ミリィ編 第二十五章 ミリィの挑戦⑪ 自分の力で
その日の夕方、俺は家に戻ってからも、川辺での出来事を何度も思い返していた。
ウォータースライス。
水が、刃となって走る瞬間。あの時のミリィの表情は、今まで見てきた中で、一番、強かった。
ふと、窓の外を見る。夕焼けが、家々の屋根を朱色に染めている。いつもと変わらない景色。それなのに、今日は少しだけ、違って見えた。
人は、変われる。それを、ミリィが、あんなにも分かりやすく見せてくれたから。
「……ルーメン」
背後から、母さんの声がした。
「夕飯、もうすぐできるわよ」
「うん、今行く」
立ち上がりながら、俺は思う。
今日のことは、きっと、ミリィの中に残る。そして、俺の中にも。
その頃、ミリィの家では。農地に囲まれた広い屋敷の中、ミリィは、自分の部屋で一人、椅子に座っていた。
両手を見つめる。少し前まで、震えていた手。今は、まだ疲労はあるが、確かに、力が残っている。
「……できたんだ……」
小さく、呟く。
何度も、失敗して、悔しくて、情けなくて。それでも、やめなかった。
「……ルーメン先生……」
その名前を口にすると、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
優しかった。厳しかった。ちゃんと、見てくれていた。
「……私……」
ミリィは、そっと目を閉じる。
「……もっと……強くなりたい……」
誰かに守られるだけじゃなく、誰かの隣に、立てるように。水魔術の才能だけじゃなく、自分自身で、前に進めるように。
「……明日も……頑張ろう……」
そう言って、ベッドに横になる。今日は、体も心も、たくさん使った。でも、その疲れは、嫌なものじゃなかった。むしろ、心地よい。
ミリィは、静かに目を閉じる。夢の中で、また川が割れる。けれどそこには、恐怖はなく、ただ、まっすぐな水の道が伸びていた。
翌日。学校の校庭は、いつも通りのざわめきに包まれていた。子どもたちの笑い声。走り回る足音。土を踏みしめる感触。
その中で、ミリィは、少しだけ背筋を伸ばして歩いていた。周囲を見ると、何人かの視線が自分に向けられているのに気づく。
気のせい、じゃない。昨日までとは、どこか違う。
「ミリィ」
声をかけられて振り向くと、エアリスが手を振っていた。
「おはよう」
「おはよう、エアリス」
自然に、そう言えた自分に、少しだけ驚く。前なら、声をかけられるだけで緊張していた。でも今日は、胸の奥に揺るがない感覚がある。
できた。やり切った。それが、自分を支えていた。
「……ねえ、ミリィ」
歩きながら、エアリスが小さな声で言う。
「昨日のこと……すごかったね」
ミリィは、一瞬だけ視線を落とし、それから、はにかむように笑った。
「……うん。正直……自分でも、びっくりしてる」
「でもさ、ミリィ、ずっと頑張ってたもん」
エアリスの言葉に、胸が、少しだけ熱くなる。
「……ありがとう」
短い返事だったが、それで十分だった。
教室に入ると、ざわめきが、一瞬だけ
変わる。
「……昨日の、あれ……」
「川が割れたって……」
「本当なの……?」
ひそひそと、そんな声が耳に入る。ミリィは、気づかないふりをして席に着く。前なら、逃げたくなっていた。でも今は、違う。
机の上に手を置く。まだ、完全に回復していない魔力の余韻。
それが、確かに、自分の中にある。
「……私……」
ミリィは、心の中で静かに言う。
「……もう……前みたいな私じゃ、ない……」
視線を上げると、教室の前方でルーメンがこちらを見ていた。一瞬だけ、目が合う。ルーメンは、何も言わず、小さく頷いた。それだけで、十分だった。
ミリィは、背筋を伸ばし、前を向く。挑戦は、確かに、彼女を変え始めていた。
放課後。空は、少しだけ雲が多く、風が川面をゆっくりと撫でていた。
「……今日は、ここまでにしようか」
川辺に立つルーメンが、穏やかな声で言った。
ミリィは、小さく息を吐き、額の汗を拭う。
「……はい」
そう答えながらも、視線は、まだ水面に向いていた。
