたように頬を赤らめ、それでも言葉を止めなかった。
「昨日からね、コップの水や洗面の水に、ルーメンの顔が見えるようになったの」
胸が、ひくりと跳ねる。
「すっごく嬉しくて、ずっとルーメンのことが頭から離れなかったの」
その声音は、無邪気で、素直で、疑いがない。異常だという自覚は、ほとんど感じられなかった。
「さすがにお風呂の水にルーメンが映ったときは恥ずかしかったけど」
そう言って、ミリィは小さく笑う。
「でも、おはようって言えて、ほんと、嬉しい」
言葉の一つ一つが、胸に静かに積もっていく。
「今日も遊ぼうね、ルーメン」
その一言で、はっきりと分かった。これは、ただの勘違いでも、思い込みでもない。
(……やっぱり、影響が出てる)
魔力に触れたことで、何かが“繋がった”。その結果が、今、目の前に立つミリィの様子なのだ。
「……ミリィ」
名前を呼びかけたところで、教室の空気が変わった。廊下から、教師の足音が近づいてくる。
「あ、先生来ちゃった」
ミリィは慌てて一歩下がり、いつもの笑顔で付け足した。
「またあとでね、ルーメン」
そう言って、自分の席へ戻っていく。
残された俺は、しばらく机の上を見つめたまま動けなかった。
胸の奥が、ざわついている。困惑だけじゃない。罪悪感と、そして、否定しきれない温度。
(これは……どうすればいい)
ミリィの気持ちなのか。それとも、俺が触れてしまった魔力の影響なのか。答えは、まだ出ない。
授業が始まり、黒板に文字が書き連ねられていく。けれど、集中しようとするほど、意識は逸れてしまう。
机の端に置かれた、水差し。中で揺れる、透明な水面。視線を向けた、その瞬間。
――ルーメン。
ごく微かに。朝よりも、近い。
声は言葉にならないまま、感情だけを伴って流れ込んでくる。
嬉しさ。安心。そして、会えたことへの純粋な喜び。
(……聞こえる)
返事はできない。だが、確かに届いている。昨日よりも、はっきりと。昨日よりも、長く。
俺は、静かに目を伏せた。この現象は、まだ始まったばかりだ。そして、このまま放っておけば、きっと深まっていく。そう確信しながら、次に取るべき行動を、心の中で探し始めていた。
授業は始まったものの、内容が頭に入ってこない。黒板に書かれる文字を目で追いながらも、意識の半分は、別のところに引き寄せられていた。
水。教室の隅に置かれた水差し。窓際の花瓶。誰かの机の上に置かれた、飲みかけの水筒。それらが視界に入るたび、胸の奥がざわつく。
(気にしすぎだ)
そう思おうとすればするほど、逆に感覚は鋭くなっていく。ノートを取る手を止めないまま、意識だけを落ち着かせようとした、その時だった。
――ルーメン。
今度は、はっきりした。言葉というより、吐息に近い。音ではなく、気配として胸の内側に触れてくる。
嬉しそうで、少し弾んだ感情。朝、教室で見せた笑顔と同じ温度。
(……授業中だぞ)
思わず奥歯を噛みしめる。声に出していないのに、返事をしてしまいそうになる自分が怖かった。
視線を落とし、水差しを見ないようにする。だが、完全には遮断できない。声は、断続的に続いていた。
――ルーメン、ちゃんと座ってる?
――先生のお話、難しくない?
――早く休み時間にならないかな。
どれも、他愛のないもの。それなのに、胸を締め付ける。
(……ミリィは、気づいてるのか?)
自分の中で起きている異変を、ミリィはどう感じているのか。不安なのか。それとも、ただ嬉しいだけなのか。
ちらりと前方を見ると、ミリィは真面目な顔で黒板を見つめている。いつも通りの姿。特別、苦しそうでも、戸惑っている様子でもない。
(……俺だけか)
俺だけが、この状況を「異常」だと感じている。その事実が、少しだけ胸を重くした。
授業の合間、教師がページをめくる音が響く。その瞬間、声はすっと遠のいた。
(……消えた?)
一瞬、安堵しかける。だが、それは錯覚だった。
――ルーメン。
今度は、さっきよりも近い。短く、けれど確かに。
声には、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
(……長くなってきてる)
昨日は、単語のような呼びかけだけだった。今は、気持ちの流れが、はっきりと伝わってくる。
俺は、そっと机の下で拳を握った。このままではいけない。放っておけば、もっと深く、もっと強く。
視線を横にやると、エアリスがこちらを一瞬だけ見た。何も言わない。だが、その目は、すでに何かに気づいているようだった。
(……やっぱり)
今日、話さなければならない。一人で抱えるには、これは重すぎる。教室に流れる静かな空気の中で、俺ははっきりと決めた。
この現象のことを、エアリスに相談しよう。それが、今できる唯一の選択だと信じて。




