4 愛される娘
「ごめん、勝手に片づけて。って謝った方がいい?」
「いいや。君は賢い。必要はないよ。むしろ感謝しないといけないのは私の方だね。ありがとう」
「先生ならそう言うと思った」
食器の片づけを美禰に一任し、沖島はゆったりと座って窓の外を見た。
地面からほのかに光る町。道筋が光り、そこに生きとし生けるものがいることを静かに主張している。
「先生の家って、町がよく見えるのね」
美禰が窓に背を向けたまま、かちゃかちゃと食器を鳴らしている。
「ああ」
「町からは見えないのに」
くすくすと笑う声。
耳障りの言い声に、沖島は目を伏せた。
スズが飛び乗って、膝で丸くなる。その縞模様の背を撫で、さてどうやって美禰を追い出すべきかと考える。彼女はこちらの答え柄を待たずにハキハキ喋るので、言いくるめるのは一苦労しそうだと想像がついた。取りあえず、昨日の惨状については忘れてくれているのがありがたい。それとも、忘れた振りだろうか。
「美禰くん」
「沖島先生」
皿洗いを追えた美禰が、とんと湯飲みを置く。緑茶の香りに引き寄せられ、うっかり受け取っていた。
温度もちょうどいい上に美味いことを、茶屋の常連である沖島はよく知っていたからだ。
「店長が――貸し主がいないのに、厚かましく間借りするのはできない。店を開いていいのかも判断できないし、勝手なことはしたくない。これはあたしの我が儘よ。お願いします。できることは何でも手伝うので、店長が戻るまであたしをおいてくれませんか」
美禰は、沖島が緑茶をすすっている間に一気にまくし立てた。理由と条件と期間を提示して、こちらが代替案を出すのを華麗に阻止したのだ。なんと策士なことか。
沖島は細い目を見開いて、小さな頭を下げる美禰を見つめた。
出番だとばかりにコクヨウがやってくる。ついでにスズも膝の上から桜色の目を向け、シロは鳴き声で美禰を後押しする
。
「四面楚歌だね」
肩をすくめた沖島に、美禰が顔を上げる。
「いい?」
と窺ってはいるが、その顔は「勝った」と言わんばかりにキラキラしていた。美禰は聡い。ずけずけと物を言っているように見えるが、沖島のパーソナルスペースを見抜き、それ以上は入らぬように注意を払っている。人の間を渡り歩いてきた彼女の嗅覚だろう。美禰に対しての、人への細やかな気遣いへの信頼が、彼女を拒否するという選択肢を消去していた。
「そう言えば、困ったらおいでと言ったのは私だったような。どうだったかな」
沖島がとぼけながら聞くと、美禰の顔に喜びが広がった。
「うん、沖島先生だったよ」
「そうか。では有言実行しないとだね。どうぞ、うちにおいで」
「よっしゃ。じゃなかった、ありがとうございます」
無邪気に言いながらも、美禰はきっちりと頭を下げた。今度は感謝の意が込められているのを受け取り、湯飲みを持ったまま廊下を指さす。
「私の寝室のもう一つ奥に、使ってない部屋があるから好きに使っていいよ。鍵も付いてる。ああ、掃除を」
「あたしがする。先生はゆっくりしてて」
「そうかい?」
美禰は仕事を与えられたとばかりに喜んで立ち上がり、廊下へと向かった。当然のようにコクヨウがついていく。
美禰はついてくるコクヨウに気づき、微笑んだ。
心底安堵したような、気の抜けた横顔。
遠回しに帰るように言う前に先手を打ってきた。美禰にしてみたら大きな賭だったのかもしれない。もし自分が承諾しなかったら――いや、美禰は受け入れられることを見越して頼んできたのだが――彼女が多くはない荷物をまとめて、町を出て行く姿が浮かんだ。沖島はスズを撫でた。
彼女が同意するように左手を舐める。
