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前世編 第八章 沈む光

第八章 沈む光

――春の底で

 娘が大学を卒業し、自身の夢を叶えるために東京へと旅立ってから、家の中には再び、かつてアパートで暮らしていた頃のような二人きりの静けさが戻っていた。

 朝の食卓。湯気が立ち上る味噌汁の匂いと、新聞をめくるカサリという微かな音。妻が「いってらっしゃい」と微笑むその声は、長い年月を経て、角の取れた柔らかな慈愛に満ちていた。

 「ああ、いってくる」

 光一はその声に救われるように頷き、玄関のドアを開ける。かつて、あの過酷な営業課時代に自分を支えてくれた彼女の笑顔。それさえあれば、何でも乗り越えられると信じていた。だが、五十を過ぎた彼の心には、自分でも気づかないうちに、抜き去ることのできない深い疲労が澱のように溜まっていた。

 会社には、新しい風が吹いていた。それは若々しく、活気に満ちているようでいて、その実、非効率なものを一切許さない、薄氷のような冷徹さを孕んだ風だった。


 春の初め、直属の上司が交代した。定年で退職したかつての戦友のような上司に代わってやって来たのは、三十代後半の、声が大きく、常に論理と効率を口にする男だった。

 「川田さん。あなたは長いことこの会社にいますから、期待していますよ」

 初対面の挨拶で、男はそう言って笑った。だが、その目は一切笑っていなかった。

 光一は、その瞬間に直感した。この男の瞳に映っている自分は、経験豊かなベテランではなく、高給を食い潰す「処分の対象」に過ぎないのだと。その口調に含まれた針のように細い冷たさが、光一の背筋をかすめる。

 最初の違和感は、朝のミーティングで訪れた。

 光一がいつものように挨拶をしても、上司は手元のタブレットから目を離さず、返事すら返さない。

 「資料のコピー、終わりました」

 光一が丁寧に揃えた資料を差し出すと、上司はそれを無言で受け取り、一度も見ることなく机の端へ放った。

 「これ、やり直してください。汚れている」

 汚れている――。光一は驚いて手元を確認した。だが、そこにあるのは一点の曇りもない真っ白な紙だ。

 「……どこが汚れているのでしょうか?」

 「そういう『理屈』が汚いって言ってるんですよ。あなたの存在そのものが、このチームのテンポを汚している」

 上司は顔を上げ、冷たい笑みを浮かべた。その背後で、若手社員たちが一斉に目を伏せる。誰も助けない。誰も、視線を合わせようとしない。

 かつての中学時代のあの光景。あの「透明になっていく感覚」が、数十年の時を超え、白日の下のオフィスに鮮烈に蘇っていた。

 会議の資料が回ってこない。重要な案件のグループチャットから、いつの間にか光一のアカウントだけが削除されている。

 「川田さん、今の議論、理解できてます? ついてこれないなら無理しなくていいですよ」

 会議室で、上司がわざとらしく光一に問いかける。周囲から漏れる乾いた笑い声。

 昼休み。かつては笑い合いながら向かった食堂への足音。光一が立ち上がると、それまで続いていた会話がピタリと止まり、同僚たちは逃げるように去っていく。

 残されたのは、冷え切ったパソコンのファンの音と、自分自身の重苦しい鼓動だけ。

 「生きている」のかどうかも、もう分からない。光一の精神は、毎日少しずつ、鋭利なガラスで削り取られるように磨耗していった。


 週末、妻が心配そうに顔を覗き込んできた。

 「光一くん……仕事、忙しいの? 顔色がすごく悪いよ」

 「まあね。期末だからさ」

 「無理しないで。もう娘も自立したんだし、そんなに頑張らなくても……」

 「平気だよ。俺が頑張らなきゃ、この家を守れないだろ」

 そう答える光一の唇が、微かに震えていた。

 本当は叫びたかった。助けてくれと。もう限界なんだと。だが、これまで「守る側」として生きてきた自負と、娘に心配をかけたくないという親としての矜持が、彼の口を固く閉ざさせていた。

 上司の言葉は、日に日に露骨な暴力へと変わっていった。

 「君って、反省だけは立派だよね。中身が伴ってないけど」

 「ミスしても怒る気にもならない。時間の無駄だから」

 「君がいるだけで、職場の空気が重くなるんだよね。存在そのものが迷惑って、気づいてる?」

 ある日、光一の携帯にグループチャットの通知が届いた。全社員が見ることのできる掲示板に、彼の名前が晒されていた。

 《川田さんの資料、また締切超過。ベテランのくせに足引っ張らないでください》

 その下に連なる、匿名の若手たちの賛同。《またか》《そろそろ限界では?》《窓際へどうぞ》。

 画面を見つめる光一の視界が、歪んでいく。


 決定的な打撃は、ある雨の日の午後に訪れた。

 「川田さん。あなたの机、臭くないですか? なんか、古い加齢臭のような、饐えたにおいがするんですよ」

 上司が鼻を押さえながら、大声で言った。

 オフィスが静まり返った。誰一人、笑わなかった。その静寂こそが、最も残酷な「肯定」だった。

 「汚れるんで、私の書類に触らないでください。老害は大人しく座ってて」

 書類を受け取ろうとした光一の手を、上司はあからさまに避けた。

 その瞬間、光一の胸の奥で、カチリと何かが折れる音がした。

 これまで何十年も、どんな泥をすすっても維持してきた「自分」という形。それが、この瞬間に完全に崩壊したのだ。

 帰り道、ビルの窓ガラスに映る自分の姿。そこには、背筋を伸ばして歩いていたあの頃の光一はいなかった。肩は丸まり、目は濁り、まるで命の灯火が消えかかった老人のような影が映っていた。

