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5 朝の空


「では双方の挨拶も済んだところで、そろそろ町に降りようか」


 沖島が立ち上がると、スズが一番に出窓から降りてきた。

 内心驚く。

 なぜスズが。

 彼女の小さな顔に視線を送っても、返事は返ってこない。


 すると、スズに続いてシロも降り、沖島の足下まで軽快にやってきた。コクヨウは美禰に付きっきりだが、やはり付いてくる。

 なんてことだ。三匹揃ってとは、また随分久し振りな。


「本当にいいの? 忙しいんじゃない?」


 美禰が顔色を伺うように聞いてくるので、沖島は鷹揚に頷いた。無垢な目で微笑む。


「大丈夫。この家に女性の物などないからね。私の着物を着させるわけにはいかないし、私物は何でも持っておいで」

「うん。うん、じゃあ遠慮なく」


 沖島は台所の火の元だけをさりげなく見ると、三匹と一人を連れて玄関に向かった。

 間口の広い玄関で草履を履いていると、美禰は「あ」と呟いて消え、戻ってくると沖島の肩に羽織を掛けた。


「沖島先生、ちゃんと羽織あるじゃないの」

「おお。久しぶりに見たな」


 沖島は肩に掛かった灰色の羽織を撫でる。シャリッとした紗の涼やかな感触が、随分懐かしい。前に着たのはいつだったろうか。


「貸していただいた部屋にあったのよ」

「へえ」

「せ、ん、せ、い?」


 気のない返事をすると、美禰の訝しげな声が背中に刺さる。笑って受け流し、沖島は礼を言った。


「ありがとう。少しはましになったかな」

「三十二歳くらいに見えるわ」

「ほう、二歳若返ったね」


 沖島がにこにこと笑う顔を、美禰はくすぐったそうに見上げた。サンダルを引っかけ、つま先でトントンと地面を叩く。


「先生って年齢不詳ね」

「そうかい?」

「そうよ。髭と髪が整ってれば身綺麗でちゃんとして見えるのに。寝起きは五十と言われても頷けちゃうわ」

「おや酷い、傷ついてしまったかもしれない」

「嘘だあ」


 美禰が無邪気に笑う。

 その表情からは、ほのかな緊張も、肩肘を張るを遠慮も消えている。


 引き戸をがらがらと開けると、三匹はするりと出て行った。先に出た猫たちを追って沖島も出る。何気なく竹で編まれた傘立てを一瞥していると、美禰が目敏く気づいた。


「雨、降るかしら」


 戸を閉める沖島も、どうだろう、と相づちを打つが、三匹が外出をしているのを見てみれば、きっと降らないのだろう。


「まあ降ったとしても、雲行きが怪しくなったら退散しようか」

「はい、了解」


 家の鍵を閉め――と言っても、誰もこの辺には近寄らないが――引き戸の両側の壁に掛けられた門灯の一つを引き抜く。コンセントプラグを織り込むと、美禰に渡した。家を照らす明かりは減ったが、無駄に広く、町の灯りの届かない敷地で美禰の足下を照らす重要な役割を担った。


 砂利の敷き詰められた庭の隅を、しゅっと影が横切る。

 猫たちはが屋内から解放されたように思い思いに駆けていた。シロはブロック塀に優雅に飛び乗り、狭い足場でステップを踏むように前足を伸ばす。コクヨウは闇に同化しているが、灰褐色の瞳が美禰の持つ門灯できらりと浮かび、その後ろをスズがついて回る。


 沖島がふらりと歩けば、彼らはすぐに尾をひらりと翻し、ついてきた。美禰が付いてきているのを確かめるために振り返ると、平屋の瓦屋根に、星が塩粒のように細く反射しているのが見えた。本当に届いているかは怪しいが、少なくともそれは輝いている。とても些細な光だが、届いている。