「とても、素直ではない子だね」
苦笑すると、スズは小さな口を開け、か細い声で鳴いた。
美禰が部屋から出てきたのは、それから一時間後。
沖島は広くなったテーブルで新聞を広げていた。
シロは時間になると新聞をくわえて来てくれるのだ。ばさりと足下において、また出窓へと戻る。中々つれない子ではあるが、甘えるタイミングも押さえている、手強い女性を相手している気持ちにさせられた。スズは彼女を姉のように慕っていて、沖島が新聞を広げるとさっと出窓に向かい、並んで町を見下ろしている。
「沖島先生、ねえねえ」
美禰はぱたぱたと小走りでやってきた。
「はいはい、なんだね」
「本当にあの部屋使っていいの?」
興奮した美禰が、手を力強く握る。
「広いし、窓も大きいし、何より洋室じゃないの」
頬に赤みが差しているのは、彼女が張り切って掃除をしていたせいなのか、この町には珍しい洋室のせいなのか。
沖島は首を傾げた。
「和室希望?」
「そんなまさか! ベッドなんて初めてよ!」
「埃っぽいかもしれないな」
「大丈夫。掃除してるから!」
「すまないね。ありがとう」
「何言ってるの。先生がお礼言うことじゃないんだから。本当にいいの?」
美禰が用心深く確認を取ってくるので、沖島は声を上げて笑った。
驚いたように、美禰は目を丸くする。
「どうして笑うのよう」
「だって、君、さっき置いてくれって言ってたときより真剣だから。それに洋室ならここで見てるだろう?」
沖島はダイニングと繋がったリビングを見渡した。板張りの床に、深緑の絨毯。人が寝転がれるグレーのソファ。クリーム色の小花柄の壁には、作り付けの飴色の棚が埋まっている。整理されることなく乱雑に物が置かれているのは、綺麗好きな猫たちの意見により、床には物を広げない協定が取り決められているからだった。
「そうだけど。ここは先生のスペースじゃない」
「おや。君も使うのに」
何気なく言うと、美禰は染まっていた頬をより赤くした。身体中から、喜びが溢れる。
「本当はすっごい素敵だなって思ってたの!」
美禰はリビングを見回す。
「この灰色のソファも珍しいし、この棚だって洋風だし、漆喰の壁じゃなくて花模様があるなんて、可愛い。なにより大きな出窓が素敵。先生、片づけてもいい?」
掃除を嬉々として申し出る美禰に、沖島は取りあえず「また今度」と返した。
「今日は、君の荷物を引き取りに行こうと思うのだが」
「いいの?」
「家で着替えてきたようだけど、着替えは持ってきていないようなのでね」
沖島が笑んで言うと、美禰は神妙な顔を作った。
「荷物持って押し掛けたら、それこそ脅迫じゃない」
「いや、中々押しの強い頼みだったが?」
「うん。先生なら遠回しに帰れって言いだしそうだったから、それなら先に言っちゃえって思って」
「だろうね」
「先生、お仕事は?」
美禰は小首を傾げて聞いてきた。言われて「ああ」と沖島はぼんやりと曖昧な返事をする。
忘れていたわけではないが、筒井から請け負った仕事よりも、美禰の惨状の方が衝撃が大きかった。あの調理場で、彼女の死を覚悟した後の、指を押し返す脈を感じた安堵との落差で、思ったよりも精神が疲弊していたようだ。
その美禰が何事もなかったように家に馴染んでいることで、ある種の麻痺が頭の中で起きていた。非日常が、日常の顔をして隣にいる。
「先生? お仕事は?」
「あるような、ないような」
としか答えられなかった。
美禰が知的な眉を片方だけ器用に上げる。
「それは、大変ね?」
「ああ。そうなんだ」
「そう」
