エアリス編 第一章② 深淵のギフト
俺は、深い、深い、温かなまどろみの中にいた。
赤ん坊の脳は、まだ複雑な思考を維持できるようには設計されていないらしい。けれど、その微睡みの向こう側で、俺はみたび、あの白い靄の中にいた。
満開の梅の木。その中心に、魂を射抜くような黄金の光が灯っている。
「どう? 新しい世界は。ここはルシアーク。魔力と剣が支配する世界よ」
梅の花の声が、俺の意識を優しく、それでいて厳かに包む。
「あなたは、プラム・ブロッサム家の子として生まれ変わったの。新しい人生。そう、転生者としてね」
空気が微かに、神聖な律動を伴って震えた。
「でもね、転生したからといって、何もかも上手くいく保証はないの。ごめんなさい。……だから、ひとつだけ、あなたに力を授けるわ」
梅の花の中心に灯っていた黄金の光が、小さな火の粉となって俺の胸の中へと吸い込まれていく。それは、単なる魔法の知識などではなく、魂そのものに刻み込まれる「理」だった。
「ひとつ、あなただけの能力を授けます。――《光花輪廻》」
その言葉の響きは、甘美な旋律のように俺の中に刻み込まれた。
「この世界にも不思議な現象があって、それは今のところ、誰にもどうにもできない歪み。今はほんの少しだけど、あなたが大きくなる頃には、世界を飲み込むほどに広がっているでしょう。それを救えるのは、あなただけ」
「これは、あなたと相手の心が完全に調和したとき、世界を“望ましい形”に調律し、再構成する魔術よ。けれど、それには膨大な魔力と、精密なコントロールが必要になる。焦らず、心を磨きなさい。あなたの光が、世界を“咲かせる”日が来るから」
花びらが風に乗って舞い上がり、光に溶けて消えた。
目が覚めると、俺は再び赤ん坊の体に戻っていた。
(……何だったんだ、あの夢は。でも、気分は、いつもの梅の花を見ていた時の、あの安心する、癒やされた感覚だったな)
俺は小さな手足を動かし、力を込めてみようとした。だが、五分も経たないうちに激しい疲労が襲い、結局はただ「うあー」という泣き声を上げるしかなかった。
(無理だ。この体じゃまともに力も入らない。本当にそんな力があるのかな? でも、梅の花に守られている感じはする。まずはこの“赤ちゃんライフ”を全うするしかないか……おっと、その前に、腹が減ってきた)
俺は本能に従い、力いっぱい産声を上げた。その声が屋敷に響き渡るのを聞きながら、父ランダルが慌てて駆け寄ってくる気配を感じた。
深い、温かなまどろみから覚めるたび、俺の世界には新しい色彩が加わっていった。
視力がおぼつかない赤ん坊の視界の中で、真っ先に鮮烈な印象を残したのは、燃えるような「赤」だった。
それは、窓から差し込む夕陽の色でも、暖炉の火の色でもない。俺の揺りかごを覗き込み、弾けるような笑顔を見せる幼い少女の髪の色だった。
「はーめまちて! ルーメン!」
二歳年上の姉、セリナ。
彼女の髪は、まるでルゼリアの丘に咲く情熱的な大輪の花のように、鮮やかな赤色をしていた。彼女が動くたびに、その緋色の髪がさらさらと揺れ、赤ん坊の俺の頬をくすぐる。
彼女はまさに、この屋敷に降り注ぐ陽光をそのまま形にしたような存在だった。泥だらけの膝も気にせずに、俺の元へと突進してくるそのエネルギーは、前世の俺が忘れて久しかった「純粋な生命力」そのものだった。
「セリナ、あんまり揺らしちゃダメよ。ルーメンが驚いちゃうわ」
「だいじょうぶ! 私が守ってあげるもん! ルーメン、大きくなったら一緒に探険しようね!」
セリナは俺の小さな手を握り、ぶんぶんと振った。
その力は赤ん坊の俺には少し強すぎたが、伝わってくる彼女の感情は、あまりにも真っ直ぐで、圧倒的なまでの「肯定」だった。
(……姉さん、か)
前世の俺には、兄弟がいなかった。外の世界でどれほど打ちのめされても、独りで耐え、独りで立ち上がるのが当たり前だと思って生きてきた。
けれど、この小さな、けれど生命力に満ち溢れた少女は、当然のように俺を「自分の守るべき大切なもの」として認識している。
「ルーメン、これ、あげる! 私の宝物!」
彼女が俺の胸元に置いたのは、どこかで拾ってきたらしい、歪な形の綺麗な小石だった。
大人から見ればただの石ころだろう。けれど、彼女の瞳は真剣そのもので、そこには弟への最初のアプローチとしての、全霊を込めた愛情が宿っていた。
俺は、彼女の差し出した小さな指を、無意識にぎゅっと握り返していた。
「……あっ! 握った! ルーメン、私のこと好きだね! 好きだね!」
歓喜に湧くセリナの声。それを見守るランダルとリオラの穏やかな笑い声。
前世、外の世界の冷酷な悪意に晒され、心臓が凍りつくような日々を送っていた俺にとって、この賑やかで、やかましいほどの幸福な空気は、何よりも贅沢な救いだった。
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