 美禰はというと、門灯で必死に足下を照らしていた。立ち止まっていた沖島に気づかず、背中に思いっきりぶつかる。


「あっ、ごめん先生」

「いいや。鼻は大丈夫かい」

「ぺちゃんこになってないといいけど。どう?」

「大丈夫だよ」

「ええ? 本当かなあ」

「本当、本当」

「ならいいんだけど。ここ、暗いもんだから、つい必死になって足元だけ見てたわ。砂利って歩きにくいのね」

「ああ、そうか」


 沖島は、鼻を気にする美禰に軽く頷いた。


「町はどこも石畳で整備されてるからね」

「あれって、わざと白い石使ってるんでしょう。正解ね。提灯もぎっしりで窓の明かりもあると、夜空の町と言えど結構明るかったのね」


 美禰は門灯をしっかり持ったまま、ふと仰いだ。何かを確認するように、広く澄んだ暗い空に目を走らせる。彼女の手元が淡く光り、顔を幻想的に映す。


「うん。ちゃんと朝の空だ」


 美禰の無垢な目に、星の瞬きが映った気がした。ビー玉に閉じこめられた輝きに似ている。


「よく違いがわかるね」

「わかるよ。ほら、月がないでしょ?」


 美禰が夜空を指さす。

 習って空を見上げる。確かに、昨夜見た細い月は見当たらなかった。


「ないね」

「それに、空がほんの少し明るいのよ」

「ほう? それはわからないな」


 ブロック塀と雑木林に囲まれた無駄に広い敷地の中で、足を止めてぼそぼそと誰かと話していることに奇妙な心地になる。空を遮る物は何もなく、人々の営む明かりも届かない町外れの、静かすぎる場所。


 見上げている空は紺碧がより深く、誰かが袖を広げているように大きかった。自分がちっぽけで取るに足らぬ存在であると知らしめるような威圧感に囲われ、逃げ出さぬように睨まれている。沖島の身体はすくまないが、不快感は胸の奥で蜷局を巻く。


 しかし、隣で見上げる美禰の目には違うように映っているらしい。


 美禰はやわらかに呟いた。

 唇の動きが、やけにゆっくりと動く。


「わかるわ。朝のにおいが空に溶けてるもの」



 ――ほら、朝のにおいよ。



 沖島の肩を、甘い声が叩く。

 既視感にめまいを感じながら、胸の奥に広がった滲むような痛みを振り切り、狐のような目を細めた。シロがぴくりと反応し、足下にすり寄る。


「もう一つ、持ってこようか?」


 沖島が美禰の手元を見て聞くと、美禰は思い出したように足を進めた。緩く首を振る。


「ううん。家に明かりがないのは駄目よ。そういえば先生の家は提灯下げてないの?」

「ここに目印は不要だろう?」

「確かに」


 二人で揃って歩き始める。

 砂利を踏みしめるささやかな音が響きわたっていく。


「美禰くん、この先階段あるよ」

「了解です」


 申し訳程度についている腰ほどの小さな門を開け、階段を下りる。猫たちはするすると進み、寺の石段に合流するとじゃれるように階段を行き来していた。


 真正面の山と同じ灯籠が、石段の両脇に等間隔に並ぶ。その奥に、黒に塗りつぶされた樹木が生い茂っていた。幾つもの眼光に見える木の葉がこちらをそっと窺っている。灯籠の光はあくまでも控えめだ。山に住むならば、彼らからそっと身を隠し、息をひそめてなくてはならない。


 しかし、あちらの山よりは何倍もましだ。

 沖島は、神気が溢れ漂う目前の山を薄い目でじっとりと見つめた。


 黒い山。闇に溶ける低いそれは、木の葉のきらめきが強い。日の当たらないこの瓦町で、あそこはやけに内側から光を放っている。それは人を寄せ付けず、思念も弾き飛ばす。鳥居は山を守る砦だ。何から守っているのか。町の静かな住人か。そこに紛れる異質なものか。どちらにしろ、あそこは簡単に人を受け入れはしない。

