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あの日からずっと、彼女の瞳にはまだ僕の顔が映っている

作者: 琥珀さん

  「もし龍也君の顔があたしの記憶の中でだんだんぼやけていったら、それでもあたしのこと、好きでいてくれるの?」


  あの時、彼女――佐藤桜子がそう言った。僕の一生の中で、絶対に忘れられない言葉だ。



  ×××××



  誰にでもそれぞれの趣味があるだろう。


  絵を描くことでも、歌を歌うことでも、本を読むことでも。ほとんどの人は、自分だけの好きなことを持っているはずだ。


  そして僕、高橋龍也の趣味と言えば、写真を撮ることだ。


  この世界の美しい瞬間をシャッターで切り取る、それは、日々この世界の素晴らしさを体感できる、僕にとって最高だ!


  この日、放課後もいつものように写真部へ向かうつもりだった。だが、部室の前まで来たところで、部長から思いもよらない知らせがあった。


  「先生たちが何か特別な用事で部室を使うらしいんだ。今日は部活動中止だよ。」

  「マジかよ?そんな重要なことがあるんですか?部室まで使うなんて……」

  「詳しいことは僕も知らないけど、とにかく今日は解散。来週、またみんなでここに集まろう。」


  そう部長が宣言したので、仕方なくその日は解散することになった。


  学校を出た後、まだ夕食までには時間がありそうだので、一人で景色を撮りに行くことにした。


  今は午後3時半、このまま山の頂上で夕日を撮ろうと思い立つ。


  日没の時間を考えれば、今すぐ出発すれば午後5時頃には目的地に着き、山頂に登るのに1時間ほどかかる計算だ。


  ちょうど良い時間だぞ!そう思った僕は、すぐに最寄りの駅へ向かい、郊外行きの電車に乗り込んだ。


  電車の窓から流れる景色はまるで動く絵画のようだ、写真好きの僕にとって、そんな一瞬の美しさを見逃すわけにはいかない。


  陽光が窓を通して車内に降り注ぎ、光と影のコントラストを作り出していた。


  それをカメラに収めようと、僕はレンズを調整しながら、瞬間的な光の魔法を捉えようとした。


  電車が都市の喧騒を抜け、次第に郊外の静けさへと進んでいく。


  田園、小川、遠くに連なる山々――そのすべてが僕のカメラの主役だった。


  ふと、疲れを感じた、学校での忙しい一日、そして撮影に夢中になったことで、気づかないうちに瞼がどんどん重くなっていった。


  カシャ――


  シャッター音もぼんやりとしていく。座席に身を預け、手の中のカメラがゆっくりと膝の上に滑り落ちる。


  そしてそのまま、僕は静かに眠りに落ちてしまった


  「あの……高橋くん、もうすぐ終点だよ。」


  どれくらい眠っていたのだろう、耳元で響いた柔らかな声に、僕は重たいまぶたをゆっくりと開けた。


  すると、目の前には見知らぬ女の子が立っていた、彼女の瞳は澄んでいて、笑顔はとても温かい、手には、僕のカメラを持っていた。


  「えっ?あっ、すみません!寝ちゃってましたね。本当にごめんなさい……」


  慌てて体を起こし、彼女からカメラを受け取りながら、僕は申し訳なさそうに言った。


  「ううん、大丈夫よ。」


  彼女はそう言って、首を横に振った。


  数秒後、僕はある違和感に気づいた。さっき、彼女は確かに僕のことを「高橋くん」って呼んだよな?


  つまり、彼女は僕のことを知っている……?


