7 シダ
「先生、ごめん、お待たせ」
とんとんと軽快な足音を響かせながら、美禰が降りてくる。
「これ。危ないよ。荷物は?」
「慣れてるから平気よ。先生が下ろしてくれたおかげでほら。手荷物だけ」
「じゃあ、戸締まりの確認を頼めるかい」
「はあい」
美禰は調理場に入ると、ガスの元を閉めたりとちょこまか動く。
気持ちはだいぶ切り替わったようだ。
「先生、冷蔵庫の中身どうしよう。仕入先にはどう話したらいいかな」
「それは私が言っておくよ。後で四番通りに行くからね」
「どうして?」
「家の冷蔵庫の中身が空っぽなもので」
「あ」
「家主としては、自費で食材を入れておきたい。そうするといいことがありそうだから自分で見繕いたいのだが、どうだろう?」
「はい、リクエストがあれば受け付けます」
美禰が恭しく頭を下げるふりをする。
沖島がカウンターに乗せていた鞄を手にしようとしたとき、勢いよく引き戸が開かれた。
「なんだ、いるじゃん」
引き戸を開けた張本人が、一番驚いた顔をしている。短髪の、ジーンズに蛙柄のTシャツを着た青年が首筋をさすった。
「これはこれは、大志くん」
「沖島先生どしたの」
沖島は荷物から手を離して、ちょいちょいと手招きした。
「ちょうどいいところに来たね」
「え、なにその荷物」
と言いつつも、寄ってくるのだから根が真面目だ。
「ちょっとお願いがあってね」
「なに」
利発な顔が不気味そうに歪む。
沖島は、彼が自分をよくは思っていないことを知っているので、見かければ積極的に声をかけていた。おかげで警戒されるほどには打ち解けている。素直であるが故に、彼の反応は沖島の好奇心を掻き立てる。
「いいから、いいから」
「なんか怖いんだけど」
「君、配達人でしょう。これ、お願いしたいんだが」
沖島は荷物を指した。
「いや、配達人じゃないけど」
「新聞配達してくれるだろう?」
「荷物運びは仕事じゃないって言ってるだけなんですけど」
ぼそりと呟きながらも、視線は荷物に行っているのだから、大志の人に頼まれたら断れない性格に、ほんの少し同情する。
沖島はそのまま美禰を紹介するように手を差し出した。
「こちら、美禰くん」
「知ってるよ」
「沖島先生、知ってるでしょ。学習塾の同級生。っていうか町の子供はみんな同級生よ」
「何してるんだ? 店長は?」
呆れて返した美禰に、大志が尤もなことを聞く。
店の暖簾は出ていない上に、留守かと思いきや客である沖島がカウンターに入り込み、美禰は荷物をまとめている。大志からこの状況を見れば、不審なことこの上ないのだろう。隠す気もない。大人しそうであるが、どこで手に入れるのかわからない変わったシャツを堂々と着ているところが、沖島の興味をそそった。
美禰がしどろもどろになる前に、にこやかに大志に笑いかける。
「いやあ、それが旅行に出かけてね。佐紀子くんにも暇を出したらしいから、美禰くんは私が預かることになったんだよ」
「沖島先生が?」
「毎日通っていたんだが、随分ツケていてね。美禰くん一人では不安だというので、じゃあうちが預かっているよ、と申し出たんだ。青井くんは超が付くほどの心配性だろう」
微妙に納得をした顔をして、大志が頷く。
「佐紀子くんは外に出た友人のところへ出かけたらしい。二人とも急だね?」
沖島が意味ありげな視線を送ると、大志は丸い目をさらに丸くして、ばつが悪そうに首を撫でた。
「ああ、うん」
「おや、おやおやおや」
沖島はカウンターから首を伸ばして大志の顔をのぞき見る。
どうやら朴念仁と見えた大志は、青井と佐紀子の変化を目敏く気づいていたらしい。