もう一度。もう少しだけ。
そんな思いが、胸の奥で渦巻いている。
エアリスが、少し心配そうに声をかける。
「ミリィ、無理してない?」
「……ううん」
首を振り、ミリィは微笑もうとする。
「大丈夫……ただ……」
言葉が、途中で止まる。
ルーメンは、それを見て、何も言わず、少し距離を詰めた。
「……上位魔術はね、できるようになったからって、すぐに安定するものじゃない」
ミリィは、ゆっくりと顔を上げる。
「魔力の流れを、身体が覚えるまで、時間がかかる」
「……はい」
「それに……ミリィの場合、頑張りすぎる癖がある」
ミリィは、ぎくりとした。見抜かれている。
「……だって……」
思わず、言葉が零れる。
「やっと……できるように、なったから……」
声が、少し震える。
「ここで止まったら、また……できない自分に、戻りそうで……」
川の流れる音が、その沈黙を埋める。
ルーメンは、少しだけ視線を落とし、それから、はっきりと言った。
「ミリィ」
「……はい」
「できるようになったってことは、もう、失われない」
その言葉は、静かだったが、強かった。
「休んでも、戻るわけじゃない。むしろ、休まないと、壊れる」
ミリィは、唇を噛みしめる。
……壊れる。
その言葉が、胸に突き刺さる。
「……私……」
小さな声。
「……怖かったんです」
ルーメンは、黙って聞く。
「できないままの自分に、戻るのが……置いていかれる気がして……」
エアリスが、そっとミリィの隣に立つ。
「ミリィ、私、置いてかないよ」
その一言に、ミリィの肩が、わずかに震えた。
「……私もだよ」
エアリスは、少し照れながらも続ける。
「できるのも、できないのも、一緒にやるんだから」
ミリィは、思わず笑ってしまう。
「……ずるいよ、エアリス……」
ルーメンは、二人を見て、小さく息を吐いた。
「今日は、ここまで」
その声は、もう、揺らがない。
「明日も、明後日も、時間はある」
ミリィは、ゆっくりと頷いた。
「……はい。ルーメン先生」
「……先生は、もういいって」
そう言いながらも、どこか照れたような表情を浮かべる。
その様子に、ミリィは少しだけ安心した。大丈夫。私は、一人じゃない。
その夜、ミリィは、自分の部屋のベッドに仰向けに寝転んでいた。窓の外では、虫の声が規則正しく響いている。静かな夜。それなのに、胸の奥だけがざわついていた。
「……はぁ……」
小さな溜息が、天井へと吸い込まれていく。
昼間、川辺での出来事が、何度も頭の中で再生される。
ウォータースライス。割れた川。自分の手から放たれた、鋭い水の刃。
できた。その事実は、確かに嬉しかった。けれど同時に、別の感情が、胸を締めつけてくる。
「……私……本当に、できたのかな……」
思い出すのは、最後の場面。
ルーメンの背後からの魔力の干渉。あの、安心する感覚。
あれがなかったら?問いが、頭を離れない。
「……私の力、だったのかな……」
指先を、そっと握りしめる。確かに、最後は一人で発動できた。けれど、そこに至るまでの道のりは、あまりにも支えられていた。
「……先生……」
無意識に、そう呟いてしまい、慌てて口を閉じる。胸が、少しだけ熱くなる。
尊敬。憧れ。感謝。
それだけじゃない気持ちが、混ざっている気がして。
「……だめだよね……」
自分に言い聞かせるように呟く。
私は、教えてもらう側。追いかける側。それ以上を望んじゃ、いけない。
「……けれど、追いつきたい……」
その想いだけは、どうしても消えなかった。できるようになりたい。頼らずに。支えられなくても。
「……自分の力で……」
天井を見つめながら、ミリィは目を閉じる。すると、昼間の感覚が、微かに蘇った。
魔力が、一点に集まり、刃の形を描く感覚。あれは……確かに、私の中にも、あった。
胸の奥で、何かが静かに固まっていく。
「……明日も……練習、続けよう……」
誰かに証明するためじゃない。ルーメンの期待に応えるためでもない。
「……私が……納得するために……」
その言葉を最後に、ミリィはゆっくりと眠りに落ちていった。




