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8 野瀬



「お、先生」

「おはよう。野瀬(のせ)くん」


 沖島が軽く笑むと、野瀬はがっしりとした腕で固定していた小さな豆挽きから手を離した。

 精悍な顔に、大きな口。いかにも心身ともに鍛え抜かれた男が、人好きのする笑みを浮かべて沖島に向かって手招きをする。


「一杯どうですか」

「では、ありがたくいただこうかな」


 沖島はふらりと立ち寄ることにした。

 確か、青井が買い付けているのはこの店の珈琲豆だ。

 大きなカウンターテーブルと豆の並んだ棚の間で、野瀬は狭そうにちょこまかと動いている。


 元は外の軍部の人間だったと、瓦町に来たばかりの頃に話を聞いたことがある。その頃から変わらない身体つきを見れば、こうして豆だけを挽いているわけではなさそうだ。


 沖島は懐のスズを指先で撫でる。


 野瀬は三十一まで外で育った人間だ。

 この珈琲店は、野瀬の風貌とはあまりにもかけ離れた細い爺さんが営んでいた。銀縁の丸眼鏡に、黒いエプロンに蝶ネクタイをして「イメージ戦略です」と言いきる人の良い爺さんだった。野瀬はその孫に当たる。似ても似つかないが、蝶ネクタイが少し左に曲がっているところを見ると、ああ、あれの孫なんだな、と微笑ましくなる。野瀬はレジの上に、爺さんの眼鏡も置いていた。埃が積もることなく、いつ見ても磨かれているそれを見て、沖島だけではなくどの住人も新しい店主を徐々に受け入れていった。


 何よりも、外から来たというのに、野瀬は無駄な親しさや陽気さが一切無く、煙たがれなかったのが大きな理由だろう。彼は来て早々、この住人尾距離の取り方を身につけて振る舞っていたので、馴染むのは早かった。


「もう五年になるね」


 沖島は、お湯を沸かす野瀬を見てのんびりと尋ねた。

 スズはしっかりと気配を消している。野瀬は沖島の懐が膨らんでいることに気づいて、穏やかな笑みを浮かべた。沖島が鼻の先に人差し指を当てると、うんうんと頷く。


「僕が来て、ですか? そうですね」


 このずんぐりむっくりした筋肉で覆われた男は、自分を「僕」と呼ぶ。それが妙にしっくりくるのだから、この周辺の爺さん婆さんが受け入れているのも無理はない。


 ここは一階部分が商店になった長屋が、石畳を挟んで向かい合っている。

 五番通りが花家紋の提灯だったのに比べ、こちらは店名で溢れかえっている。八百屋、鮮魚、酒屋、青果、と事細かに分かれて展開されている店の前の丸椅子には、どれも年季の入った老人たちが座って切り盛りしていた。本屋、着物屋や洋服屋と、店が競合することなく脈々と受け継がれている。四番通りは瓦町の要だ。そこに、ぽっと入り込んだ野瀬の人柄を、この五年で沖島も理解していた。