  「えっと……ちょっと聞いてもいいかな。」

  「うん?」

  「僕たち……知り合い?」

  「え?」


  彼女は驚いたように首をかしげる。それに慌てた僕は、両手を振りながら慌てて弁解した。


  「い、いや、誤解しないで!ただ、どうして僕の名前を知っているのか気になっただけで……」

  「ああ、それね!ごめんね、自己紹介するの忘れてた。あたしは佐藤桜子。隣のクラスの生徒よ。いつもよく龍也君見かけるから、自然と名前を覚えちゃったんだ。」


  そう言って、彼女は笑顔で説明してくれた。


  そうだったのか。隣のクラスの子だったのか。


  それなら確かに何度か見かけた気がする。でも、彼女のことは特に気に留めていなかった。だって、僕たちはこれまで特に接点がなかったから。


  「そ、そうか……」

  「うんうん!そういえば、高橋君も郊外に行くの?」

  「あっ、はい、今日は郊外の山に行って、夕日を撮ろうと思ってて。」

  「ええ~、そうなんだ!」


  彼女の目がキラキラと輝くように見えた。そして、さらにこう続けた。


  「実はあたしも今日、そこに夕日を撮りに行こうと思ってたんだ!」

  「えっ?本当に?」

  「本当本当!」

  「それはすごい偶然だね。」


  その後、僕たちは電車の中で話を始めた。話していくうちに、僕たちには共通の話題がたくさんあることに気がついた。


  桜子というこの女の子も、僕と同じように写真が大好きだったのだ。


  「目で景色を見られるって、本当に素敵なことだよね~。」


  桜子は窓の外の景色を見ながら、ぽつりと呟いた。


  「うん、本当にそうだ。目って、この世界で一番素晴らしいものかも。」

  「だよねだよね、あたしもそう思う!」


  話に夢中になっているうちに、いつの間にか電車は郊外の駅に到着していた。僕と桜子は一緒に電車を降りた。


  「どうやら同じ道を行くみたいね、一緒に行かない?」


  桜子が提案してくれた。


  「いいよ、どうせみんな目的地は同じだしね。」


  僕がそう答えると、桜子はにっこりと笑って言った。


  「よし、それじゃ、行こう!」


  僕たちは駅の出口へ向かって歩いていった。


  夕日の柔らかな光が僕たちに降り注ぎ、この偶然の出会いに温かい彩りを添えてくれていた。


  道中、僕たちはお互いの写真撮影の経験やテクニックを語り合いながら歩いた。


  気がつけば、僕たちはすっかり友達になっていた、この思いがけない出会いは、僕の写真旅に新たな期待と楽しみを加えてくれた。


  そして、ようやく山頂にたどり着いた時、僕はもうほとんど言葉が出ないほど疲れていた、大きな岩に背中を預け、肩で息をしながら額から流れる汗を拭った。


  もちろん、桜子も同じような状態だった、膝に手をついて息を整え、運動の後の赤みがかった顔が夕日に映えていた。


  「どうやらもっと運動が必要みたいだね……」


  僕がそう言うと、桜子は少し息を切らしながら答えた。


  「軽やかに登れるかと思ったけど、さすがに無理だったよ。」

  「女の子はみんな軽やかに舞う燕のようだと思ってたけど、佐藤さんにもこういう一面があるんだね。」


  僕は笑みを浮かべながらからかってみた。


  桜子は顔を上げて僕を軽く睨んだが、その後すぐに笑顔を浮かべた。


  「そりゃあたしは女の子だもん。体力切れするのは当然でしょ?それより、高橋君こそ男のくせにこんなに息切れして、恥ずかしくないの?」


  「まあね……正直、体力には自信ないんだよね。僕は走るよりシャッターを切る方が得意だから。」


  そう自嘲気味に言いながら、僕は周りの景色を指さした。


  「でもさ、これだけの景色を見るためなら、どんな疲れも報われるよ。」


  桜子は僕が指さした方向に目を向けた。その瞬間、桜子の顔に浮かんでいた疲労感は驚きと喜びに取って代わった。


  「あ~本当にきれい……!」


  桜子は夕日の景色に目を輝かせながら、感嘆の声を漏らした。


  その瞳には、夕陽の残光が映り込んでいて、まるで興奮の光が宿っているかのようだった。


  「だよね、これが今日僕がどうしても撮りたかった景色なんだ。」


  僕はカメラを取り出し、撮影の準備を始めた。


  僕たちは視界の広がる場所を見つけ、三脚を立てて、それぞれのベストショットを狙い始めた。


  僕は夕日の細部を捉えることに集中し、桜子はその隣で、夕日のシルエットを撮影しようとしていた。


  「高橋君、あの雲見て!色がどんどん変わっていくよ、すごくきれい!」


  桜子は興奮した声で天辺の雲を指さした。