 病院で処方される抗不安薬の量は増え続け、鼓動は耳の奥で、壊れたメトロノームのように不規則に鳴り響く。

 夜、眠りに就こうとしても、まぶたの裏に上司の笑い顔と、あの掲示板の文字が浮かび上がる。

 「もう、いいよな……」

 そんな呟きが、何度となく漏れた。

 そんな中、東京の娘からメッセージが届いた。

 《お父さん、元気? 私、次のコンクールでリーダーに選ばれたよ! 今度の休みに帰るね。お父さんとお母さんのために、とびきりの曲を演奏するから》

 光一は震える指で返信を打った。

 《おめでとう。楽しみにしてるよ》

 その文字を打ち込みながら、彼は心の中で呟いた。

 ――ああ。これで、本当に安心だな。娘はもう、立派に自分の人生を歩んでいる。俺がいなくても、あの子はもう、大丈夫だ。


 翌朝。会社に行くと、光一の机の上にあったはずのパソコンも書類も、すべて撤去されていた。

 「川田さん。もういいですよ。あなたがいると職場全体が腐るんで。今日から出社、控えてもらって構いません。事実上の解雇です」

 上司は光一の顔を見ることさえせず、冷淡に宣告した。

 周囲の人間は、まるで何事もなかったかのようにキーボードを打ち続けている。

 光一はゆっくりと立ち上がり、かつて誇りを持って纏っていた、ボロボロになった紺色のスーツを整えた。そして、誰も見ていないオフィスに向かって、深く、深く頭を下げた。

 「……お世話になりました」

 誰も、返事をしなかった。

 帰り道。風は春の予感を含んでいたが、光一の身体は芯から凍えきっていた。

 空はどこまでも青く、高く、それが今の自分にはあまりにも眩しすぎた。

 家に着くと、妻はいつも通り笑顔で迎えてくれた。

 「おかえりなさい。今日はあなたの好きな肉じゃがだよ」

 「ありがとう……。すごく、いい匂いだ」

 湯気の向こう側で微笑む妻。彼女の笑顔は、この残酷な世界で光一が唯一見つけることのできた「救い」だった。

 その夜更け。光一は静かに布団を抜け出した。

 庭に出ると、冷たい夜気の中に、微かな、けれど鮮烈な花の香りが漂っていた。

 庭の隅の梅の木。あの日、地獄のような日々の中で植えた細い苗木が、今、月明かりを浴びて、狂おしいほどに見事な満開の花を咲かせていた。

 白く、清らかで、気高いその花びら。

 「……綺麗だな」

 声が震えた。視界が涙で滲む。

 かつて、いじめに喘いでいた中学時代の帰り道。あの時自分を救ってくれたあの梅の花と同じ色が、今、目の前にある。

 ――梅は寒かほど、咲きたがるとばい。

 祖父の言葉が、脳裏を駆け巡る。

 俺の人生も、この花のように、少しは誰かのために咲けたのだろうか。

 そう思った瞬間、張り詰めていた糸が、静かに、優しく切れた。

 

 「もう、いいよな」

 それは諦めではない。重い、重い荷物をようやく下ろした旅人のような、安堵の言葉だった。

 風が止み、月光が降り注ぐ中、花びらがひとひら、静かに地面へと落ちた。

 翌朝。

 妻が目を覚まし、いつものように台所で湯を沸かす。

 「あなた? 起きる時間よ」

 返事はない。

 ふと庭に目を向けると、梅の木が朝陽を浴びて、眩いばかりに白く輝いていた。

 その下に、一枚のコート――かつて彼女が贈った、あの紺色のスーツの上着が、静かに置かれていた。

 ポケットの中には、四つ折りにされた、色褪せた一枚の絵が入っていた。

 “パパとママと梅の木”

 かつて幼い娘が、拙い手つきで描いてくれた、あの青いクレヨンの絵だ。

 風が吹き、満開の梅の花びらが一斉に空へと舞い上がった。

 妻はそれを見上げ、溢れ出す涙を拭うこともせず、ただ静かに呟いた。

 「……春が、来たね」

 春の底で、光は静かに眠りについた。

 そしてその魂は、白い花びらと共に、かつて見たことのない高み、新しい命が待つ場所へと、ゆっくりと還っていった。


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