 この男は害をなさない。


「どうだい、慣れたかな?」


 沖島の親しげな笑みに、野瀬が濾紙の上に挽いた豆に熱湯を細く注ぎながら答える。よく頷くのは癖のようだ。


「はい。あっという間ですね」

「君は来てすぐに馴染んでいたからね。秘訣を聞いても?」

「ええ?」


 野瀬が苦笑する。


「ありませんよ、そんな。秘訣だなんて。ただ町のみなさんがよくしてくれているだけですから」

「いやあ、あそこに並んでいる彼らはなかなか手強いよ?」

「そうですか? 毎日珈琲を飲みに来てくださいますし、ケーキの差し入れまでくれますよ」

「恵まれてるなあ」

「そんな。どうぞ」

「ありがとう」


 差し出された焼きものの珈琲カップを受け取る。

 青井の店で出される珈琲よりもほんの少し味わい深いそれを、沖島はゆっくりと飲む。


「美味しいよ。これ、茶屋で出されるものと同じだね」


 野瀬がぱっと顔を輝かせた。


「ええ。そうなんです」

「爺たちは違いがわからない?」


 聞くと、苦笑が返される。沖島は笑んで肯定を受け流した。本題に入る。


「ああ、そうだ。青井くんが今朝早くに急な用事で出てね。私に美禰くんを預かってほしいと連絡をしてきた。ついでに仕入れ関係にも根回しをしてほしいとのことだ」

「青井さんが?」


 野瀬は眉をほんの少し持ち上げた。

 青井と親交があるようだ。几帳面で生真面目である青井の行動ではないと思っているのだろう。深く聞かれる前に、沖島は柔和な顔で軽く首を傾げた。


「珍しいことがあるもんだろう」

「ええ、本当に」

「彼は情に厚いところがあるから、外の友人に何かあったのかもしれないね」

「ああ、それならわかります。急いで駆けつけたんでしょうね」

「君はどう? 地元の友人から連絡は来ない?」

「来ますよ。まだ帰ってこないのかって。最初、僕が祖父の地元である瓦町に移住すると言ったら、周りはそれはそれは驚いて。軍人上がりがあんなところでやっていけるのかと――あ、いえ」

「外からだと、順応できずに体調を崩す者もいるからね。野瀬くんの身を案じたのだろうよ」


 失言してしまったか、と口を滑らせて焦った野瀬を気にとめず、珈琲を啜る。

 野瀬は、沖島自身も外の人間であると嗅ぎ取っている。

 どこか親しげで自分を見てほっとする瞬間があり、野瀬がどうしてそう感づいているのか尋ねてみたいとも常々思っていた。

 いい機会だ。

 沖島は静かにカップを置く。


「君は外から来た人間がわかるのかい?」


 野瀬は一瞬だけ瞳の奥を強ばらせたが、それを感じさせないほど、自然に驚いて見せた。


「なんです、いきなり」

「いや、何となくだよ。ここの住民は保守的で事なかれ主義が多い。その大部分はとにかく穏やかな気質が関係しているが、外から来た人間は……そうだね、とにかく覇気があって鬱陶しくもある」

「先生」


 野瀬が吹き出す。

 沖島は人差し指で宙に円を書いた。


「最初は必死に馴染もうとして陽気に振る舞うし、それが徒となってこのコミュニティを円滑に渡り歩ける者はほとんどいないよ。まあ、入ってくる者も少ないがね」

「そうですね。わかります。うん。僕は、空を見上げている人を見ると、ああ、この人は太陽を探しているんだな、と思うんです。いないですか? そんな人」


 野瀬は表情と口をゆるめた。

 沖島は目を糸のように細めて優しく頷く。

 なるほど。野瀬はよく住人を観察している。きっと、外から来た人間をリストアップしている。


 沖島には、開けた店内のカウンターから、そっと道行く人間を観察している野瀬の姿が映像のように浮かんだ。

 左に曲がった蝶ネクタイに、黒いエプロン。筋骨隆々とした大男が、薄い目でじっと空を仰ぐ人間の些細な仕草を逃さんとしている。その目は鋭く、常人のそれではない。軍人のさながら、殺気を消しつつも眼光はどこまでも静かに射抜いている――


