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6 墨と染み


 沖島をじっと見上げる。


 それに視線だけで頷くと、シロは足を引っ込め、その場から離れた。さっと人の間を縫って消えていく。


「じゃあ、取りあえず荷物を見繕うかい?」

「はい、そうします」


 美禰は先に店に入り、慣れたようにカウンターの中に入っていった。沖島と二匹の猫もついて行く。


 二階へと続く階段は、カウンターの突き当たりにあった。

 桃色の暖簾を左手に通る。隙間から見えた様子では、昨夜の凄惨な出来事など何もなかったように澄ました顔をしていた。


「沖島先生、気をつけてね。狭いから」


 美禰が慣れたように階段を上る。コクヨウとスズはひょいひょいと上るが、狭い上に急な階段だった。沖島は下駄に注意をしながらのんびり上る。


 自室に入った美禰が猫たちと話す声が聞こえた沖島は、最後の一段に腰掛けた。


 こうしてみると、案外危ない造りだな。

 人が一人座り込むと、誰も通れない階段は薄暗く、手すりもない上に急だ。足を滑らせれば、転がることもできずに、調理場の土間に顔面から打ち付けそうだった。即死だ、と想像する。


 想像が脳裏に映像を浮かべ、眼球に幻覚を見せる。

 土間に倒れる人影。

 そこに横になっているのは誰の死体か。

 美禰ではない。


 紺の着物を着た、沖島自身だった。


 頬杖を付きながら、沖島はその映像の粗を探す。

 髪がつやつやであること。羽織をきちんと着ていること。血が一滴も流れていないこと。


 脳は想像をかき立てて不安を煽ろうとしているが、どうも貧弱な空想しか描けないらしい。もう少し写実的にしてくれなくては、恐怖は感じられない。

 自分の死んだ姿など、見たくてたまらないと言うのに。

 こうも嘘くさくてはつまらない。


 沖島の目から自分の姿を借りた想像が消える。

 まったく、根性もない。


「先生、大丈夫?」


 全く部屋に寄らないのを不審に思ったのか、美禰が部屋からひょっこり頭を出した。振り返り、手を挙げる。


「大丈夫だよ」

「紳士なのね」

「疲れただけけどね」


 美禰がくすくすと笑って引っ込む。

 沖島は、美禰がどれほどの荷物を荷造りしているのだろう、とふと気になった。

 彼女は青井が今日明日には戻らないことを悟っている。それは、他人の機微と状況を敏感に察知する美禰らしい。


 沖島は頬杖を付いた右の袖から、欠片を取り出す。

 失せた壷の欠片は、今頃「モノ担当」のシロが町中をくまなく探していることだろう。

 消えた壷、欠片は茶屋の水瓶に、調理場で倒れる美禰、食いちぎられた腕――


 頭の中にシンプルな答えが浮かぶ。


 それを意味するのは、二度と青井は戻ってはこないということだった。

 ようやく仕事と一人の暮らしを手に入れた美禰には酷すぎる状況だ。


「沖島先生」


 部屋の中から声をかけられる。


「どうしたんだい」

「荷物多くなってもいい?」

「かまわないよ。青井くんが見つかるまでは店も閉めておこう」


 沖島は試しにそう投げかけた。

 帰ってくるまでではなく、見つかるまで。

 青井がもし見つかるのなら、それは目も当てられない状況に違いない。ここはじきに閉店を余儀なくされる。美禰は家も職も同時に失う。

 ならば、見つからない方がましなのではないだろうか。


 そう思う一方で、スズまでもがついてきた意味も考える。スズは人見知りこそしないが、おっとりしていて小柄なせいか、自分から人には近寄らない。家猫の代表である彼女が家を出るというのは、それなりの理由があるのだ。


 スズは「ヒト担当」だ。


 人の入れ替わりのない瓦町で、人が消え失せることなどそうそうなく、彼女の出番はここ近年全くない。けれど、スズはついてきた。それも、美禰に付きっきりだ。


 沖島は、美禰の反応を待っていた。


「勝手に開店はできないし――ねえ、先生」


 神妙な声が返ってくる。


「このこと、おばあちゃんに伝えた方がいいの?」

「不要だよ。青井くんもいい歳だ。事細かに報告してお年寄りの不安を煽るのははばかられる」

「そうだね」


 明らかにほっとした美禰は、ようやく荷物がまとまったようにどさりと沖島の背後に荷物を置いた。

 沖島は振り返る。


「美禰くん、私に頼みたいことはないかい?」


 美禰はどきりと動揺した顔のまま、手を止めた。


「えーと、あの、荷物を」

「遠慮は無用だよ」


 沖島が言うまでは引く気がないと悟るやいなや、美禰は大きなため息を付いて肩の力を抜いた。


「先生」

「はい、なんでしょう」

「佐紀子と店長を探してほしいの」

「もちろん、請け負おう」


 鷹揚に頷く。

 美禰は泣きそうな表情で眉を下げた。不可解な状況に混乱していないわけはなく、気丈に振る舞っていたのだ。なにも覚えておらず、自分を取り巻く環境が激変していた。二十歳そこらの、安寧の場所のなかった美禰にしてみれば、絶望的な状況だろう。


「美禰くん。遠慮は無用だよ。覚えておきなさい」

「はい」

「君は猫たちに気に入られているし、なによりお茶も食事もうまい。どうやっても私の方が得をしてしまうのだから、君にこれ以上張り切られたらお返しのしようがなくて困るよ」