依頼相手が神主の筒井だろうが、八百屋の婆さんだろうが、曰く付きの壷だろうが、無くした五百円のペンだろうが、依頼を受けた以上は詳しいことは他人に口が裂けても言わない。相手との信頼関係は、失せ物探しの看板を掲げる上で最重要事項である。
美禰もそれは承知している。
彼女の怪訝な表情は、内容を聞いているわけではないことを沖島が理解しているにも関わらず、濁したからだろう。
こではっきりあると言えば、彼女は何かと遠慮をするだろうから、と思ってのことだったが、美禰には「適当な沖島先生」と呟かれてしまった。腰に手を当て、やれやれと見下ろしてくる。
「手伝えることは?」
彼女の動じなさに感慨深い思いに浸りながら、沖島は湯飲みを差し出した。
「お茶を淹れてくれるかな」
美味しかったから、と付け足すと、美禰は困ったような、それでいてはにかんだ笑顔で受け取り、真っ直ぐ言った。
「いいけど、そのボサボサの長髪と髭を、どうにかしてきてね」
「おや」
反撃を受けて頭を掻く沖島に、コクヨウがちらりと視線を寄越して鼻を鳴らす。どうやら長いつきあいの自分よりも、美禰のことが好ましく感じているらしい。特にコクヨウは顕著だ。隠す気がさらさらないのが、飛び抜けて気高く凛々しい彼らしかった。出窓で毛繕いをする二匹の物言わぬ視線にも見送られ、沖島は渋々身支度を整えにダイニングを出る。
寝室の廊下の一つ隣。麻の暖簾をくぐると、ぷらんとつり下げられた電球が、ガラスの内側で赤々と光っていた。いつもは薄ら寒い狭い廊下に、家庭的な空気が残っている。人の気配とはこんなにも濃厚に残るのだろうか。自分ではない、どこかやわらかな気配が、細い糸となって歌うように家の中に漂っている。
それを辿ると、水道の蛇口を捻る音が聞こえる。次いで、水が勢いよくやかんの底で弾かれる音。コンロのつまみを回す音。火がつき、美禰がふんふんと鼻歌を歌う。
がらりと変わった家の雰囲気に戸惑う反面、不思議と嫌悪感はなかった。
この家が、彼女を受け入れている。
絶妙な距離感で立つ美禰を、愛しくなるほどの哀愁で包んでいる。彼女をそっと守り、慰めようとしている。
剃り残しのないように丁寧に髭を剃り、毛先の絡まった髪をどうにか一つにまとめて紺の着物に着替えて戻ると、美禰は待ってましたとばかりに湯飲みをテーブルに置いた。
弾けるような笑みで大きく頷く。
「うん。綺麗になりました。少し若くなったわ。三十四歳くらいに見える」
「それは、ありがとう」
「先生、三つ編みしてみる?」
「では今度頼もうかな」
至極まじめな顔で返すと、美禰は声を上げて笑った。
沖島は程良い温かさの緑茶を啜る。
美禰は手持ちぶさたなのか、ふらふらしたかと思うと、出窓に寄った。後ろで手を組み、二匹に話しかける。
「シロさん、スズさん。少しの間お世話になることになったの。よろしくね」
美禰が軽く会釈をすると、二匹は顔を上げて鳴いて答えた。小さな白い牙がつやつやと光る。
「ご丁寧にどうも」
などと美禰も言い、二匹の背を撫ではじめた。コクヨウが横から出窓に飛び乗り、邪魔をするのかと思いきやおとなしく伸びをして座る。
一枚の絵のようだ。
横長の出窓の額縁は橙色にほのかに光り、紺色の背景の前で、女が猫と戯れている。どちらも微笑むように目を細め、言葉にならぬ意志の疎通をしているのが伝わってきた。絵画の下の銀のプレートには「愛される娘」と題名が書かれている。
二匹とも満たされたような柔らかな顔で、美禰の手にすり寄った。安堵したように、笑みが深くなる。
沖島は、自分の淹れたものよりも遥かに美味しいそれを飲み干し、その光景を邪魔せぬよう、静かにテーブルに置いた。