「君は、太陽を拝みたいかい?」


 沖島は尋ねた。


「いいえ」


 野瀬はけろりと即答した。


「もうここに慣れました。日を拝むと、灼けて散るんじゃないかとさえ思えるほどです」

「おや。立派な瓦町の住人だ」

「ありがとうございます」

「じゃあ、住民に受け入れられている君に頼みがあるのだが」

「なんでしょう?」

「茶屋の他の仕入先を知っているかな? 根回ししておいてくれると助かる。私も仕事が入っていてね」

「お安いご用ですよ。任せてください」


 野瀬が人懐っこく笑って胸を叩いた。


「助かるよ」


 沖島は空になった珈琲カップを置いて、ごちそうさま、と微笑む。

 野瀬は下げようと手を伸ばしたところで、ふと手を止めた。ちらりと何かを言いたげに沖島を見つめる。

 席を立ち欠けた沖島が首を傾げて促すと、野瀬は照れたように頭を掻いた。


「いえ。ちょっと、先生に頼みたいことがあったな、と思いまして」

「何を無くしたんだい?」


 聞くと、野瀬はやや目を泳がせたが、じっと見つめてくる沖島に観念するように躊躇いつつ口を開いた。


「あの、その、祖父の、時計を」

「なるほど」


 沖島は鷹揚と頷く。

 祖父の遺品を大切に使っている孫としては、さすがに言いづらかったらしい。額に汗を掻いている。


「それは困ったね」

「本当に」


 がっしりした肩を落とす野瀬に、沖島は慰めるような目を返した。


「いいだろう、承ろう」

「いいんですか。他にも仕事があるんじゃ」

「今すぐに探してやりたいのだが、あいにく担当のシロが不在でね。私が探すのではなく、あくまでも請け負うのはこの子たちだ」


 沖島は懐で微睡むスズを軽く持ち上げた。

 スズが身じろぎ、顔を左腕に埋める。

 野瀬が不思議そうに羽織に隠れている丸みを見下ろした。


「ケモノたち、ですか」

「ああ、そうだよ。シロの手が空いてからでも良いかな」

「構いません、僕はいつでも」

「ありがとう」

「いいえ。こちらこそ、助かります」


 息抜きの会話を装った根回しも、ついでに舞い込んだ仕事の請負も終えた沖島は、ゆっくりと立ち上がった。スズを抱えた左の袖から財布をとりだし、ことんと五百円玉をカウンターに置く。

 野瀬が焦って手を振る。


「結構です、僕が誘ったんですから」

「少ないくらいだよ。青井くんから頼まれたことを君に押しつけているのだから」


 沖島が五百円を滑らせると、野瀬は遠慮がちに受け取った。


「わかりました、では。仕入先は把握できているので、根回しはお任せください」

「頼んだよ。こちらも、シロが気が向き次第寄るよ」


 沖島は軽く手を挙げ、店を後にした。

 野瀬がどんな目で自分を見送っているのだろうかと、ほんの少し面白がりながらも、次に向かう先に神経は集中していた。

 目的は一つ。

 青果店の提灯だった。


 いつものようにふらりと歩き続けながら、いくつもの提灯を見送る。軒先で椅子に座る老人たちが、昨夜配られたうちわを皆持っている。沖島は向こうがうちわを上げれば会釈を返し、無反応な、一見眠っているような店番の前は静かに歩いておいた。


 社のおわす山側に近づいていく。


 瓦町でも、社側に向かうほど、地価は上がるらしい。沖島の住んでいる寺の山の麓など、誰も好き好んで住居を構えたりはしない。よって、家にこもる沖島に近づく住民もいない。


 好都合だった。

 沖島と住民は、つかず離れずの距離感だ。人間関係を築くと言うよりも、何気なく勝手に馴染んだそぶりで歩いているだけである。しかし、町に向かえば用事を何でも引き受けるので、ある種の信頼関係は構築できている、と思っている。


 彼らに対して好奇の目もせず、警戒心も持たず、ただただ静かに、社から離れた土地で暮らしていれば、この瓦町で生きていくことはそう難しいことではない。

 そうしていると、時間は過ぎていき、顔も覚え、覚えられ、親しい風になっていく。



「どうした、沖島」


 しゃがれた声が聞こえ、沖島は足を止めた。青果店の提灯から細い足が出て、薄い草履で足下の石畳を擦っている。

 沖島はひょいと顔をのぞき込んだ。


「やあ、トヨちゃん」

「やめんか」


 頭に白い手ぬぐいを巻いた薄小豆色の着物を着た老女が、顔の中心に皺を寄せてじろりと睨み上げた。持ち前の気の強さをなけなしの自制心で押さえようとする瞳が、ほんの少し濁っていることに、沖島は年月のむごさをひしひしと感じた。


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