 こちら側は、こんなにも快適だというのに。


「変なの」


 そろそろ慣れてきたのか、美禰は足元を見ながら笑った。 美禰はさりげなく沖島の方にも明かりを寄越し、猫たちにも時折視線を向けている。

 沖島は意識を隣に戻す。


「うん?」

「昨日は神社で、今日はお寺の道を通ってるなんて」

「町の人たちは、あまりどちらにも近寄らないからねえ」


 沖島はのんびりと相づちを打った。

 昨日の祭祀か、身内の命日にしか、どちらの山にも関わらない。聡い彼らはそうやって、この瓦町で暮らしていく。


 町の明かりが強くなってきた。

 眼下の町は、縦横に几帳面な線が引かれ、その上で点となった光が数珠のように繋がっている。人々が生活を営む奥ゆかしい気配が、そこに安堵をもたらす。


 真っ直ぐに伸びる五番通りに降り立つと、一気に華やかな提灯の彩りが頬を掴んだ。

 長屋の窓も簾越しに光を届けているのを見上げ、沖島は朝がきたのだとようやく実感する。


 人通りはまばらにあり、青々とした葉物が飛び出す買い物袋を持って歩く中年の女や、工具箱を持った作務衣の男が若い男を従えて歩いている。長椅子には老人が思い思いにくつろぎ、いつものように将棋に興じている。ちらほら昨夜配られたうちわを持っている。



 隣の美禰が、肩を落とす。

 山に挟まれる場所に位置する五番通りの端。茶屋の提灯はついてはいるが、暖簾が掛かっていなかった。青井が戻ってきていない証拠だ。


 美禰が渋っているのを感じ、沖島は先に歩いた。下駄がカラコロと陽気な音を立て、猫たちは町に降り立った途端、沖島のそばを離れないように付き従う。

 美禰もややあって追いかけてきた。


「先生」

「はいはい」

「あの」

「ああ、やっぱりいないね」


 暢気に返す沖島に、美禰ががっくりと肩を落とした。握っていた服の裾を離し、手を握っては開く。緊張していたらしい。


「ほら」


 沖島は引き戸を大きく開いて見せた。


「ついでに鍵もかかっていなかったときた。不用心だが、この町じゃ心配は不要か」

「沖島先生……」

「店長も佐紀子くんも、どうしたんだろうね」


 沖島は首を傾げ、ちらりと視線だけで見下ろす。白い顔に乗った狐目が、店をそろそろと覗く美禰の表情を些細な変化を見逃さまいとしていた。


 眉を不安げに寄せながら、美禰は店の中を窺っている。

 佐紀子の腕を抱えて倒れていたのだ。もし覚えているのなら、ここであった出来事は身体をすくませるほどの恐怖が降りかかるはずだが、その顔は困惑が大きく、恐怖にひきつってはいない。

 どうやら本当に覚えていないようだ。


「ねえ、沖島先生」


 美禰が肩に掛けたままの羽織の袖をくいと引く。


「どうかしたかい」

「先生によると、あたしは甘酒で酔って記憶をなくしたそうだけど」

「けど?」

「先生はどうしてあたしを見つけたの?」


 美禰がきょろりと目玉を上げる。


「帰り道だからさ」


 沖島は間髪入れずに答えた。


「珍しく茶屋の電気が付きっぱなしになってるから、妙だなと思ってね。倒れてる君をそのままにはできないし、なにより青井くんもいないままだったもんで、連れて帰ったんだよ」

「先生、おぶってくれたの」

「浴衣の女性をおぶるのは申し訳ないので、担がせて貰った」


 沖島が自分の肩をとんとんと叩くと、美禰は瞠目し、すぐさまパッと両手で顔を覆った。


「もういや。絶対甘酒なんて飲まない」

「そうだね」


 適当に返事をしておく。沖島は、シロが店の前の水瓶の前で足を止めている方が気にかかっていた。

 白い柔らかな尾の毛が逆立っている。彼女の小さな鼻がひくひくと髭とともに動き、藍色の目は瞳孔が開いて獣の色を濃くしていた。すっと足を水瓶の踏ちに掛け、身体を持ち上げて水面をにおう。


 ぴくりと耳が後ろへ傾いた。


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