  「確かに!こんなに美しいグラデーション、なかなか見られないよね。」


  僕も頷きながら、急いでカメラの設定を変えて、その一瞬を切り取った。


  時間が経つにつれ、夕日の光はどんどん柔らかくなっていった。


  僕たちは撮影に没頭しつつ、新しい技法にも挑戦してみた。


  僕は桜子にスローシャッターで流れる雲を撮る方法を教え、彼女は僕に逆光を使ったシルエット撮影のコツを教えてくれた。


  「こうしてみて。」


  桜子は僕のそばに寄り、そっとカメラのアングルを調整した。


  「この角度で撮ると、夕日の立体感がもっと出るはずだよ。」


  桜子のアドバイス通りにシャッターを切ると、画面に映った夕日と雲は驚くほど鮮明で、色彩も深みを増していた。


  「本当だ、すげえ!」

  「そんなことないよ、友達に教えてもらっただけだし。」


  桜子は謙虚に笑いながらも、どこか得意げな表情を浮かべていた。


  桜子の写真の腕前は、もしかすると僕よりも上かもしれない、なのに、なぜ彼女は写真部に入らないんだろう?少しだけ興味が湧いてきた。


  僕たちは撮影を続けながら、写真に関するあれこれを語り合った。


  夕陽がゆっくりと地平線の向こうへ沈むにつれ、空の色は橙から深い紫へと変わっていく。 


  その美しい光景に僕たちは夢中になり、時間が経つのをすっかり忘れていた。


  「あっ!あっち見て。星が出始めてるよ。」


  桜子が空を指さしながら言った。


  僕も空を見上げると、濃い青色の空にいくつかの星が瞬いていて、まるでこちらにウィンクしているようだった。


  「今日は本当にラッキーだね。こんな綺麗な夕日が撮れただけじゃなくて、こんな星空まで見られるなんて。」


  僕は微笑みながらそう言った。


  「うん、そうね。でも、地球の汚染がどんどんひどくなってるから、こんな星空を見るのも今じゃ本当に貴重だよね。」


  僕たちは顔を見合わせて笑い、再び撮影を続けた。


  静かな山頂で、僕たちはただ美しい夕日と星空をカメラに収めるだけではなく、大切な友情も手に入れたような気がした。


  やがて最後の一筋の夕陽が地平線に消え、夜の帳が完全に下りる頃、僕たちは撮影を終えて装備を片付けた。


  そして、二人で山を下り、帰りの電車に乗った。



  ×××××



  それ後、僕と桜子の関わりはどんどん増えていった。


  お互いに同じ趣味を持っていたからだろう、僕は一度、彼女を写真部に誘ってみたことがあったが、断られてしまった。


  理由はよくわからなかったけれど、僕は彼女の選択を尊重することにした。


  ただ、皮肉なことに、それ以来、僕は部活に行く回数が少なくなり、放課後はほとんど桜子と一緒にいろいろな場所を回って写真を撮るようになっていた。


  小さな昆虫から広大な自然の風景まで、僕たちはすでに数えきれないほどの写真を撮りためてきた。


  「ふう~今日もいい天気だ。」


  カーテンの隙間から差し込む陽射しが僕のベッドを照らす。


  眠たい目をこすりながら、軽く伸びをした、今日は桜子と市内の公園へ撮影に行く予定だ。


  桜子は公園の桜の木が大のお気に入りらしい。一方の僕は、ストリートフォトに挑戦してみようと思っている。


  「おやおや、休みの日にこんな早く起きるなんて珍しいこともあるものね。」


  洗面台で歯を磨いている僕を見た母さんが驚いたように声をかけてきた。


  休みの日はいつも昼近くまで寝ている僕が、今日は珍しく早起きしたものだから無理もない。


  「だって今日は大事な友達と約束があるからさ。」

  「へえ~その友達って誰かしら?うちの息子が早起きするなんて、もしかして……彼女だったりして?」


  母さんが鏡越しに僕をからかうような視線を送ってくる。慌てた僕は歯ブラシをくわえたまま弁解した。


  「ち、違うよ!ただの友達だって!もういいから、早く父さんの朝ごはん作ってあげなよ。そろそろ遅刻するんじゃねえか?」

  「お父さん、今日は仕事お休みだぞ~。」


  リビングから父さんの声が聞こえてきた。


  「え?休み?あ、そっか、今日は日曜日だ……」

  「その大事な友達のおかげで、細かいことに気づくうちの賢い息子も時間感覚を失ったみたいだなあ。」


  父さんまで冗談を飛ばしてきて、僕の顔は一気に真っ赤になった、穴があったら入りたい気分だ!


  「もう、そういうこと言うなよ!出かけるから!」


  顔についた水をタオルで拭き、撮影道具をカバンに詰めると、急いで家を飛び出した。


  本当にもう、父さんも母さんも!


