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前世編 第一章 冬の光の下で

第一章 冬の光の下で

 冬の朝の訪れは、常に湿り気を帯びた台所の匂いと、微かな金属の音から始まった。

 意識が覚醒の縁をたゆたう中、最初に鼻腔をくすぐるのは、合わせ味噌が熱に踊る豊かな香りと、どこか懐かしい出汁の匂いだ。それから、炊飯器の蒸気が吹き出すときの、あのお米の甘い芳香。1980年代、まだ最新式とは言い難い炊飯器が立てるシュンシュンという一定のリズムは、この家の一日が動き出したことを告げる心音のようなものだった。

 布団から出た瞬間に襲いかかる空気は、肌を刺すというより、深く沈み込むような冷たさを持っている。


 僕たちが暮らす木造の家は、すでに築数十年を数えていた。祖父がこまめに手入れをしてくれているおかげで、柱には深い艶があり、どこか凛とした佇まいを保っているが、断熱材などという概念はない時代だ。廊下を歩けば板が軋んで冬の鳴き声を上げ、壁紙は陽に焼けて、かつての模様も判然としないほどに色褪せている。けれど、障子の格子を透過して畳の上に落ちる冬の陽光は、その古びた空間を琥珀色の静謐さで満たし、僕に「ここは安全な場所だ」という確信を与えてくれた。


 この家には、同級生たちが語るような「贅沢」の欠片もなかった。

 誕生日であっても、クリームケーキが食卓に並ぶことはない。クリスマスに、真っ赤な長靴に入ったお菓子セットや、きらびやかな包装紙に包まれたプレゼントが枕元に置かれることもなかった。一度だけ、サンタクロースに、せめてみんなと遊べるようにと百円で買える程度のトランプをお願いしたことがあったが、翌朝の枕元には冷たい空気だけが漂っていた。

 けれど、当時の僕はそれを「不幸」だとは思わなかった。

 それが、僕という人間に割り当てられた“世界の仕様”なのだと、何の疑いもなく受け入れていたからだ。母が離婚してこの家を去り、実家へ帰ってしまったことも、理由こそ理解できなかったが、この世界の理の一部として心に沈殿していた。母のいない静かな家は、どこか色が欠けているようにも思えたが、その空白を埋めるように、祖父母と父の三人の大人が、僕を取り囲んでいた。


 父は、言葉の少ない男だった。

 朝、僕が目を覚ます頃には、すでに使い古された作業鞄を手に、静かに玄関の引き戸を開けて仕事へと出かけていく。彼が語るべき言葉の多くは、その寡黙な背中と、毎日欠かさず労働に身を投じる姿勢そのものに集約されていた。

 父が不在の間、家と僕を守るのは祖父母の役割だった。祖母は台所の湯気の中に立ち、祖父は家の外、庭先の小さな畑を守る。

 九州の冬は、時に厳しい。霜が降り、土がカチカチに凍りつくような朝でも、祖父は汚れたジャンパーを羽織り、黙々と鍬を振るった。

 「これで春までは食えるばい」

 土を落とした白菜や、ずっしりと重い大根を掲げながら、祖父は顔いっぱいにシワを作って笑った。その笑顔には、どんな不況も、どんな欠乏も、自らの手で土を耕している限りはねじ伏せられるのだという、泥臭くも力強い誇りが宿っていた。


 朝食の時間は、この家で最も静かで、最も温かな時間だ。

 ちゃぶ台に並ぶのは、炊きたての真っ白いご飯に、熱い味噌汁。そして、昨日のおかずの残りか、小さな焼き魚の切れ端。

 彩りこそ乏しいが、一口頬張れば、腹の底からじわりと熱が広がっていく。

 「温かいご飯があるだけで、幸せやねえ」

 祖母は僕の茶碗にたっぷりとご飯をよそいながら、祈るような声でそう言った。その言葉を聞くたび、僕の胸の奥にある「寂しさ」という名の冷たい塊が、少しずつ、穏やかに溶けていくのを感じた。

 学校へ行く時間になると、祖父が新聞を几帳面に畳みながら、玄関で見送ってくれる。

 「寒いけん、ジャンパーのチャックは一番上まで上げとかんね」

 その声に促され、僕はナイロン製の少し安っぽいジャンパーのジッパーを、首元まで引き上げた。コートなんて洒落たものは持っていない。けれど、このジャンパーがあれば十分だった。


 引き戸を開け、外の世界へ踏み出す。通学路の側溝からは、かすかに白い湯気が立ち上っている。九州の山あいの朝は、静寂そのものだ。どこからか漂ってくる焚き火の匂いと、土の匂い。冬の冷気の中でその匂いを吸い込むと、不思議と背筋が伸びる思いがした。

