ミリィ編 第二十五条 ミリィの挑戦⓻ ミリィの再苦戦と覚悟
それから数日間、川辺での練習は続いた。天気の良い日も、曇りの日も、ミリィは必ず同じ場所に立ち、同じ詠唱を口にする。
「偉大なる水の魂よ、ここに集いし水の根源よ……」
水は集まる。確かに、以前よりもはっきりと。だが、切れない。円盤状の水は形を保てず、水面に落ちては、静かに消えていく。
「……っ」
ミリィは何度目か分からない失敗のあと、膝に手をつき、荒く息を吐いた。
「……また……だめ……」
エアリスが心配そうに近づく。
「ミリィ、大丈夫?ちょっと休んだら?」
「……うん……」
そう答えながらも、ミリィの視線は、ずっと川を見つめていた。
(できない。向いてないのかもしれない)
そんな言葉が、はっきりと口に出されることはない。けれど、その沈黙が、すべてを物語っていた。
俺は、少し距離を取った場所から、ミリィの様子を見ていた。
声をかけるべきか。それとも、今は黙っているべきか。教える側の迷い。
ミリィは立ち上がり、もう一度、詠唱を始める。
「……脅威なる力を今ここに現したまえ……ウォータースライス……!」
水が、集まる。
だが、刃になる直前で、魔力が霧散した。
「……っ……!」
ミリィの肩が震える。
「……どうして……どうして……できないの……」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
エアリスが、思わず口を開く。
「ミリィ……無理しなくても……」
「だめ!せっかくルーメン先生があそこまでしてくれたんだから」
ミリィは、強く言った。
自分でも驚いたのか、すぐに口を押さえる。
「……ごめん……」
でも、その目は、必死だった。
「……やめたく……ない……」
俺は、その場に踏み出した。
「ミリィ」
名前を呼ぶと、ミリィは、ゆっくりとこちらを見る。
「……ルーメン先生……」
その呼び方に、今は冗談めいた響きはなかった。
「……私……ルーメン先生に魔力の流れまで教えてもらって、それでも……向いてないんでしょうか……」
その問いは、とても小さく、でも、重かった。
「……向いてるかどうかは、今は、関係ない」
そう前置きしてから、俺は続けた。
「ミリィは、 “できるようになりたい理由”を、ちゃんと持ってる」
ミリィの目が、わずかに揺れる。
「……理由……」
「そう、それは、才能よりも、ずっと大事だ」
ミリィは、俯き、しばらく黙っていた。そして、ぽつりと呟く。
「……私……置いていかれるのが……怖いんです……」
その言葉は、初めて聞く本音だった。
「……みんな……前に進んでるのに……私だけ……できないままで……」
水面に、小さな波紋が広がる。
「……だから……諦めたく……ない……」
俺は、静かに頷いた。
「……それなら、まだ、やれる」
そう言うと、ミリィは、ゆっくりと顔を上げた。
涙が滲んでいるが、その奥には、まだ火が残っている。
「……今日は……ここまでにしよう」
「……え……?」
「無理に進むと、心が折れる」
俺は、穏やかに言った。
「でも、折れてない今なら、次に繋がる」
ミリィは、しばらく考え、小さく頷いた。
「……はい……」
その返事は、諦めではなく、踏みとどまる決意だった。
川辺を離れるとき、ミリィは、最後に一度だけ、水面を振り返った。
その目は、もう“できない自分”だけを見てはいなかった。
それからも、ミリィは練習をやめなかった。
川辺に来る回数は、むしろ増えた。俺やエアリスがいない日でも、一人で詠唱の練習をしていたらしい。
「……また、来てたんだね」
ある日の夕方、先に川辺に着いていたミリィを見つけて、俺はそう声をかけた。
ミリィは、少し驚いたように振り返り、それから、照れたように笑った。
「……うん。でも、今日はもう終わりにするところだったよ」
その言葉とは裏腹に、足元には、何度も魔力を使った痕跡が残っている。
「……無理、してない?」
そう聞くと、ミリィは一瞬、言葉に詰まった。
「……してる、かも」
正直な答えだった。
「でも……無理しないと、越えられない気がして……」
その声には、焦りと、不安と、それでも前に進みたいという意志が混じっていた。
俺は、ミリィの隣に立ち、同じように川を見つめる。夕暮れの光を受けて、水面は赤く染まり、ゆっくりと流れている。
「……ミリィ」
「はい」
「上位魔術っていうのはね、“できるかどうか”だけじゃない」