  でも、桜子との時間が増えるにつれ、僕は自分の気持ちが少しずつ変わってきていることに気づいていた。


  彼女と写真を撮っているとき、彼女の笑顔や集中している時の真剣な瞳を見るたびに、胸がドキドキしてしまう。


  まさか……さっき両親の前で動揺したのも、僕が桜子のことを好きだからなのか?


  ハハハ~そんなわけねえだろ!何をバカなことを考えてるんだ。僕たちはただ同じ趣味を持つ友達でしかない。 


  それ以上なんてありえない。


  ……とにかく、早く桜子に会いに行こう。


  約束していた公園の入口に到着すると、ちょうど桜子が少し先の方から姿を現した、どうやらほぼ同じタイミングで到着したようだ。


  桜子は白いシンプルなワンピースを身にまとい、手にはいつものカメラを持ち、穏やかな微笑みを浮かべている。


  「おはよう、龍也君。」

  「おはよう、桜子ちゃん。今日は天気もいいし、撮影日和だね。」

  「そうね!さっそく行こうか。」

  「うん!」


  僕たちは公園の中へと足を踏み入れた、入口付近にある立派な桜の木の下には、すでにたくさんの観光客が集まっていた。


  僕は早速カメラを取り出し、撮影に適した角度を探し始めた、その一方で、桜子は桜の細部を撮ろうと夢中でピントを合わせている。


  「桜子ちゃん、ここから撮るのはどう?」


  桜子のそばに行きながら、ある方向を指差した。


  「この角度なら桜と背景の建物が一緒に写るし、なんだか現代と伝統が融合している感じがしない?」


  桜子は僕が指した方角を見つめ、目を輝かせた。


  「わあ、この角度いいね!さすが龍也君、センスがあるね。」


  僕たちはお互いの撮影テクニックを交換し合いながら、桜の木の下で時間を過ごした。


  僕は光と影を使って写真に立体感を出す方法を説明し、桜子はポートレート撮影のちょっとしたコツを教えてくれた。


  正午を少し過ぎた頃、近くのカフェで休憩することにした。


  カフェにはコーヒーの香ばしい香りが漂い、窓際の席に座ると外には賑やかな街並みが広がっていた、学生たちがショッピングを楽しむ姿も見える。


  「ねえ、龍也君は普段、写真以外にどんな趣味があるの?」


  桜子がコーヒーをかき混ぜながら尋ねてきた。


  「読書かな。特に写真とか旅行に関する本が好きなんだ。桜子ちゃんは?」

  「あたしは絵を描くのが好きよ、特に水彩画が得意かな。絵を描くのって写真と似てると思うんだよね、美しい瞬間を切り取るっていう意味で。」

  「なるほど、いい趣味だね。実は僕も昔、絵を習おうかと考えたことがあったんだけど、不器用すぎて結局諦めちゃったんだ。」


  自嘲気味に笑いながら、僕は小さい頃の苦い思い出を思い出す。


  幼稚園や小学校の美術の授業では、僕の絵はクラスメートに笑われることが多かった。


  先生は僕を励まそうと褒めてくれたけれど、それが単なるお世辞だってことは子供ながらにも気づいていた。


  「そんなに難しく考えなくてもいいのに。絵を描くのってコツさえ掴めば誰でも上手くなるんだよ。よかったら今度教えてあげるよ。」

  「いや……やっぱり僕には向いてないと思うよ……」

  「そんなこと言わないでよ、試してみないとわからないでしょ?次の機会に教えてあげるから!」

  「まあ、桜子がそこまで言うなら……」


  僕たちの会話は心地よい時間とともにゆっくりと流れていった。


  カフェで一息ついた後、僕たちは街へ繰り出し、ストリートフォトに挑戦することにした。


  僕は街の瞬間的な出来事を切り取るのが好きだが、桜子は人々の表情や仕草を撮ることに興味があるようだ。


  街を歩いていると、僕はおじいさんと小さな子供が楽しそうに触れ合う温かい瞬間をカメラに収めた。


  一方、桜子は街頭アーティストが全身全霊でパフォーマンスをする瞬間を見事に撮っていた。


  「桜子ちゃん、この写真どうかな?」


  僕は自分の撮った写真を彼女に見せながら、興奮気味に聞いた。


  「わあ、すごい!龍也君ちゃんとその瞬間の温かさが伝わってくるよ。」

  「桜子ちゃんの写真も素晴らしいよ。いつも人の感情を本当に生き生きと捉えてるよね。」


  夕陽が西の空に沈む頃、僕たちは撮影を切り上げ、帰り道で今日撮った写真を見せ合いながら語り合った。


  「今日は本当に楽しかったよ、龍也君と一緒に撮影すると、いつも新しいことを学べるんだ。」

  「僕も同じだよ。桜子と一緒だと、新しい視点がどんどん見つかる。」


  僕は笑顔で答えたが、胸の内は少し複雑だった。


  ずっと自分に言い聞かせていた。これはただの友情、共通の趣味を通じて深まった関係だと。


  だけど、一緒にいるたび、桜子の笑顔や真剣なまなざしを見るたびに、どうしても心臓が早くなる自分を抑えられなかった。


  その瞬間、僕は自分の気持ちが友情の枠を超えていることを初めて自覚した。


  桜の木の下を歩いていると、風が吹き、花びらがひらひらと舞い落ちる。


  深呼吸をし、勇気を振り絞って、ついに言おうと決心した。


  「桜子ちゃん、実は僕……」


  言葉を口にした途端、声が喉に詰まったようになり、なかなか続けられない。


  なんだよこの喉が!早く言え!