ぎょっとしたように大志は仰け反り、美禰が後ろから羽織を掴んで沖島を引き戻した。
「もう、先生昔から大志を構うんだから」
「面白くてね」
「どこが。やめてくださいよ」
しっしと手で払い、大志は美禰の荷物を持った。
「これで全部か――多くないか?」
「野暮だね。女性は荷物が多くなるものなんだよ」
沖島が茶々を入れると、いい顔をしない大志を美禰がぐいぐいと押し出す。
「はいはい、ありがとう。助かるわあ。コクヨウさんも行こう」
「お、ケモノ。いたのか」
大志が物珍しそうに美禰の足元を見る。コクヨウはじっとりと睨み返し、美禰の足に巻き付いた。不遜な態度を受けてもどこ吹く風で、大志はコクヨウに手を伸ばす。が、すぐさま黒い手に弾き返された。
沖島はその短いやりとりを傍目に見て、ふと引っかかりを覚えた。
どうしてだろう。コクヨウがよそに靡かないのは今に始まったことではない。むしろ美禰にひっついてまわっていることのほうが異常と言ってもいいのだが、コクヨウの拒否がやけに脳裏にこびりついた。それは何を意味しているのか。
その些細な違和感を確かめる前に、彼らは連なってばたばたと茶屋を出て行ってしまった。主に美禰が連れ立っていったのだが。
ぽつんと残された沖島の前に、カウンターに身を隠していたスズが躍り出る。ほっとしたように沖島の前で伏せ、両手の上に顎を載せた。
「相変わらず人が苦手だね」
耳の後ろを指先で撫でる。やわらかな毛先が、沖島に温もりを与える。
「君はこんなにも人を愛しているというのに、変な話だ」
スズは愛らしい口を開けて返事をする。
「私は人通り多い場所に今から行くが、君はどうする?」
スズの桜色の目が、重く垂れた瞼で半分隠れる。断固として嫌だという意思表示を受け取り、沖島は苦笑した。
瓦町にケモノは居着かない。
耐陰性のあるシダ植物でさえ、日のないこの町で生きていくために交配を繰り返して、ようかく特定の場所で何とか生き延びられるように独特の進化を経ている。さわさわとした柔らかな緑に人の手が入ることはない。
この瓦町で、どうしてか樹木が生い茂る二つの山のように、人々は自然を不可侵とする。あがめ奉ると言うよりも、触らぬ神に祟りなしの精神が強い。彼らは自然から逸した生活を営む上で、闇の中で生命力に溢れるそれらを畏怖する。滅多なことが無くては、近寄りすらしない。誰に教えられたわけでもないのに、町の住人はそれが血肉に刻み込まれたように、幼子ですら守る。
そんな環境の中に、ケモノは居着かない。山には昆虫が居るらしいが、まれに蛇を見かけるくらいだ。
沖島が引き連れる猫を、いつまで経っても物珍しげにジロジロ見るのもしようがないと言えた。
「みんな君たちが珍しいんだよ」
などと慰めの言葉を伝えてみても、スズの表情は変わらない。
「戻っているかい」
むっすりとした顔のまま、スズは伏せて動かない。
沖島は肩から落ちた羽織をかけ直しながら「わかったよ」と観念した。下駄で床をこつんと叩く。
「君が家から出るのなら仕事があるからだが、当の君は人の好奇の目にさらされるのは恐ろしいと。けれど仕事も放り出す気もない。ならばこうしてはどうだろう?」
沖島が肩に掛けている羽織を着込み、懐を開けた。
スズが飛び込むのを受け止める。
身体の小さなスズは、沖島に抱えられ、羽織の中に顔を埋めた。やれやれと言いつつも、柔らかな表情をした沖島は、暖かい子猫を抱えて茶屋を出る。
店の外は昨夜のひそめられた興奮は綺麗さっぱり消えていた。