 小学校という場所は、僕に「自分たちの暮らし」を他人の目線で再確認させる鏡のような場所だった。

 みんなが新しいアニメキャラクターが描かれた豪華な筆箱を使っている中、僕の筆箱は、もう何年も使って角が欠けてしまった古いものだった。けれど、僕はそれを恥じなかった。毎晩、祖母が「今日も頑張ったね」と言いながら、柔らかい布でその筆箱を拭いてくれているのを知っていたからだ。指先で筆箱の滑らかな表面をなぞるたび、僕は祖母の手の温もりを思い出し、それが僕にとっての最高の「勇気」になった。


 ある冬、遠足のしおりが配られた。「おやつは三百円まで」。

 1980年代において、三百円は決して少なくない金額だ。けれど、我が家にとっては慎重に検討されるべき出費だった。

 祖母が「これで一番食べたいのを買っておいで」と言って手渡してくれた三百円を握りしめ、僕は学校帰りに近所の駄菓子屋へ向かった。

 薄暗い店内、色とりどりのラベルが貼られた瓶。僕は一時間近くも悩んだ。板チョコを買えば、それだけで予算の三分の一が消えてしまう。小さなクッキーや、当たり付きのガム。何度も何度も計算を繰り返し、ようやく選んだのは、小さなチョコレートを三つと、残りの小銭で買えるだけの飴やラムネだった。

 当日、そのチョコレートを一粒口に含む。口の中に広がる甘さは、僕の知らないどこか遠くの世界へ連れて行ってくれるような、懐かしくも鮮烈な幸福の味がした。

 遠足の昼食時間、友達の弁当箱には、冷凍食品や華やかなおかずが所狭しと並んでいた。

 僕が広げたのは、祖母が朝早くから火を使って作ってくれた弁当だ。

 中身はシンプルだった。少し焦げた卵焼き、たこさんの形に切られた赤いウインナー、そして、真っ白なご飯の真ん中に鎮座する一粒の梅干し。

 「あ、おばあちゃんが詰めてくれた梅干しだ」

 隣の友達の弁当の方が派手だったけれど、僕は自分の弁当箱を見つめて、自然と笑みがこぼれた。この真っ赤な梅干し一粒に、祖母の愛情がぎゅっと凝縮されているような気がしたからだ。冷たい風が吹く中で食べたその弁当は、僕の胸をじんと、深く温めてくれた。

 「楽しかったね、光一?」

 帰宅すると、祖母は台所仕事の手を止めて、僕を最高の笑顔で迎えてくれた。

 僕は「うん」と答え、大切にポケットにしまっておいたチョコレートの包み紙を見せた。祖母は「よかった、よかった」と、自分のことのように喜んで笑った。その笑顔を見ているだけで、今日という日が僕にとって、どんな贅沢よりも特別な価値を持つものに変わった。


 夜、父が帰宅する。

 彼のジャンパーは泥と汗の匂いが染み付き、肩は心なしか、朝よりも一段と丸まって見える。

 「お疲れさま」と声をかける祖母に、父は無言で頷き、差し出された熱いお茶をすする。その背中の横で、僕は算数の宿題を広げていた。

 「勉強、がんばれよ」

 父が僕の頭を、節くれ立った大きな手で一度だけ撫でた。その手は驚くほど荒れていたけれど、そこには言葉にならない不器用な優しさと、期待が込められていた。

 夜の台所には、黄色い裸電球の光が優しく降り注いでいる。


 翌朝の準備をする祖母が、小さく鼻歌を口ずさみながら鍋を火にかけている。その鍋から立ち上る湯気の向こう側で、僕の家族の時間は、静かに、けれど確かに刻まれていた。

 僕はその音と匂いを聞きながら、冷えた布団に潜り込む。窓の外では九州の冷たい冬の風が戸を鳴らしているけれど、家の中は家族のぬくもりで満ちていた。

 豊かさなんて、当時の僕には必要なかった。

 いや、自分たちが「持っていない」ことすら、大した問題ではなかったのだ。

 そこに母はいなかったけれど、それ以上に確かなものがここにはあった。

 大人になった今、あの時の自分に伝えたい。

 あの時、僕を包んでいたもの。それは、お金でも物でもなく、「愛情」という名の、何よりも明るい光だったのだと。

 冬の光が障子の隙間から畳の上に小さな光の四角形を作り、ゆっくりと動いていく。

 その光の上にそっと自分の小さな手を置くと、微かな熱が宿っていた。

 僕はそれを確かめるように、指を大きく広げてみた。

 そして、静かに、深く息を吐く。

 その瞬間、なぜか胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。

 外の風はまだ鋭く冷たいけれど、

 僕の心の中には、もう消えることのない、春の兆しが確かに息づいていた。


最後まで読んで頂きありがとうございます


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