 冗談めかして頭を掻きながら言う沖島に、美禰は目をくりりと開いて見つめた。


「先生、優しいのね」

「おや、今頃知ったのかい」

「ううん。前から知ってた」


 いたずらっぽく目を細め、美禰はまた部屋に戻っていった。

 目元を拭いにいったのだろう。コクヨウもスズも彼女から離れない。沖島は立ち上がり、廊下の荷物を持った。


「先に降りてるよ」


 美禰の鼻声混じりの返事を聞いて、階段を転ばぬように荷物を両手に持って無事に降りると、沖島はそれをカウンターに置いた。


 閉まった引き戸に、影が揺らめいて映っている。


 細い枯れ木が三つ並び、それが中央で力強く束ねられているような、歪な影だった。上下に広がる細い枝が、引き戸の隙間を必死で探している。


 沖島は微動だにせず、それをじっと見ていた。

 薄い目が、ただ観察するように――ほんの少し面白がるように――じっとりと見つめる。


 枯れ枝は、蜘蛛の脚のようにさわさわと茶屋の入り口を探りながら、ぴたりと動きを止めた。

 両者の間に、お互いを認識した奇妙な連帯感が生まれる。

 茶屋の空気が一気に淀んだ。湿っぽいそれは足下に沈殿し、ぬるりとした不快感を伴って緊張をはらむ。


 沖島は動かなかった。


 身体は興奮に似た高揚を感じ、それは沖島の半身を強く揺さぶっていた。さあ動け、今すぐ扉を開けよと騒ぎ立て、あんな下等なものなど薙ぎ払い、力を誇示せよと甘美に囁きかける。


 自らの獣を押さえ込むほうが先決だった。

 肩に掛けた灰色の羽織が風もないのにはためく。沖島の羽織を突き破った三つの尾が、振り上がり、床を叩いた。

 淀み腐ったにおいが一掃される。水飛沫のようにきらりと風塵が店内で舞い踊り、沖島の顔を一瞬隠す。


 外は闇。誰も居ぬ闇。


 唇が動く。


 その横を、さっと黒い固まりが駆け抜けた。

 影の枯れ木が、声にならぬ悲鳴を上げて身体を捩る。

 カウンターから飛んだコクヨウが、そのまま引き戸へ全身を伸ばした。枯れ木が仰け反る。しかし、逃げることはできない。


 沖島の背から伸びた背丈ほどある尾が、床に触れ、引き戸まで影を伸ばして縛り付けている。コクヨウがその線上を走る。ぐっと前足を沈め――引き戸をすり抜けた。


 戸に彼の大きな影が映り込む。

 すると、次の瞬間、引戸はびしゃりと墨を掛けられたように、一瞬にして黒に染まった。染みがじわりと広がっていく。


 沖島は尾を仕舞うと、暖簾を押し上げ、階段を見上げた。


 スズがちらりとこちらを見ていた。

 軽く頷くと、再び美禰を足止めするために消える。

 コクヨウがカウンターに飛び乗った。

 灰褐色の目を細め、沖島の手にすり寄る。顎を撫でると、コクヨウはカウンターに鼻を付けた。ことんと小さな音がする。


 コクヨウがくわえていたのは、藍色の欠片だった。


 裏返すと、小さな文字がびっしりと埋まっている。沖島は袖から出した欠片も置いた。同じものだ。


 沖島は記憶の彼方にある壷をなんとか思いだそうとした。

 確か、筒井が両手で抱えらるれほどの大きさだった。飾り気はないが、表面がぬらぬらと光り、狂気が閉じこめられているのが傍目にもわかる壷。その欠片が、目の前で養分を失って干からびて転がっている。


 手のひらに握り込めるほどの小さな二つの欠片に、沖島は思わずため息をついた。


「一体いくつあるのやら」


 やれやれと欠片を袖にしまう。


「シロはどうだい?」


 沖島は、コクヨウの瞳をのぞき込んだ。

 瞳孔がカッと開き、黒い円の中心で、糸くずがちらりと横切る。




 ズームアップされる糸。白い糸。いいや、シロのしなやかな体躯。背後に提灯の明かりがぼんやりと映し出される。シロは歩いている。目的を持つように、迷うことなく、前足をリズミカルに出す。髭はぴんと伸び、何かを探知するように動いている。ふと気づいたように駆け出し始める。路地に入り、暗がりの壁を駆け上った。瓦屋根の上に上る。シロの目が一つの瓦を注視している。きらりと光る欠片が、ガタガタと小刻みに震えだした。黒煙が立ち上る。


 シロが小さな口を開けた。

 二つの牙が艶やかに光る。


 その切っ先から、とろりと蜂蜜色をした液体が滴った。その瞬間、空気が抜けていく気配がした。シロと欠片を囲んで真空となり、滴った水滴は丸くなる。夜空を湛えたそれは、欠片へとめがけて、急加速する。


 欠片の表面に張り付くとすぐさま浸食し、黒煙を消した。欠片を包んだ水滴がふわりと持ち上がる。シロは鼻をくんと動かし、それを従えると周辺の緊張を解いた。


 密度が戻ると、タッと瓦屋根から飛び降りる。路地を歩く彼女の尾に水滴が吸い寄せられ、吸収される。シロはすんと鼻を鳴らして、今度は三番通りを歩き始めた。




 沖島は様子を見ながら、シロの尾に意識を集中させる。

 細長いそれはバランスを取るように左右に揺れるが、その内側がほのかに光っていた。円が五つ。どれもきちんと欠片を包んでいる。

 沖島は目を見張った。


「ほう。シロは相変わらず仕事が早い」


 コクヨウがちらりと自分を見上げる。瞳孔はきゅっと狭まった。扉を閉められ、沖島は苦笑する。


「君の仕事はとても几帳面だ。恐ろしく完璧な鉄壁防御だよ」


 額を擽ると、コクヨウは怪訝な顔を向けて去っていった。爪を出されなかっただけありがたいのかもしれない。


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