ミリィは、黙って聞いている。
「“自分をどこまで信じられるか”が、問われる」
ミリィの指先が、ぎゅっと握られた。
「……私……自信、ないです」
その言葉は、静かだったけれど、深く刺さった。
「……できなかったらどうしようって、ずっと考えちゃう……」
「うん」
俺は否定しなかった。
「それは、普通だよ」
少し間を置いてから、続ける。
「でもね、自信がないままでも、前に出ることはできる」
ミリィは、ゆっくりと俺を見る。
「……どうやって……?」
「“できない自分”を、置いていかないこと」
ミリィは、きょとんとした顔をした。
「置いていかない……?」
「そう」
俺は、穏やかに言葉を選んだ。
「できないから、ダメ、じゃない。怖いから、止まる、でもない。怖いまま、できないまま、それでも一歩出る。それが、上位に挑むってことだ」
ミリィは、しばらく黙り込み、それから、小さく頷いた。
「……私……やっぱり怖いです」
「うん」
「でも……絶対に諦めたくない」
その言葉は、はっきりしていた。
「……ルーメン先生」
「なに?」
「私……できるようになりたい理由……ちゃんと、あります」
そう言って、ミリィは胸に手を当てた。
「……私……自分で、自分の足で、前に進める人に……なりたい」
その声は、震えていたけれど、嘘じゃなかった。
俺は、静かに息を吸い、もう一度、決心する。ここまで来たなら。
「……ミリィ」
「はい」
「次に進むときは、覚悟がいる」
「……覚悟……」
「うん」
俺は、はっきり言った。
「普通の練習じゃ、越えられない壁に、踏み込むことになる」
ミリィは、少しだけ息を呑み、それから、強く頷いた。
「……それでも、お願いします」
その目は、逃げていなかった。
夕暮れの川辺で、俺は確かに感じていた。
それから数日間、ミリィの練習は、さらに苛烈なものになった。
川辺に立つ時間は、朝から夕方まで。日によっては、日が沈む直前まで、一人で詠唱を繰り返していた。
「……偉大なる水の魂よ、ここに集いし水の根源よ……」
詠唱の声は、最初こそ安定していた。だが、何度も繰り返すうちに、次第に掠れ、震え始める。
「……脅威なる力を、今ここに……」
魔力は集まる。確かに、集まっている。
だが、刃には、ならない。
円盤状の水が、形を保てないまま、ぱしゃりと崩れて消える。
「……っ……」
ミリィは、唇を噛みしめた。
「……また……」
拳を握り、もう一度、深く息を吸う。
「……もう一回……」
だが、魔力の流れは、さっきよりも鈍い。
集中しようとすればするほど、焦りが邪魔をする。
できない。また、できない。
その思考が、魔力の流れを濁らせていく。
「……なんで……」
ぽつりと、零れ落ちた声。
「……ルーメン先生なら……こんなの、すぐできるのに……」
自分と比べてしまう。分かっているのに、止められない。
「……私……才能、ないのかな……」
その瞬間、ミリィの肩が、小さく震えた。だが、泣かなかった。
泣く代わりに、また詠唱を始める。
「……偉大なる水の魂よ……」
声は、もう限界に近かった。
やがて、魔力が完全に途切れた。
膝が、がくりと落ちる。
「……っ……」
地面に手をつき、息を整えようとするが、胸が苦しい。
魔力切れ。分かっている。分かっているのに、止まれなかった。
その時、背後から足音が聞こえた。
「……ミリィ」
俺の声だった。
振り返ろうとした瞬間、ミリィは、慌てて立ち上がろうとする。
「……だ、大丈夫です……!」
だが、足に力が入らず、よろける。俺は、すぐに近づき、肩を支えた。
「……無理してる」
「……してません……」
そう言いながら、声は震えている。
俺は、何も言わず、ミリィを座らせた。
川の音だけが、静かに流れる。
「……ミリィ」
「……はい……」
俯いたまま、小さく返事をする。
「……どうして、そこまでして……」
「……“弱いままの私”に……できない私が、嫌なんです……できないって、決めつけてる私が……」
そして、深く、頭を下げた。
「……お願いします……ルーメン先生……」
「……どうか……助けてください……」
その姿は、必死に縋る一人の少女だった。ミリィの目は、まだ諦めていなかった。
俺は、ゆっくりと息を吸う。
「……ミリィ」
「……はい……」
「……本当に、覚悟は、ある?」
その問いに、ミリィは、迷いなく頷いた。
「……あります……」