  内心、自分に何度も叱咤した。


  そして、ようやく声が出た――と思った瞬間だった。


  「好きだ!」


  その声をかき消すように、一台の救急車がサイレンを鳴らしながら僕たちのすぐそばを通り過ぎた。


  耳をつんざくような音に、桜子は驚いたように振り向き、救急車が遠ざかるのを心配そうに見つめていた。


  「大丈夫かな……」


  さくは小さな声で呟くと、再び僕の方を振り返った。


  「あっ!高橋君、さっき何か言ったの?」


  彼女の無邪気な問いに、僕は一瞬ためらった、言うべきか言わないべきか――心の中で葛藤が渦巻いていた。


  結局、僕は言わない方を選んでしまった。


  「いや、何でもないよ。今日は撮影が本当に楽しかったなって、それだけ。これからもよろしく!」


  そう言いながら笑顔を作った僕に、桜子は気づかず、いつものように微笑んだ。


  「うん!いつでもよろしくね~!」


  彼女の笑顔が眩しくて、僕は心の中で小さな後悔を抱えながら歩き続けた。


  その時、桜子が立ち止まり、僕の方を振り返った。


  「龍也君、明日の午後、病院に付き合ってくれない?」


  突然の申し出に、僕は驚いて立ち止まった。


  「病院?どうかした?具合悪い?」


  「大したことじゃないよ。最近、目が少しぼやけることがあって、多分目の酷使だと思うけど、念のため検査しようと思って。」

  「そうか……わかった。明日の午後、桜子ちゃんの家まで迎えに行くよ。」

  「はい~ありがとうね、龍也君!」


  桜子は笑顔で手を振ってその場を去った。


  僕は、その笑顔を見送りながら、救急車のサイレンにかき消された言葉を再び伝えられる日が来るのだろうかと考えていた。


  けれど一つだけわかるのは――何があっても、僕は桜子のそばにいるということだ。



  ×××××



  「どう?大丈夫だった?」


  午桜子が病院で検査を終えた後、僕は結果を尋ねた。

  だが、彼女の顔はどんよりと暗く、その表情だけで結果を察することができた。


  どうやら、状況は思ったより深刻なようだ。


  彼女は答えず、ゆっくりと顔を上げ、僕の目をまっすぐに見つめた。


  「龍也君……あたしと一緒に、ある場所に行ってくれる?」


  桜子の声はかすかに震えていた。


  「もちろん。どこでも桜子ちゃんが行きたい場所なら、一緒に行く。」


  僕は即座に答えた。胸の奥に広がる不安を押し殺しながら。


  彼女が連れて行ったのは、僕たちが初めて会話を交わしたあの日と同じ電車、そして同じ目的地だった。


  けれど、今回はあの時とはまるで違う、重い沈黙に包まれていた。


  僕は何とか言葉を繋げようとしたが、桜子はほとんど反応せず、うなずきや短い相槌で応じるだけだった。


  そしてついに、僕たちはたどり着いた。あの山頂。初めて一緒に夕日を撮影した場所。


  夕陽が西へと沈み始め、空が温かい橙色に染まっていく。


  桜子は静かに山頂の縁へ歩み寄り、遠くの景色を見つめた、深く息を吸い込んでから、僕の方に向き直る。


  「龍也君……あたし、目が悪くなってきてるの。お医者さんが言ってた。もうすぐ、何も見えなくなるって。」


  桜子の声は震えていたけれど、その目には何とか平静を保とうとする決意が見えた。


  その言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた。頭が真っ白になり、息が詰まる。


  僕は桜子を見つめた、桜子の目には涙が光り、こぼれそうになっていた。だが、僕にはどうすることもできなかった。


  病院を出てからの彼女の表情が暗かった理由がようやく分かった。


  視力を失うということは、写真を愛し、それを生きがいとしてきた桜子にとって、あまりにも残酷な運命だ。


  「桜子ちゃん……」


  僕の声も震え、どう言葉を紡げばいいのか分からなかった。


  「受け入れるのは簡単じゃないけど……まだ見えるうちに、もう一度ここに来ておきたかったの。」


  桜子は無理に微笑もうとしたが、涙が次々と頬を伝って流れていく。


  僕はそっと彼女の隣に歩み寄り、震える手を優しく握った。少しでも、力になりたいと願いながら。


  「桜子ちゃん、僕は……僕は君が好きだ。」


  思いが溢れ出し、気が付けば口にしていた。


  「あの日、ここで君と初めて話したときから、ずっと君に惹かれていたんだ。君の笑顔も、君の情熱も、君の全てが、僕の心を離れない。」


  このタイミングで告白するのは間違いかもしれない。けれど、僕の気持ちはもう抑えられなかった。


  桜子は驚いたように目を見開いた。そして、彼女の涙はさらに溢れ出した。


  それでも、彼女の目にはどこか、感動と喜びの光が見えた。


  「龍也君……」


  彼女の声がかすかに震えたまま、僕の名前を呼んだ。


  「龍也君……どう返事をしたらいいのか分からない、あたし、今は……未来がどうなるかなんて考えられない。それに、もし龍也君の顔があたしの記憶の中でだんだんぼやけていったら、それでもあたしのこと、好きでいてくれるの?」