日常となんら変わらない、闇に静かに同化した人々が生活を営んでいる。彼らはどこまでも控えめだ。囲いを突き破ることなく、はみ出すこともせず、ただ粛々と生きて、夜の空気を吸い込んで生きる。
将棋をしている老人たちなど、よく目を凝らさなければわからぬほど、景色に溶け込んでいる。長椅子の上で地蔵のようにじっと盤に向かい合う頭に向かって、沖島は軽く会釈した。提灯がつるりとした頭を橙に照らす。そこに目など付いていないのに、老人は「ああ」と頷いてうちわを持った手を挙げた。対する老人も目を離さぬまま同じように手を挙げる。
長くここで生きてきた人間特有の、濃厚な気配。何にも抗うことのない柔軟な受け入れが、諦観とはまた別の種類の強さとなって、彼らの根に張り付き、血肉として巡っている気配。
シダが進化を経て順応していくように、この町に骨を埋める人間も、ある種の進化を遂げているのだ。
外に出る人間も稀にいるが、結局戻ってくる者がほとんどだ。沖島のように、気づくと居着いていた、という珍客もぱらぱらといる。しかしよく話を聞いてみれば、外に出た者の子孫だったりする。彼らの血肉は血脈が薄くなろうとも、突然帰郷を命令するらしい。
なんとも不気味な進化なことだ。
沖島は、二人の老人の座る一つ奥の路地に足を向けた。
長屋と長屋の間の狭い路地に入ると、一気により暗くなる。青いポリバケツの後ろに誰かが隠れていても、きっとわからないだろう。
沖島はぬら光りするそれを、こつんと蹴る。スズがほんの少し顔を出して見下ろしたが、すぐに懐に戻った。
スズが探しているのは誰なのだろう。
バケツに反応を示さなかったということは、あの中に佐紀子なり青井の身体の一部も入っていないということだ。
佐紀子の身体――腕は、美禰のお守りに吸い込まれていった。誰がその腕を食いちぎったのか。
どうして壷が消え失せたのか。
あれに封じていたものが、誰になって誰を食べたのか――佐紀子を食べた――誰になって――青井になって――祭祀の日に――
沖島はちらほらとすれ違う住人に軽い挨拶をしながら、いつものようにふらふらと目的など無いように歩いていた。
頭には、壷から逃げ出した奴が、忍び込んだ青井の影にぬるりと侵入する映像が鮮明に浮かんでいる。
佐紀子を誘い出す青井。浮かれてついて行く佐紀子。松明の日が彼女の期待に膨らんだ横顔を照らす。青井は人のいい垂れ目をさらに細めて、佐紀子の手を引く。影がきらきらと光っている。破片が、さざ波のように闇の中で揺らいでいる。
美禰から離れた二人は茶屋に戻ったのだろうか。住人が居ぬ町を手をつないで歩き――影から壷の欠片を落としながら――慣れ親しんだ調理場で、青井の皮を脱いで食らったのだろうか。散乱した調理器具。飛び散った血。悲鳴が響いたとして、聞こえただろうか。社の舞台で鈴が鳴り、和太鼓が響いていたその瞬間に、誰かの命が無惨にも食い荒らされたとして、誰が気づくだろうか。
美禰は、そこへと帰って行った。
あの恐ろしいほど神気漲るお守りがなければ、美禰も壁に飛び散る血液の一つになっていたに違いない。
彼女の帰宅で、奴は逃げた。
あのお守り一つでは、奴を遠ざけることが精一杯だったらしい。あれひとつで祓うことができてしまえば、あんな忌まわしい壷の力など借りずに済むだろうが。
暗闇から下駄を一歩出し、四番通りの空気を吸い込む。
五番通りよりも幾分か活気に溢れ、明るい。すぐ隣の「珈琲」の提灯に照らされた開けた店から、豆を挽く香ばしい香りが漂っていた。胸の中にいるスズがふんふんと鼻をひくつかせる。
大きな身体を縮めてせっせと豆を挽いていた店主は、ふと何かにつられるように顔を上げた。