  桜子の言葉は、彼女の不安や恐れがそのまま滲み出ているようだった。


  それでも、僕の心に迷いはなかった。


  「分かってる。でも、どうしても伝えたかったんだ。どんなことが起きても、僕は桜子ちゃんのそばにいる。たとえどんなに険しい道だって、一緒に歩いていくよ。」


  僕の言葉には、精一杯の覚悟を込めた。


  桜子は驚いたように僕を見つめ、それからそっと手を握り返してくれた。


  その瞳には涙が溢れていたけれど、彼女は笑顔を浮かべていた。


  「ありがとう、龍也君。君がいてくれるだけで……あたし、独りじゃないって思える。」


  僕たちはそっと抱きしめ合った。


  沈みゆく夕陽の温かな光が僕たちを包み込み、まるで僕たちの勇気と想いを優しく祝福してくれているようだった。


  未来がどれほど辛いものであったとしても、僕たちなら乗り越えられる。


  僕はそう信じている、これからもっと写真の技術を磨こう、桜子が見た「美しい瞬間」を、一枚でも多く写真に収めるために。


  彼女の視界が閉ざされる日が来たとしても、僕の心の中でそのすべてを永遠に残していくために。


  そして僕の想いは、これからも日々の朝日と夕陽の中で、桜子と共に歩み続けるだろう。


  しかし、現実はいつだって想像よりも残酷だ。


  ある日の放課後、いつものように待ち合わせた僕たちだったが、桜子は思いもよらない言葉を口にした。


  「高橋龍也、あなたのその楽観的な態度、あたしにとってこの世で一番辛いことなの。」


  その一言を聞いた瞬間、僕は思わず言葉を失った、何かを言おうとしたが、桜子はそれを遮るようにその場を去り、振り返りもせずこう告げた。


  「ごめんなさい。もうあなたとは一緒に付き合えない。」


  僕はただ呆然と立ち尽くした、桜子の言葉は鋭い刃のように僕の心を突き刺した。


  どうして僕の楽観が彼女にとって苦しみになるのか、なぜこんな突然の別れを告げられたのか、全く理解できなかった。


  気がつけば桜子の姿は視界から完全に消えていた。追いかけなければ、話さなければ、彼女に自分の気持ちを伝えなければと思った。


  二人で歩いた公園、通い慣れたカフェ、撮影を楽しんだ街角――さの影を求めて走り回ったが、どこにも彼女はいなかった。


  絶望に飲み込まれそうになったその時、遠くで救急車のサイレンが鳴り響いた。その音が僕の止まりかけていた心を再び動かした。


  「まだだ、まだ探さないと。」


  桜子の視力は日に日に悪化していた。日が落ちてしまえば、彼女はきっと何も見えなくなってしまう。そう思うと、体が自然と動き出した。


  僕は鉄道の線路沿いで一台のスマホを見つけた、それは――間違いなく樱子のものだった。


  胸の中に嫌な予感が広がる、震える手でスマホを拾い上げると、画面にはひとつの録音ファイルが表示されていた。


  心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、僕はそのファイルを再生した。スマホのスピーカーから聞こえたのは、樱子の震える声だった。


  「龍也君、あたしを笑顔にしようとしてくれるのは、本当に嬉しかった。でも、それと同時にすごく怖かったの。視界がぼやけるたびに、君を失うんじゃないかって思って、もっともっと怖くなるんだ。君の姿が見えなくなってしまうのも、君の顔を思い出せなくなるのも、そしてこの世界が突然真っ暗になってしまうのも、全部怖いの……あたしは君の足枷にはなりたくないし、光を完全に見えないあたしを君に見せたくない。ごめんね、あたしのわがまま許して。最後に、龍也君、あたしは君をずっとずっと愛してるよ、永遠に……」


  その声を聞きながら、僕の目から涙が溢れ出し、視界が滲んでいった。


  彼女があの言葉を口にした理由、突然いなくなった理由、全てがその瞬間に繋がった。


  そして同時に、一つの考えが頭をよぎる――もしかして、さっきの救急車は……


  「ヤバっ!桜子ちゃん!」


  僕は救急車の向かった方向へ全力で走り出した。


  病院にたどり着いた僕が聞かされたのは、絶望的な知らせだった。


  桜子は――救急車で運ばれた後、命を救うことができなかったのだという。


  その場に膝をつき、彼女のスマホを握りしめたまま、僕は声を上げて泣いた。


  泣いても泣いても、心の痛みは消えない。僕の世界はこの瞬間、音を立てて崩れ落ちた。


  どれだけの時間、泣き続けたのだろうか。やがて僕は、ふと彼女の残した録音の最後に思い至った。


  もう一度、彼女の声を聞きたい、彼女が最後に僕に伝えたかった言葉を。


  再び再生ボタンを押すと、桜子の弱々しい声が耳に届いた。


  「龍也君、どうかこれからも楽観的に生きて。あたしのためにそうしてくれたみたいに。あたしのことを忘れないでいて。でも……前に進んで。」


  その言葉を聞き終えた時、僕の心は悲しみと愛情で押しつぶされそうだった。


  桜子はきっと、僕が笑顔で生きていくことを望んでいる。でも、桜子のいない日々が完全なものにならないこともまた、僕は知っている。



  ×××××



  重い足取りで家に帰った僕の顔には、乾いた涙の跡が残っていた。


  それでも、痛みに歪む表情は隠しきれなかった、玄関を開けた瞬間、母さんが僕の異変に気づいた。


  「龍也、どうしたの?何かあったの?」


  母さんの声には深い心配が込められていた。


  その眼差しに応えるように顔を上げた瞬間、胸に押し込めていた感情が再び溢れ出した。


  僕はこらえきれず、また泣き始めた。


  その声を聞きつけた父さんも急いでやってきて、二人は僕を囲むようにしてそっと背中に手を当ててくれた。


  「龍也、一体どうしたんだ?」


  父さんの落ち着いた声は、弱った僕に少しの力をくれた。


  僕は嗚咽を堪えながら、樱子にまつわる全てのことを二人に話した。


  共通の趣味だった写真撮影、彼女への想い、病状の悪化、そして最後に訪れた悲劇……


  声が震え、視界は涙で滲む中、僕は一言一句絞り出すように話した。


  話し終えたとき、二人は深い沈黙に包まれた。


  母さんの目には悲しみが浮かび、そっと僕を抱き寄せた。そして、優しく語りかける。


  「桜子ちゃんはね、龍也が幸せに生きることを望んでいると思うよ、彼女がそれほど龍也を愛していたんだから。」


  続けて父さんは僕の肩を軽く叩き、母さんの言葉に重ねるように言った。


  「龍也、人生ってのは時に残酷だ。何が起こるかなんて、僕たちには分からないし、変えることもできない。だけど、どう向き合うかは、自分次第なんだ。桜子ちゃんを失ったのは辛いことだけど、彼女の愛はきっとこれからもお前の中で生き続ける。」


  僕は母さんを力いっぱい抱きしめた。


  その温かく安全な胸の中で、僕は溜まっていた全ての悲しみと苦しみを解き放つように泣いた。


  母さんの手が優しく僕の頭を撫で、父さんは肩に力強い手を置いてくれていた。


  僕は桜子の愛と希望を胸に、彼女の笑顔を忘れず、彼女の温もりを忘れず、彼女の目として、勇気を持って前へ進んでいこう。



  ×××××



  それから何年も経ち、僕はあの頃の青臭かった高校生から、大人へと成長していた。


  時の流れが多くのものを奪っていったけれど、桜子の記憶だけは僕の心に深く刻まれている。


  今でも僕は写真を撮り続けている、それはただの趣味だけではなく、桜子と共に過ごした大切な思い出の一部だからだ。


  その日、天気は快晴で、しかも休日だった、僕はふと、あの頃二人でよく訪れた公園に行ってみることにした。満開の桜を写真に収めるために。


  桜の木の下で僕はカメラの設定を調整しながら、風に舞う花びらを捉えようとしていた。


  その時、不意に聞き覚えのある声がした。


  「すみません、写真を撮ってもらえませんか?」


  振り向くと、そこには一人の女性が立っていた、彼女は澄んだ笑顔を浮かべ、手にカメラを持っていた。


  その目、その声——まるで桜子が目の前に現れたかのようだった、僕は驚きで固まり、一瞬、時間と空間が凍りついたように感じた。


  「ごめんなさい、もしかしてお邪魔でしたか?」


  彼女は少し申し訳なさそうにそう言った。


  「あ、いや、全然。むしろ喜んで撮らせていただきます。」


  僕は手を振り、答えた。


  彼女は安心したように微笑み、僕にカメラを渡した。


  そのカメラを受け取ると、胸の奥に妙な感覚が湧き上がるのを感じた。


  彼女と一緒に良い撮影スポットを探しながら、僕は彼女の写真を撮り始めた、彼女は桜の木の下でいろいろなポーズを取っていた。


  「あなたも桜の写真撮りに来たんですか?」


  僕は心を落ち着かせるように努めながら、話しかけた。


  「はい。桜が大好きなんです、儚くて美しいところが特に……まるで人生の一瞬の輝きみたいですよね。それに、普段から桜をテーマにした水彩画の展示を見るのも好きなんです。」


  その言葉に僕の胸がドキリとした、それは、かつて桜子がよく口にしていた言葉だった。


  僕は彼女を見つめながら、言葉にできない感情に包まれていた。


  撮影が終わり、カメラを彼女に返した。


  「ありがとうございます。とても素敵に撮っていただきました。」

  「いえ、こちらこそ、お手伝いできて嬉しいです。」


  その後、僕たちは公園のベンチに座り、写真や桜について語り合った。


  写真に対する彼女の熱意や美的感覚には驚かされた、彼女は桜子のように、美を独自の視点で捉える力を持っていた。


  「僕は高橋龍也と言います。ところで、まだあなたのお名前を伺っていませんでしたね。」


  僕は少し勇気を出して尋ねた。


  「佐藤美紀といいます。高橋さん、お会いできて嬉しいです。」


  僕たちは話に夢中になり、気づけば夕陽が沈み始めていた。


  その時僕は悟った。時間を巻き戻すことはできないけれど、人生には新しい出会いが訪れるものだと。


  美紀との出会いは、僕の心に再び温かな光を灯してくれた。


  それが新たな始まりを意味するのかは分からない。


  でも、僕はこの出会いを大切にしたいと思った。桜子との思い出を大切にしてきたのと同じように。


  「高橋さん、もしまた機会があれば、一緒に写真を撮りましょうね。」


  別れ際、美紀はそう言ってくれた。


  僕は微笑みながら頷いた。心の中に期待が芽生えるのを感じた。


  「お!楽しみにしています。」


  僕はそう答えた。


  美紀の背中が遠ざかるのを見つめながら、僕はそっと心の中で呟いた。


  ——これが運命というものなのかもしれない。


  桜が再び満開を迎えたこの季節、僕は桜子にそっくりな女性と出会った。


  彼女は僕に、共通の趣味を通して見知らぬ人と繋がる喜びを再び思い出させてくれたのだった。

  


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